親が離婚をするという事

親が離婚することで子どもに与えるインパクトは計り知れない孤独感なのだろうか?
私の両親は喧嘩が絶えないが昭和の初めの方の人間なので、離婚という人生の選択は今まで選んでいない。
子供のためだとは言いつつも、そこまで今まで培ってきた価値観や枠組みからそれるほどの自己主張というのが出来ない人たちなのだろう。
あれだけ文句をお互い言い合うのであれば、いっそ別れた方がいいだろう。そんな不仲な両親を見ることで、子どもたちが受ける将来の家族像や夫婦という価値観が美しくないものになっていくのではないか?と思っていた。

自我が大きければ大きいほど、相手を尊重する前に『自分はこれだけしているのに、なんであの人は何もしないのであろうか?』という自分の価値観からしか物事を判断できなくなっている。相手に対する期待が人間関係を悪くしてしまう。
大人でない親というものは、自分の人生の大切さを色々な理由を持ってきて
愛をそっちのけにして、子どもに対して無神経になってしまう。
『仕事だからしょうがない』~だからしょうがない。という考え方。
どうしても人は弱い生き物だから、逃げ道がないと生きていけない。

お父さんはお金を稼ぐために仕事をしている。お前たちを養うために仕事を頑張っている。どうしても言ってしまう、『お前のためにこれだけ頑張っているのに。』『俺はお前のために犠牲になっているのに。』と子供に
親の気持ちを察する期待をしてしまう。
子供からしてみれば親ほど生きているわけでないから、なんで親を理解しなきゃいけない?当然思うだろう。当たり前だ。

会社には、『上には上の立場があって、あなたには見えない景色がある。』
という上司がいる。
私は日本の大学を出ていないが、ある年上の女性から言われたことがある。
『日本の大学を出ている人と、出ていない人ではやっぱり何かが違う。』
こういう人たちの意見はとても抽象的であって、とても親になるべき大人になり切れていない人たちなんではないだろうか?
上の人間は、学んだ人間は、親というものは、初心を忘れているだけで甘えている、学んだことを活用できてない、子どもの視線を都合よく覚えていない。ただそれだけだ。

人生というものの基本的な学びは人間関係からである。
すべての離婚をした人が子供たちにネガティブなインパクトを与えているとは言わないが、まず結婚する前に自分を知らないから人間関係で失敗してしまう。当然人間関係から学ぶから、自分を学ぶ機会である。
それを繰り返す事により、よりよい判断ができ、自分にとって最適なパートナーに出会えるのではないだろうか?

最適なパートナーというのは自分の学びに気づかせてくれる相手の事である。なぜならば人生で一番大切な事は人間関係からの学びであるから。
そう気づくための努力というものはただ単にいろんな人間関係というものを多く経験する事ではなく、すでに生まれ持った自分のレベルというものが本能として持っており、それを知り得る経験を相手の鏡を見ながら向上していく。

人によっては苦い経験を何度も何度も繰り返す事で、自分の中に足りなかったものを発見すると思う。それは一度や二度で自分の欠点が見つからないのだろう。また、学びのツールとして人間が持っている考える力が必要な
『人生の深読み』である。
この人と巡り合って、なんでこんな人を好きになったんだろうか?
なんでこんな痛い思いをしたんだろうか?
なんで自分はこのような不幸な思いをしなければいけないのだろうか?
又は、なんで相手に対してなんでこんなひどい事をしてしまったのだろうか?これは単に愛している愛していないという単純な理由だけで片付けられる事ではない。

出来事には必ず、なぜ起きたか?という理由がある。存在意義もそうである。必ず理由がある。それを繰り返すパターンから何故という事を自分を振り返り、理由を見つけ出すことが深読みである。

人それぞれ生まれてきた理由やその人生で抱える課題は違う。
なので、私がこういう人生だから、あなたも同じようなパターンを繰り返しているからこうすればいい。というような判断でもない。その人にしかわからない感情や人生経験や五感や六感で感じ得るものは違うし、環境も違う。
だから、自分で深読みをして次の行動に活かしていく必要がある。

深読みをする大前提として、自分が変わりたい、向上したい、という気持ちと謙虚さは必ず必要である。自我がある事で人が生きていけるはずであるから、謙虚さがない限りその隠れた自己には巡り会えない。
人はそれぞれプライドや枠組みの中でそれが常識として生きている。
だからその枠からはみ出ない限り、それまでの自分の存在が理解できない。
それが謙虚になるという事であり、ある意味自己否定をネガティブではなく、向上という目的のためにベースとして持っていないと深読みというものは中途半端で終わってしまう。

例えば自分の過去の話をすると、
学生の頃は自分自身が全く分からず、ネガティブな事しか思いつかず悶々とした生活を送っていた。学生生活や人間関係はそれほど一体感を持てず、孤独さを感じながら自分との葛藤が続いた。
人見知りで自己表現できない自分は、異性に対する欲求から何とか自分の殻をぶち破ろうともがき、ドモリや声の震えやたどたどしさを経験しながら、高校時代、女性と知り合い自分の欲求をぶつける。
相手の気持ちなんて正直考える余裕もない。自分の思いをぶつけてることが第一の課題。心になんか余裕がない。そんな経験を何度か繰り返す。
振り返ると10年の時が流れ、出会ってきた女性たちにパターンがある事が
分かった。

出会いは偶然。
出来事は全て偶然。
と捉えてしまう人は恐らく『人生の深読み』なんてできない。というか深読みの意味さえ分からないであろう。
最初の出会った女性は、親が幼い頃に離婚してる女性でお母さんに大切に育てられた。2番目の女性は幼い頃にお父さんが亡くなっていた。3番目の女性は幼い頃に両親が離婚。お母さんもお父さんも別々の家族を築いている。
4番目は幼い頃にお父さんが亡くなっていて、彼女もやっぱり母親の愛情で育っていた。5番目で人生の分岐点が起きた。何故だろうと考えさせられる状況に陥ったのである。

自分の進路を変えようと思っていた時、3人の別々に知り合った女性友達がいた。あくまでも女性友達で終わったのであるが、その女性3人のうち誰かと付き合ってもおかしくはなかったのであるが、皆幼い頃に両親が離婚していたのである。
それまで片親を持つ人たちには申し訳ないが、自分自身が人間関係から感じた印象は『何かしらの自己主張の強さ』というか見えない自分ではわかり得ない世界を抱えている感覚を得た。自分自身の弱さでは決して乗り越える事の出来ない壁というか、不信感不安定感というか、はっきりとは言えないが
その時の自分では難しい壁であり、深読みをした結果『自分が強い人間になる事。』

自分が強い人間になる事で相手を愛することが出来る。という結論に至った。『自分が人として強くなる。』という意味は決して『男として』という事ではなく、フィジカルな筋肉的なものではなく、精神面でもっと大人になるという事なのかもしれない。大きな人になる。
だから、これまで抱いていていた自我による相手に対しての期待を押し付けるのでなく、自己を改める。事の重要性である。

相手に求める自我が強いと決して幸せになれず、相手を不幸にしてしまう。
仕事で遅くなると彼女から疑われる。相手にもっと寛容になって欲しいと望んでいる反面、自分ではどうしようもないと諦めていた。結局そんな人間関係は上手く行かない。
自分がやれることで自分を変える必要がある。例えば、洗濯物を自主的にやるとか、家が汚かったら相手に要求せずに自分でやるとか、孤独を感じさせてしまう行動をしたならば、それを補るためにギフトであったり、二人の時間を増やすとか、自分が努力をしないから相手が持つ印象が悪いのではないだろうか?と思うようになった。
自分の事を疑うパートナーである場合は、自分に何ができるのか?と見定める必要がある事。しかし努力をしている。自分は頑張っている。が変わってきて自分だけがやっている。自分だけが良くしようとしているという自我が出てきたら、その人間関係は決してうまくはいかない。

自分を信じ愛する勇気を持つことが生まれてきた課題の一つ。
しかし、謙虚でいなければいけない。
自信を持ちすぎてしまい周りが見えなくなると、本来の目的からそれてしまう。バランスを保つ努力をして人の出会いとその人間関係から相手が自分が映り出される鏡を見ながら、自分がどうやって向上すべきかを足掻きながら学んでいく。人のエゴというものは怖いもので、相手が折角移してくれている自分の姿がフィルターを通してみることになってしまうと、人間関係からの学びが出来なくなってしまう。

今とても幸せである。
自分が自我を抑制し、行動することで変われると信じ。
また、この文章は自分にいい聞かせている。
人は表現する事で、自己暗示をかけるからである。
自分というものを確立させていく為でもある。




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