言葉を発することすらままならないこのご時世で、選びはじめたことです。

今年3月、私の「新入社員」が終わった。
20人いた支社の同期は4人減った。
「同期で飲もって話してるけど来る?」と消極的に誘われた飲み会はその後音沙汰がなく、さりげなさを装いながら開催の有無を確認するとそのまま流れたのだと知らされた。
開催できなかったのはご時世もあるし仕方ない。本当は小規模ながら開催されていて私の参加だけが流れたんじゃないかと訝しむ気持ちも少しある。仮にも私は誘われていたのだから中止になったことすら当日まで知らせてもらえなかった事に対して憤ってもいいのだろうか。たかが飲み会一つで思い悩む面倒臭い奴だというのは自分が一番よく分かっている。
より良い選択こそあれ感情に正解など多分ない。それでも人間関係に対して力加減が麻痺している自分の、感情を選び取る握力に自信がない。
人間を上手くできない私のような奴まで漏れなく誘ってくれた幹事に感謝するべきだろうか。あまり謙虚さが極端すぎるとそこからは卑屈の匂いが漂う。感謝するべきだなんて思考している時点で既に歪んでいるのだからいい子のフリなんぞいい加減辞めちまえと右斜め後ろで第三者のふりをした私が嘲笑っているが簡単に辞めれるようならこんな煩わしい思考回路に陥るものか。結局は「あーそうやんな、ありがと」とかなんとか適切に返信したが、既読をつけてから返信までの長さは私の性格の悪さを露呈しただろうか。「ごめん返信忘れてた」とわざとらしく文頭を飾って保険をかけている文面は後から見返すと気色が悪かった。

生きている限り、毎秒選択を続けることになる。
苦痛に感じるのは、人間があまり向いていないのかもしれない。
それとも、向いている人なんていないのだろうか。みんな、人間として問題なく見えるように辛うじて振舞えているだけなのだろうか。二十歳になれば大人という生き物になるのだと漠然と思っていたけれど、何も変わらないことに焦って大人の振りをして誤魔化した。誤魔化しがそのまま上手くなっただけで中身は何も変わっていないのに、いつの間にか大人っぽいね、お母さんみたいと何処へ行っても言われるようになった。
誰がお前のお母さんだ。自分の面倒くらい自分で見ろよ鬱陶しい。

自分以外の人間が何を考えているかなんてわからない。
わからないのは怖い。だから黒目の動きから、目尻から、眉間から、口角から、手を口にやるその仕草から、貧乏ゆすりの速度から、足の組み方から、鞄を置く位置から、予測しようと試みる。でもそんなのどこまで行ったって予測以外の何でもない。妄想の域を出ることはない。
貴方は何を考えますか。貴方の思考に触れる機会をこの私に頂けるのなら、どうか文字にして、形にしてそっと置いて欲しいのです。会話という暴力的速度を伴わない文字で、文章で貴方の脳味噌の中を垣間見せて欲しい。

私達は言葉で思考するらしい。大学の教授はそう言っていた。だから普段関西弁で会話をする人は関西弁で思考するのだそうだ。つまり、私達は自身が持っている語彙でしか思考ができない。手持ちの語彙で表現できない感情は形になることなく漂い、薄れて消えていくのだろう。消えてしまうのを防ぐためには言葉にするしかない。感情に匂いや風景で色がつくように、文字で形を与えてやらなければそんな感情は初めから存在しなかったように消えてなくなってしまう。

私は今年、思うままに文章を書くことを選択した。文字に縋ることを選択した。
表現する力がないが故に薄れて消えていく感情を無かったことにするのが、存在しなかったことにして目を伏せているのが我慢できなくなった。
無様だと思う。綺麗な文章にならなくて何度も破り捨ててしまいたくなる。
それでも選択し続けようと思う。思いの儘を、書き続けようと思う。
上手くいかなくても、逃げず言い訳せず文字に縋りつき続ける。そして誰かの、貴方の声が押し込まれた、刷り込まれた文字を肺一杯に吸い込みたい。




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