今週の考え事 #1 0421

水〜: 外部に評価関数があるという恐怖

 諸事情あって,なんと高専入学してから初めて"指導"を受けた.
まあ詳細は省略するのだが,どうやら僕は出席の定義を満たしていなかったらしく,またそれを注意された際の態度が悪かったらしい(課題出せばいいでしょ的な風に言ってたとかなんとか).

 実際問題行動だったのは認めるのだが,そこから考えてしまったことが
自分の内的状態がどう見えているかは自分ではわからない
ということである.いわゆる客観視についての話で,まあありふれた言論だとは思うのだけど,ちゃんと考えるいい機会だ.

(先に文脈を:
 僕は昔からよくこのような指導を受けてきた. 原因はだいたい注意されてもへらへらとしているとか反省が見られないとかそういう感じで,自分はちゃんとしていると思っていたのに! という経験が多い,なんというか"よく見られない"経験がとにかく多く,嫌になるくらい.これも特性? 高専に入ってからはやることやってればおっけ〜 というノリがものすごくフィットし,もはや今までそうだったことを忘れていた.)

客観視ってなんだ?

 世の中の人がよく言うのが"自分を客観視しろ"ということである.でもこれはどう考えても原理的に不能で,そもそも客観というのが存在する時点でそれは主観では無いから,自分が完全にそれを見る日は来ない.

 だから実際には客観をエミュレートした主観をもって客観視と僕たちは呼んでいる訳だ.
 驚くべきことに,多くの人はこれで,社会生活で困らない程度の十分な精度を得られるらしい(どうやってるの??).

 僕にはこんなことはできないので,社会で生きてゆくのであれば,当然これを他の方法で代替してうまく切り抜ける必要がある.うう.

"客観"を要素分解

 そもそもどうして客観視が必要だったかといえば,他者から見て自分はどう見えているかを確認するためである.
 どうしてそんなことを確認する必要があるかといえば,それはつまり半ば自動的に行われる合意についてそれを無下にしていないかということを確認するためだ(これだけを読むとマナーという語は近しい概念に感じるが,そうではなくより広い話である).

 近代以降私達は社会生活の中においても基本的に自由に生きるようになったが,その中で少しづつ様々な(見えない)合意が知らず知らずのうちになされてきた.
(知らず知らずというより宗教がその役割を持つことがあったかもしれないがまあそれは一旦置いておく.僕は哲学や宗教には明るくない,勉強しよう)

 つまり客観というのは合意のうち特に社会に生きる殆どの人に共有されている合意だ.
 当然社会に生きる多くの人はこのフレームの中で生きている,つまり同一なプロトコルとしてそれを持っているらしい.
 客観によって,他者はそれ自身にすら明示されない規格化が施されているのだ!
 私たちはそれに基づいて行動する人を見ることで初めて間接的に(同一かはわからないが)それを内在化するということだ.こうやって人は客観をエミュレートするようになる.

合意を明示しよう

 ということでわかったのが,客観は誰にも見えないが誰からも間接的に認知される,社会生活(コミュニケーション?)での合意ということだ.

 僕はこれがわからない.これに大変な困りを抱えていて,おそらく今更これを学習することもできない(もしくは不可能).
 そこで,客観を利用するのではなくもっとミニマルで明示のできる仮定として合意を形成する必要がある.こうすれば,定義に問題さえなければ宇宙人やコンピュータとも問題なく社会生活ができる.なぜならそれを満たすか満たさないかを再現性をもって検証可能であるからだ.■

余談:
 そういえば,どうやら世間では再現性のある考えというのをもって客観というらしい.この考えは私にはよくわからない,では再現性の無い考えとはなんなのか?
 仮定が等しいのならそこから導けることは基本的に等価であるはずだ(古典論理的な空間を想像しているので,実際には違うかも).
 しかし私たちはその仮定を明示できないので,誰しもが同じそれを持っているとは限らない.だから,一見同じ仮定系に見えて実は違う,というのが再現性のない考えとして観測されるのではないだろうか.

土〜: 生物, 訂正可能性を持つ系

なぜ科学は"最もそれらしい"のだろう?

 科学は現在主流の世界の見方だ.しかし,どうして科学は主流になれたのだろう? 別に宗教であってもいいはずである.
 そういえば,よくある誤解として"科学は正しい"というものがある.これはむしろ逆で,科学は正しさなど何も保証していない

 これはとても奇妙な性質だ.科学は正しさを保証しないのにも関わらず,最もそれらしい解はいつも科学が持っている.
 逆に,宗教は"正しい"ことをいつも語るはずなのに,それらしさ,世界の良い見方であるという気はしない.

 実は科学のそれらしさは訂正可能性が保証している.科学はいつでも訂正可能(反論ができる)ため,既存の理論よりもそれらしい理論が構築されたりすればすぐに入れ替わりが起きる.こうやって常に科学は進化することが可能なのである.

考えやすい例: 元素説

 具体的には,例えば"元素"を上げてみよう.
 世界は元の組み合わせでできており,その元とは… という論理は変わっていないが,その内容は大きく変わっている.
(現在では元素といえば原子のことを指すが,ここでは必ずしもそうではない)

 古代ギリシアの四元素説や漢の陰陽五行説に始まり,エーテルはあるとかないとか,色々と紆余曲折あって19世紀には原子が発見された.
 ここで原子こそが元素であると考えられたが,更に一世紀経つと今度は素粒子が発見され,現在では素粒子こそが元素であると考えられている.

 このように進歩するためには,常に反論ができないといけない.原子説が唱えられたころに"いいや,水素はもっと細かく分割できますよ"と言って実験的根拠を示せば,否定されることは無いだろう.いや,むしろ否定する論理を作ってはならないのである.
科学は"これだけが正しい"という主張をすることができない系なのである.

 だが,これは一つ原理的に不能なことを作る. それは科学が究極になったことを示せないということである.

科学は生物と似ている

 実は,同じようなことが生物でも言える.生物はいつでも変異し,そして種が究極になたことは示せない.
 これは訂正可能性を持った系全般で言えることである.

 いつでも変わる可能性を残しているからこそ常にその時その時で最良の解を得ることができる,というのはどうやら訂正可能性のとても強い性質のようだ.
つづく


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