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みんな「出来ることはやっている」ということ。

一度noteを書くと、「まだ書きたいなあ」と思ってしまいます。どーせ長続きしないとして、それを理由にこのモチベに蓋をする必要もあるまい。
Twitterでは書けない事、少し語りたいことがございます。

過去記事にて公開しておりますが、昨年の僕はこれでもか、と言うほど色んなことがありました。
家を買い、子が出来て、法人化し、長屋を借りました。
目まぐるしい生活の中で、自分のキャパシティを計り知れず邁進しておりましたが、じわじわと追い詰められている事に気がついたのは2022年に入ってすぐごろ、だったかしら。

何もかもに不安を持つようになり、とにかく日々、焦燥感に襲われていました。
具体的に何が不安なのかもわからず、ただただ未来がうまく行く気がせず怖がっていたのです。

そんな胸の内を色んな人に相談したり、愚痴を聞いてもらったりしたんですが、なにしろ具体的な悩みの内容がないもんだから、みんなきょとんとしてしまう始末。
貴重な時間を頂いたのに、とまた落ち込んだり。

梅雨、6月の半ばごろに、僕の雇っているドライバーさんから「仕事を辞めたい」という旨の話をされた時です。
辞める人は引き止めたって辞めてしまうんだけども、今後の為と、それなりに思い入れを持って優遇してきたドライバーでしたので納得できず、なぜ辞めたいのか理由を聞いたことがありました。

彼は最初言いにくそうにしていましたが、だんだんエンジンが暖まって来たのか、ツラツラと弊社への不満をぶちまけ始めたのです。
具体的な内容を公開する気もありませんが、「たしかにそうだな」と思う事もあれば「何を身勝手な…」と思うような事も沢山ありました。

その時に私は怒りと悲しみの感情が渦巻く中で「でも、おれはおれのやれる事はすべてやっているぞ…?」という心の声を聞いたのです。

それから彼は辞めてしまい、職場の事業縮小なども重なり、僕は益々落ち込んでいきました。

そんな僕の頭の中では6月以来「おれはおれのやれる事をすべてやってるのに…」という声が事あるごとに聞こえるようになったのです。

8月の半ば、コロナの関係で保育園が登園御免となり、娘と過ごす日が増えました。
娘はいつも、何をみていても退屈している様子はなく、休む事なく目をキラキラさせて世の中を観察し、彼女なりに仮説を立て、検証していました。
そうして全力で世の中を見つめたら、夜になるとまだ足りないんだ!という恐らく意味合いの断末魔をあげて力尽きたら眠ります。

ようやく落ち着いて晩御飯を準備する僕にちっちゃなケツを向けて眠る彼女は、間違いなく「やれる事を全てやって」1日を終えていました。

そんな様を見ていて、表題の結論に至ったのです。

きっと世界中の誰もが、自分のやれることはやっている。
僕は誰かに期待されることや求められている事を察するあまり、物事が上手くいかなかった時に自分のやっている事が足りなかったせいだという錯覚に陥っていたのです。

逆に、他人に物足りなさを感じた時もそうです。
「彼は彼女は、自分のやれる事はすべてやっている」と考えるようになると、過不足など感じなくなりました。
世の中、すべてその結果に成り立つもの。と考えるようになりました。

もちろん、気づきもしない要望や至らない点を指摘し合うことはとても重要ですが、他人からの期待を想像して、それと自分自身を比べたら大体見劣りするので、それで落ち込むのは無駄です。

「やれる事はすべてやっている」という言葉は捉え方によって良くも悪くも聞こえてきます。
なぜだかグルグル頭を回っていたこの言葉の捉え方をいい意味に変換した時に、僕の気持ちはとても楽になりました。

ひとまずこれでしばらくは乗り越えられそうです。
誰かがこの記事を参考にするとも思えませんが、2022年9月現在の自分の備忘録として残しておきます。
未来の落ち込んでしまった自分の役に立ちますように。

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