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『NEEDY GIRL OVERDOSE』感想:NEEDY GIRL OVERDOSEという名の地獄

※この記事はゲーム:『NEEDY GIRL OVERDOSE』の最重要ネタバレが含まれています。プレイしてから読もう!



NEEDY GIRL OVERDOSEをプレイし終えてから数ヶ月経った僕だけど、このゲームが僕に残した強烈な印象は、回想する度に古傷のように僕の心を鋭い痛みで抉る。
よくもまぁこんな劇薬のようなゲームをSwitch版でも出せたなと甚だ疑問に思う。しかも今の若者に人気なのはかなり、いやマジでヤバい。現在18歳の僕ですらプレイするには少し早かったかなと思うくらいなのに。
下手なホラーゲームより怖いぞこのゲームは

そんなプレイする劇薬と謳われる本作NEEDY GIRL OVERDOSEだが、このゲームを劇物たらしめ、僕らに深々と印象を残すことを成した恐ろしい要素が多数ある。それらをこの記事でまとめてみた。

(※注意:若干、いやかなり怪文書になってしまっているので注意して読み進めてください。申し訳ない......)


・超てんちゃん(あめちゃん)という存在がリアルすぎる

 ︎︎メインヒロインを担う超てんちゃん、もといあめちゃんだが、彼女が見せるその仕草は、幼稚な面や人間臭い欠陥を抱えたあまりにもリアルな
「女の子」を体現していて、油断していると彼女が見せるゲームのキャラクターらしからぬ態度に、僕はもの凄くドキッとさせられる。

 ︎︎実際に彼女のモデルとなった人間が居るかは定かではないのだが、彼女と向かい合ってこのゲームを進めているうちに僕の思考が「超てんちゃん」をまるで実在する人物だと認識してくる。それ程までに彼女はリアルな存在なのだ。

あめちゃんは「メンヘラ」だ。
家庭による環境やその他もろもろの、彼女を取り巻く要素によって歪まされ、埋まらぬ愛情と承認欲求を耐えず求めもがき続けて生きていく。そんな人種をインターネットではたまに見かけるだろう。それが言わば「メンヘラ」であり、「あめちゃん」でも同じような傾向が存分に見られる訳だ。

しかし彼女は皮肉な事に、外面がとても美しい。
 ︎︎彼女はまるで僕らのように欠点ばかりで、内面は少し幼稚だが、それら全ての短所を「クセの強い個性」として覆さんとするばかりの彼女の美しさに、プレイヤーである僕らの立場や意思さえ揺るがされてしまうような感覚を覚えてしまう。
 ︎︎我々は魔性の魅力を持つ「あめちゃん」という女の子に対して、あまりにも無力で、僕らは画面の前で足掻くしかどうしようも無くなってしまうのである……

また、現実のSNSに目を向けてみるとTwitterには超てんちゃんの公式アカウントが実際にあって、まるで超てんちゃんは本当に存在するかのようにツイートしているし、
WSS playgroundの公式YouTubeチャンネルでは超てんちゃんの案件動画だったり、超てんちゃんの生配信がアップロードされていて、そこに広がる光景を見る度に彼女が本当に虚構から産み出された存在なのか分からなくなる感覚がして、つくづくこのゲームの完成度に恐怖までも覚える。

ゲームの中の存在とはいえ超てんちゃん(あめちゃん)は原作者であるにゃるら氏の著書『承認欲求女子図鑑』にも綴られている、現代のSNSに偏在する様々な若い「女の子」がキャラクター像のテーマになっているのもあって、
「超てんちゃん」はある意味普遍的で、偏在している存在とも言えるのがこれまた恐ろしい。この著書に載っている女性達のインタビューの内容がおそらく二ディガのルーツになっている事が伺えるので、1度は読んでみる事をおすすめする。


話は少し変わるが、NEEDY GIRL OVERDOSEのテーマソング「INTERNET OVERDOSE」は、正にインターネットエンジェルらしい歌詞で歌い始めるものの、サビ前には「私だけ見ててね」という、いかにも人間らしい「ありのまま」な感情を表現した歌詞がいきなり登場する。
この歌詞によって、インターネットエンジェルという肩書きを冠する彼女も、ただの1人の女の子に過ぎないという事実を我々は再認識する訳だ。
 ︎︎また、この歌詞にはR.D レインの「好き?好き?大好き?」という著書に登場する、女性と男性の恋仲の狭間で、ありのままの「好き」の感情をぶつけ合うような詩に似たベクトルを感じる。

実際にあめちゃんの本名はR.Dレインが元ネタであり、本作の世界観もこの著書に多大な影響を受けていると原作者が語っている。
(本名の由来はゲーム「serial experiments lain」のキャラクター「岩倉玲音」でもある)


・「超てんちゃん」という圧倒的な存在と、第四の壁で強く隔たれた僕ら



(※ここからは本格的にネタバレの話になります)

真エンディングである”DETA0”に辿り着くまで、「ピ」である僕らは、あめちゃんとひたすらイチャイチャしたり、時に地獄絵図を描きながら、そうしてやっと目前まで辿り着いた終点に、ワクワクしながらその手を伸ばした事だろう。

一体どんな最後なんだ?あめちゃんは幸せになるのか?と……

このデータを起動しようとすると
「後戻りできません」というテキストが表示される。急に怖い。なんとも危なそうだが、危ない事ならあめちゃんと存分にやってきたし、まさか二度とプレイ出来なくなるなんて訳はあるまい。
ええいままよ!と意気込んで最後のプレイを開始した。

データを起動すると、こちらが操作する間も無く彼女からメッセージが送られてくる。どうやらあめちゃん一人で100万人を目指すようだ。

プレイヤーである「ピ」を抜きに、ゲームを進めて行くあめちゃん

おくすりを飲んだりやむ事もあったが、着々と日を進めあめちゃんは目標に近づいていく……

彼女は目標を達成した
どうやら彼女は僕抜きで幸せになる道を探し始めたようだ。なんだかとても寂しいけど称賛すべきだろう。さよなら、つよくなったね。あめちゃん……


……………

さて、問題はこれだ。

今まで周りのウィンドウに執拗に妨害され、終ぞ見る事は叶わなかったが、今はどうやらそれが叶うらしい。この物語は、彼女の秘密の告白で幕を閉じるようだ。

やれやれ、ようやく終わりかと内心ワクワクし、カーソルを動かした。


結論から先に言おう。
「ピ」は存在しなかった

これを見た時、そのまま1分間固まってしまったことを覚えている。もし僕が五条悟ならとっくに封印されているだろう

情報が完結しない、いや、この現実をのみこめないと言った方が正しいかもしれない。


なぜ?なぜ?なぜ?
後味の悪さがだんだんと広がる。

しかし、非常に整合性の取れた「真相」だという事も僕の脳みそは同時に理解していた。

確かに違和感はあった。
・あめちゃんが過剰摂取した薬である筈が、プレイヤーである「ピ」の画面でもしっかりと反映されている。
・同棲している筈なのに、会話はLimeを通して。彼女が見れるのはウェブカメラ越しにのみ。

こうして考えると、辻褄が合う。

とにかく、彼女はもう僕らの手が届かない所まで去ってしまった。それどころか、僕らは彼女の内から産み出され、常に彼女の粋から出ない存在だった訳だ。
つまり僕らは彼女を依存させていた筈が、彼女無しで成り立たないのは僕らである「ピ」の方だったのだ。

この時やっと、あの「後戻りできません」のテキストの意味を理解できた。真実を認識してしまったのだ。プレイヤーである「ピ」が彼女の操り人形、玩具でしかないと認識した今、「プレイヤー」「彼女」との分断は完全なものになった。どれだけあめちゃんに好意を伝えようとも、それは彼女のお人形遊びの一環でしかない訳だし、彼女がどれだけ「ピ」を必要としても最期は捨てられる運命にある。本来ゲームにおいてプレイヤーはゲームを操作する側だが、今作『NEEDY GIRL OVERDOSE』において、僕らの存在の主導権はプレイヤーではなく、常にあめちゃんが握っていたという訳だ。

こう書くとなんだか、あめちゃんがまるで上位存在か何かのように思えてくる。彼女という画面の奥の強大な存在に僕らが影響を与える事が出来ないという状況は正に、まるで僕らが画面の中のキャラクターになってしまったみたいじゃないか。


もう最初にあった彼女に対する純粋な愛しい気持ちは、ゲームデータをリセットしようとも、後戻りする事は無いかもしれないという事に気づき、僕は恐ろしくなる。

他エンディングでもそうだった。「Healthy Party」エンディングで彼女が健常者になった後は描写されていないし、「NEEDY GIRL OVERDOSE」エンディングや「Labor is Evil」エンディングなどを見るに、何らかの形で不要と判断されれば「捨てられる」のだろう。
まるで遊んだ後の玩具をお片付けする子供と、その玩具のような関係だ。

もちろん今回も例に漏れず、彼女が不要と判断すれば「ピ」は存在する事が出来ない。そして彼女が別の自分自身との依存を完全に断ち切り、「ピ」抜きでの幸せを探し始めた今、この「ピ」がもう二度と目を覚ます事はない。

そういう意味での「おやすみなさい」なのかもしれない……。

・タイトル:『NEEDY GIRL OVERDOSE』

「NEEDY GIRL OVERDOSE」というタイトルのネーミングセンスもかなり秀逸だ。
僕はプレイする前までは、発育の環境によって不足した愛情や、市販薬の過剰摂取による簡単に得られる快楽、そしてあまりにも気軽に承認欲求を満たせてしまうインターネットに対しての「OVERDOSE(過剰摂取)」だと思っていたのだが、このタイトルは読み方を変えると
「2D GIRL OVERDOSE(非実在少女の過剰摂取)」となる。

これは真エンディングまでプレイするとしみじみ思うのだが、依存していたのは彼女だけでなく、僕らもそうだったのだ。
彼女を支える一人の「ピ」と、その存在に縋るあめちゃんという弱い女の子。最初なら一方的な依存の関係性に見えた筈だ。しかし幾度となく彼女から頼られる度、見捨てられる度に、僕らプレイヤーの心は幾度となく揺らいだはずだろう。
何度も彼女と過ごしたプレイヤーなら薄々気づいているかもしれないが、このゲームはプレイヤーが「あめちゃん」を好きになるように作られている。実際に真エンディングを見てとてつもない虚無感を感じたプレイヤーなら痛いほど理解出来るとだろう。

あめちゃんは本当は自立して生きる力がある。実際に、妄想の恋人である「ピ」と「おくすり」に依存してはいるが、できるだけ他人に依存すること無く彼女は生きている。しかし僕らはどうだろうか。
常に誰かを求めている、なんて思い当たる節はたくさんあるだろう。あめちゃんに頼られたり、見放されたりする度に揺れ動く感情に対して僕らは「これはゲームなんだ」と完全に割り切れただろうか?
少なくとも僕は既に「あめちゃん」という2次元の女の子に「依存」してしまっていた事に気がついた。本作『NEEDY GIRL OVERDOSE』はそれをよりによって、あめちゃんという美少女を通して間接的に表現してくれた。こんなのはイカれたレベルの表現力が無いと成立しない芸当だ。マジでやばすぎる!



・さいごに



NEEDY GIRL OVERDOSEというゲームは、美少女育成ADVであり、毒物であり、救いであり、天使であり、悪魔そのものであり、天国であり、地獄でもあり、そして強めの幻覚である。

今や現代において完全に普及しきった様々なSNSで彼女の姿を見る度に、僕が軽率にその天使の存在に触れてしまったが為に、その恐ろしい程美しい幻覚に、僕は今日も脳味噌を掻き回されている……。



・おまけ

個人的に好きなあめちゃんのツイート

すき
かわいい


‪✝︎昇天‪‪✝︎


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