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圧倒的な【家族時代】における反婚のふるまい

わたしはひとと共に生きている。「わたしたちは決して独りで生きているのではない」的なメッセージではなく、わたしは人と共に生きている。家を借りて友達と住んでいる。

学生の頃ならまだしも、家族でも恋人でもない会社勤めの3人が集まって住んでいるのはどうやら少しばかり珍しいことらしく、一度明かしてしまうと皆いろいろと聞いてくる。どこが共用なの?食事はどうしてるの?正直もう聞かれすぎて面倒臭い。転校生がクラスにやってきたとき、こっちはその転校生の名前だけ覚えればいいけど、転校生にとってはクラス35人の名前を覚えなきゃいけなくて大変な、あの感じ。「LDKと風呂トイレが共用で、全員個室があります!ご飯は基本バラバラ!!掃除はやれるときに気になった人が!!!」と、35回繰り返してうんざりしている。

この家を借りるときもそうだ。生活について色々と聞かれた。複数人で家を借りるとき、どうやら審査に通りやすいのは家族・兄弟 > 婚約カップル・恋人 >> 女性同士シェア > 男性同士のシェア >> 男女混合のシェア の順らしい。貸す側もわざわざ面倒ごとが起こりそうなややこしい奴らには貸したくないので、この審査というのは、その関係が安定しているかどうかに大きく関係している。残念ながらそのカーストの最下位に位置しているレアな組み合わせには、信用がない。ここまでみんなが興味をもつのは、単にそれが珍しいからというわけではなく、それを構築・維持することがどうやら難しいだろうという考えを表している。

反対に言えば、家族はそう易々と揺るがない関係であるという前提がある。これが本当にそうかというよりは、そう思われていることと、そう思うべきとされていること(社会規範や道徳)に注目したい。2012年の自民党による改憲案には、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」と追加するように盛り込まれている。ここには多数の意見があり、そもそも「家族」とはどういう意味か、それが「社会の自然かつ基礎的な単位」なのか、そしてそれらは「助け合わなければならない」理由になるのか、などだ。それだけではなく、「家族」については本当にさまざまな議論がある。法的に家族となる範囲をどこまで拡張させるか、誰がケアを担うのか、資本主義に絡め取られていないか、などだ。議論といえば幾分か知的に振る舞い、発展の一歩を着実に踏み締めているような気がする。しかし、わたしは法的に「家族」を形成するために必要な婚姻制度に対して、多数の本質的な不正義を含んでいると睨んでおり、結婚をあまり賛同できるものとはいえないと思っている。その点で、このシェア生活はわたしにとって、反婚の仕草である。

「誰かと共に暮らす」というのは、すさまじいほどの胆力が必要になる。異なる価値観があり、バラバラの考えがある。当然ながら衝突し、自分の思う通りの生活はままならない。それでも、互いが少しでも豊かに暮らすために、それでいて互いを傷つけないように工夫しなくてはいけない。その工夫こそ、他者への思いやりの表れであり、時にわたしたちが愛と呼ぶものではないだろうか。家族には、無邪気に愛が込められている。この無邪気さは時に有害で、誰かと共に暮らすことへの工夫を誰かに押し付ける。家族という簡単には揺るがない関係に甘えて、この工夫を軽視し、自らはこの胆力を決して養おうとしない人が現れる。そうして、老後にホームに入ったころには、もう家族という後ろ盾もなく、誰かと共に暮らすにはまるで胆力のない人間が出来上がっているという、、、。

と偉そうにいっているものの、このシェアにおけるわたしの振る舞いはひどいものだ。思ったことを口に出さず胸中にしまい込んで腑を煮えくりかえらせては、穏やかな表情を浮かべて「これが大人の対応だ」と言い聞かせている。胆力はないし、もう体力がない。1年というのは短いようで、人の怒りを削ぎ、叶わない実践を諦めさせるには十分な時間だった。翻って、家族というものの盲信的な強さを思い知らさせている。わたしは、わたしは、どうしてこんなにも弱いのだろうか。

ちょっといい醤油を買います。