運転席の真後ろの席

ある日
新宿の大きなバスターミナルから出発した。住宅街を走るバスはいつ払うかどこで降りるか、よう乗り方がなんかぜーんぜん分からなくて苦手だけど、高速バスは座席指定で案内もあるからそこまで苦手ではない。

昨日までの台風の影響で欠便が相次いだけれど、なんとか天気が回復してよかった。おかげでこの運転席の真後ろの席に座っていられる。乗り物酔いはしない方だが、バスが向かう先がフロントガラスから見えるからこの席が好きだ。

学生時代に合唱団で指揮者というものに初めてなった。それからなんだかんだもう7年くらい指揮を振っていて、とうとう今年から自分が所属していた大学の合唱団に指導に行くようになった。「プロでもないのになぁ…」という姿勢と「自分にできることならまぁ…」という姿勢が隣同士で座っている。天使と悪魔みたいに歪みあわず、ただ並んでいる。

そういうわけで、夏休みの合宿で指導するために、いま、高速バスに揺られているのである。車窓からは富士山が見えているけれど、別にずっと見続けられるほどでもないから、楽譜を読みながらあれこれ考えている。しかし、このバスに乗るためにかなり早起きしたのでもちろん眠い。夏も終わりに差し掛かっているけれど、車窓から入り込む日差しはまだ暑い。車内の空調の効きが悪くてじめっとする。寝るには良くない環境だが、しかし眠いので、ひと眠りする。


目を覚ましても景色が変わっていないから、どれだけ時間が経ったか分からない。高速道路を走っていると今どこにいるかよく分からなくなる。寝ている間に落とさなかったから手に持っていたスマホで地図アプリを開くと、すっかり目的地に近づいていた。まあ、当然だが。

流石に準備が足りていないので、慌てて楽譜を読み直して演奏計画を立てる。どう演奏しようか考えているとき、いつもいつも指揮者の役割というものを不思議がっている。

どうしてわたしの頭の中の音楽を実現させようとすることができるのか。正確にいえば、どうして歌い手である彼らがそれを許してくれるのか、不思議でならない。指揮者というだけで演奏を主導し、指示を出すことができるこの特権は一体何が生み出し、そして何が支えているのか。ましてわたしはいま、彼らを指導する立場で参加しようとしている。それは、何かとんでもない権力を背負っている気がする。

背筋を伸ばして、バスが行く先を見つめる。この先は大きく右にカーブする。十数秒してバスはその通りに進む。わたしはバスの行き先が分かるだけで、バスの行き先を決めることはできない。運転席の真後ろの席で、ただバスが行く先を見つめているだけだ。

ちょっといい醤油を買います。