昨日見た悪夢

 木造の古い建物にある一室、大ホールのような場所に、全身が白い衣装で覆われた集団が正座している。人数は100を少し下回る程度か。彼らは一様に同じ方向を向き、両手を組み、何かへと一心に祈りを捧げているように見えた。一人として微動だにせず、呼吸すら止まっているようにも思える。現代社会ではあり得ないであろう、異様な光景だ。

 そして、そのホールの奥にある壇上には、派手な柄の服を着た、黒い長髪の男性が座っていた。端正な顔立ちだが、気だるげな表情で、彼から見て右側にある壁をボンヤリと眺めている。白い服の集団は、彼に向けて祈りを捧げているようだが……。

 あの男性と話してみたい。そう思ってホールへと足を踏み入れようとした次の瞬間、目の前が真っ黒になり、

”RUN AWAY TO HELL!!”

 脳内で白い文字列がチカチカと激しく明滅した。
 太い筆で殴り書きしたような、鬼気迫る筆跡だった。謎の現象に見舞われて混乱しながらも、頭を振って何とか文字列の内容について思考する。
 直訳すれば『地獄に逃げろ』となるか。地獄”から”逃げるのではなく、地獄”に”逃げる……。まるで意味が分からない。

 タイミングから考えるに、誰かからの警告だろうか。『このホールには入らない方がいい』と伝えたかったのか? 何が何だか分からないが、急に猛烈な不安を感じ始めたため、この場を立ち去っておくことにした。

 これ以上、ここにいてはいけないような気がする。漠然とした奇妙な感覚だったが、同時に確信めいた何かがあることも無視できなかった。少しだけ背筋が冷たくなる。

 薄暗い廊下を足早に歩き、すぐ近くにあった、建物の窓になっていると思われる障子張りの引き戸へと向かう。その窓は、匍匐で進めば何とか通り抜けられる程度の幅と高さだったが、文句は言っていられない。ここを出ろ。不安はジワジワと膨らんでいき、それに合わせて心拍数も上がっていた。

 引き戸に手を掛け、右へと開く。建て付けは悪くなかったようで、非力な自分でもあっさりと動かせた……と思いきや、その奥にもう一枚の引き戸があった。数秒だけ当惑したが、気を取り直してそれも開く。その先にはさらに引き戸があった。それも開いてみる。また引き戸。また開く。引き戸。開く。引き戸。開く。引き戸。開く。そこじゃない。引き戸。開く。引き戸・開く・引き戸・開く・引き戸・開く・引き戸・開く・引き戸――。

 20枚ほど引き戸を開いたところで、全身が汗だくになっていることに気が付いた。出られない。何故……? 窓のはずなのに。歯が金物のようにガチガチと鳴っている。出られない。障子紙の真ん中に手を突っ込もうとしたが、やめておいた。たぶん無意味だと直感したからだ。

 とにかく別の出口を探さなければ。不安は極大まで膨らみ、いつの間にか肩が激しく上下するほどに呼吸が荒くなっていた。振り返り、廊下を見渡してみる。それなりの長さだが、そんなことは今は問題ではない。確か、階段は2つあったはずだ。上に行く階段と、下に行く階段。それぞれが別々に配置されており……ここから近いのは、下に行く階段だろう。

 足音を立てないように、しかし出来るだけ素早く廊下を移動する。もはや大ホールの様子を伺う余裕はなかった。経年により劣化したであろう板が、一歩ごとに軋む。何となく、彼らには絶対に見つかってはならない! ような気がしていた。

 下に行く階段の前に到着した。何故か、階段を降りた先が漆黒の闇に包まれていた。僅かな光すら見えない。飲み込まれる。地獄へと繋がる道にすら思えた。その暗さに逡巡させられる。……こちら、に、進むべき。……では、ない、ような、感覚に、従う、べき、か……うん。上に行く階段へ向かうことにした!そうしよう。その方がいい。

 打って変わって、上に行く階段は明るかった。心が穏やかになるような、晴れやかになるような、優しい光を感じる。急いで駆け上った。途中で白い衣装に身を包んだ女性とすれ違ったが、会釈をしてきただけで、何かを問われるようなことはなかった。最上階と思しき部屋に着くと、その天井に長方形の白い大きな枠があるのが見えた。内側が光っている。まるで、天国への、扉だと、錯覚だ。錯覚、する、ような……いや、あれは、天国への、門に、違い、違う。……違い、ない。うん、間違いない!きっとあちらへ進んだ方がいい。何故なら、その枠から放たれる光はとてモ優しいカら。トテモ暖かいカラ。迷うことなく光へと飛び込むと、視界が真っ白に染まり、何も見えなくなって――。


 遠くで、誰かが叫んでいるような気がした。



 気が付くと、同僚の竹本が運転する車の助手席に座っていた。
「お、やっと起きたか。随分と気持ち良さそうに寝てたな」
 どうやら私は眠っていたらしい。やけにリアルな夢を見ていたような気がする。しかし、その内容は既に思い出せなくなっていた。
「ん……ごめん、任せっきりで。運転、そろそろ代わろうか」
 私がそう答えると、竹本はハハハと朗らかに笑った。
「冗談だよ、気にするな。疲れてたんだろ。それに、寝起きのお前に運転させて、事故でも起こされたら困るし」
 確かに、竹本の言うことにも一理ある。私は寝惚けた頭を軽く振り、ドリンクホルダーに置かれた缶コーヒーを口に含んだ。右手の腕時計に目を向ける。謎の連中に追われ始めて、大体10時間が経過したところだった。
「アイツら、何者なんだろうな」
 前を向いたまま、運転席の竹本がポツリと呟いた。
「分からない……顔を覚えてないから、会ったこともない人達のはずだし」
 言葉では言い表せないような、どこか"異質"な雰囲気を纏っている者達。見た目は普通の人間と変わらないのに、見ただけで"人間とは全く別の存在"だとハッキリ分かるのだ。おそらく、私以外の人間は、アレに触れてはならない――。
「何とか逃げ出せたけど……"施設"まではもう少し掛かりそうだ」
 目的地に着けば、あの連中を何とか出来る。そう信じて、竹本と共に移動している訳だが……今の自分は、いつもの自分と少しだけ違うような気もしていた。些細な違和感。自分の身体が、ほんの少しずつ、自分のものではなくなっていくかのような……。竹本にだけは伝えておくべきかと悩んだが、やめておくことにした。伝えろ。これ以上、竹本を不安にさせる必要はないだろう。目的地に着いて、精密検査でもしてもらえば、この違和感の正体も分かるはず……。伝えるのは、全てが終わってからでいい。
「! あれ、何だ?」
 もう少しで"施設"に着くというところで、後ろから一台の車両が高速で迫ってくるのが見えた。竹本がバックミラーを覗く。……間違いない、あの連中が来た。もう逃げても無駄だ。もはや車両越しにすら、奇妙な感覚が伝わってくるようになっていた。そろそろ同じになれる。逃げなければ……!
「ここまで追ってきたみたいだ。急いで逃げた方がいい」
「マジかよ、もうすぐで着くってのに……!」
 竹本が全力でアクセルペダルを踏み込み、凄まじい加速により発生したGが私の身体を座席にめり込ませた。
「見えた!」
 連中の車両は間近まで迫っていたが、こちらが"施設"の敷地内に入る方が早かった。建物のすぐ近くに車を停車させ、竹本と共に車両を降りる。
「走れ!」
 竹本が叫ぶ。しかし、走る必要はない。もう全て終わったのだから。
 連中の車両は、建物から離れた場所で停止した。中から人の姿をした何かがゾロゾロと出てくるのが見えた。何かを話しているのが聞こえる。「間に合わなかったか~」「ロン」「もう教化が終わってるね」「ニャン」「良かった良かった」「ウタッテ⁉」「……ン惑星~」……どれも普通の人間には意味が分からない台詞だろう。私にしか分からない。私は彼らの言語を解する唯一の人間……人間?
「おい、どうした!?」
 建物の入口付近まで辿り着いていた竹本が、それなりの速度で駆け寄ってきた。彼らが近付いているにも関わらず、一向に逃げようとしない私を見て、かなり慌てているようだ。
「大丈夫。もう追ってこない」
「止まってる……。何でだ……? 建物の中には入れないようになってるのは知ってたが……近付くことも出来ないのか?」
 入口付近までは追い回されると覚悟していたのだろう。良い意味で予想を裏切られたと思っている竹本は、少し困惑した様子だった。近付けないのではない。近付く必要がないのだ。
「もう教化は終わった。もう終わったから」
 理由は分からないが、先ほどまではあった違和感が消えていた。私は自分の両手を見た。大丈夫、さっきと変わった様子はない。みんなと……人間と同じだ。さあ、あの建物に入ろう。それで、きっと全てが終わるから。
「え? きょうか? ……どういうことだ?」
「とりあえず、中に入ろう」
「え、あ、ああ……おい、待てって」
 私は竹本の手を掴み、建物へと引っ張っていった。


 建物に入るやいなや、竹本は慌てた様子でズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、どこかへ電話を掛け始めた。もう遅い。おそらく、この施設を管理する者達に連絡しようとしているのだろう。
「鯛が……食べたい……?」
 スマートフォンを耳に当てたまま、竹本が呟いた。どうやら彼の中身も教化に染まったらしい。良かった。同じになれたね。スマートフォンが床に落ち、その画面に大きなヒビが入った。
「もう、ここが最後らしいよ」
「鯛、が……」
 両腕をだらしなく垂らし、虚ろな表情となった竹本を余所に、私は施設の廊下へと駆け出した。遠くから誰かが制止する声が聞こえたが、やめろ、止まれ! それは気にしなくていいはずだ。
「ウタッテ⁉ ウタッテ⁉」
 後ろから竹本の悲鳴のような声が聞こえた。そう、私達は歌うべきなのだ。その惑星の名を。さあ、終わらせよう。
 私は施設中の人間に触れて回り、自分の中を巡る"ナニカ"を分け与えていった。それが、かの惑星の者から私に与えられた役割だったのだ。一心不乱とはこのことを言うのだろう。今の自分は、キラキラとした活力に満ちている。与えられた役割を果たすために。もう何も考える必要はない。

 数時間後、その施設に逃げ込んでいた全ての人間も教化に染まり、地球上の全ての人間が白い衣装で全身を包み、全ての人間が道という道を行進し、その足元から灰色がかった白色・完全なる灰色・薄暗い緑色の何かをストライプ状に垂れ流しつつ、地球上をそれらの色で染めていった。



 遠くから、誰かの歌声が聞こえてくる。

 声は増えていき、やがては星を覆うほどの大きさとなって――。



 ロン。ロン。タイ。タイ。ニャン。ニャン。ワン惑星~。

 ロン。ロン。タイ。タイ。ニャン。ニャン。ワン惑星~。

 ロン。ロン。タイ。タイ。ニャン。ニャン。ワン惑星~。

 ロン。ロン。タイ。タイ。ニャン。ニャン。ワン惑星~。

 ロン。ロン。タイ。タイ。ニャン。ニャン。ワン惑星~。

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