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【NEEDY GIRL OVERDOSE】「Healthy Party」エンディングから見る、物語の”枠組み”について


   ※この記事は『NEEDY GIRL OVERDOSE』の各エンディングのネタバレを含んでいます。


   ゲーム『NEEDY GIRL OVERDOSE』には、メインヒロインのあめちゃんが健常者になってしまう
「Healthy Party」という1つのエンディングが存在する。
   このエンディングでは、あめちゃん(超てんちゃん)が配信者を辞め、一般人になるというエンディングなのだが、その後のあめちゃんはゲーム内では全く描写されず、さもバッドエンドのうちの1つのような演出で終わりを迎える。
   常識的に考えれば健常者になるのは至極良い事だが、このエンディングはなぜこのような終わらせ方をしたのだろうか?

   そもそもあめちゃんが最初に言ったフォロワー100万人という目標を達成出来ていないというのもあるが、それは彼女を映し出す”NEEDY GIRL OVERDOSE”というゲームの枠組みと、このエンディングでの彼女の立ち位置に相違が生じてしまったからだろう。

   このゲームがあめちゃんという女の子を追うだけのゲームなら彼女が健常者になった姿を見れたかもしれないが、NEEDY GIRL OVERDOSEは「あめちゃん」という精神を病んでいる1人の女の子と恋仲であるプレイヤーの「ピ」が協力し、インターネットを救う「超絶最かわ・てんしちゃん」となって、30日という期間のうちに100万人以上のフォロワーの獲得を目指すというのが
「NEEDY GIRL OVERDOSE」というゲームの舞台の設定であって
「Healthy Party」エンディングで健常者となってしまった彼女は、傍に居る「ピ」の存在も、彼女の承認欲求を満たす為の画面の奥で上下する数字も必要が無くなってしまった。

   つまり彼女は上記のテーマという「枠組み」から外れてしまったのだ。
いわばこのNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームが描写する視点の、カメラの枠外へ出ていってしまった、というワケである。

   このようにプレイヤーという一人称視点だけではなく、大きな枠組みの中で起こる物事を、善も悪も関係なく俯瞰したまま見届けるというのは
   ヘンリーのショートショートの代表作『マルメロの実』の、優しいパン屋の女将と貧しい絵描きの結末ように、一見どちらかに善や悪があるように見えて、実のところ善悪などどちらにも無いというような、一貫した視点でこれらを表現している。

   毎日せっせと古パンを買う貧しい絵描きを愛し、哀れに思った女将と、女将が優しさで古パンに忍ばせたバターのせいで絵がダメになってしまった絵描きの失われた二人の関係のように、
「あめちゃん」と「ピ」との関係など、傍から見れば1つの現象とそれらの破滅までの一本線でしかないのだ。

   彼女らのその結末は、どちらに負がある訳でもなく、それらの結果に意味や理由を見出すのは画面の外側に居る我々のする事で、本当は最初から意味などそこには存在しないのかもしれない。

   にゃるら氏・Aiobahn氏が作詞作曲した「NEEDY GIRL OVERDOSE」のテーマソング
『INTERNET OVERDOSE』を聴き、プレイ後の追想に入り浸っていると、きっと彼女が幸せになる世界線は無くとも、インターネットの天使として生き、そして天使が忘れられ姿を消すその最期の時まで、画面の中で美しくしく光り輝くだろうと
天使のいない部屋で、飛び立った天使の
その幻覚に想いを馳せてしまう。

「まるで天使のように微笑む 強めの幻覚」

🎀超絶最かわ🎀てんしちゃん


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