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短気な親父-

うちの親父は少年時代アフロのような天然パンチ頭で、
それが理由で、毎日のようにからかわれるたびに喧嘩をしていた。
30歳前で下町の工場を切り盛りし始める。写真は黒人の血が入っているようにも見えるがれっきとした日本人。今は色が黒いがゴルフ焼け。
星飛雄馬の親父のような丸い指先で、現役の頃は100キロのタンクをトラックに何本も一人で出し入れしていたらしい。

バブル時は札束を後ろポケットに入れて、従業員たちと夜な夜な飲み歩いていた。酔っ払うと気分がより大きくなり、チンピラと喧嘩をして帰ってくる。話半分に今は受け取っているが、僕が生まれる前まではそんな生活ばかりを繰り返していたので、母親の苦労がうかがえる。

僕が思春期の頃は、まだDVなんて言葉はなかった。躾はゲンコツ。ひどいときは『木刀取ってこい!』ってな感じ。ある日、姉貴の男友達が家の裏からこっそりと家に入ろうとしていたところを見つけた親父は、鉄パイプを持ってその青年を草履をはいたまま追っかけて行った。『あぁこれで俺も犯罪者の子どもか。』と思ったものだった。

親父が30の時に生まれた僕は仕事が命の親父とあまり遊んでもらった記憶がない。あぁそうそう、キャッチボールで受け取るのがまだ下手だった僕の顔面にボールをぶつけられた記憶はある。それも会社の休憩の合間だった。
文学少年では決してなかった親父だから、言葉足らずで表現力があまりないそれゆえ、相手に自分の言いたいことが伝わらないと、声を張り上げる癖がある。相手に伝わらないとイライラする気持ちを抑えられずについ声が大きくなってしまうのであろう。しかし、自分にはその自覚がないらしい。

自分のやりたいように生き、したいように生活してきた親父の後始末をして来たお袋は恐怖に慄いていたという。でも親父はそんな母親の気持ちをおもいやったり、又は理解しようとしたことは全くない。何故なら相手に対して怒鳴っている、威圧しているなんて意識はこれっぽっちもないからだ。

威張っている父親を幼少期は偉大だ。『おーい、お茶』で母親がお茶を持ってくる。これが男だと勘違いしていた。しかし、僕が少年になる頃、親父が客先にヘイヘイしている姿を見て、違和感を感じた。少しづつ大人の世界を知るようになった。親父がそれほど偉く感じられなくなった。
親父が4-50の頃何度か言っていた。『俺は色々な事をやってきているから、これだけ一生懸命やってきているから、長生きはしない。いつ死んでもいいように生きてきいる。』と。

そんな親父が今や80歳を超えている。現在から6年ほど前、医者に『タバコを止めないとあと一年だよ。』と言われ、毎日のようにピースを二箱吸っていたオヤジは車に保管していた残りのカートン全て捨て、その日きっぱりとタバコを吸うのをやめた。すごい意志の強さだ。生きると言う事に貪欲なのかもしれない。
そんなに行きたいんかい!あれほど早く死ぬって言ってたのに。いざ死を前にすると人は変わるんだなぁ。と実感。

その数年後、二世帯住宅を初めて1年後、シーンと鎮まる深夜3時頃、ドンドン、ドンドンという壁を叩く音に目覚め、何が起こったかと音のする両親の部屋の方へ。
父親の部屋に入ると父親がベットで呼吸困難になっていて、苦しそうにしている。ゼェゼェしている。声が出ないから壁を叩いていたらしい。
僕の中で何故か冷静にこれが人の最後のシーンなんだともう一人の自分が頷いている。
次の瞬間、我に返り横を見るとボーっと母親がつっ立っている
『どうしたの?』と聞くと
『なんだか苦しいみたいよ。』と普通にいう。
また僕が父親の顔を見ると非常に苦しそうにゼェゼェ。息する事が苦しそうにしている表情。母親の『苦しいみたいよ。』って何?苦しいんじゃん。
『救急車呼んで!』というと母親は既に片手に電話を持っていた。
『あぁそうね。 』と我に返ったように言い、回しているダイヤルが110と
スクリーンに。平静を装っていると言うよりは動揺し過ぎて冷静に反応できていないのが、やっとわかった。

別に天然というわけではない母親は。
長年恐怖を強いられていた夫から解放される。という気持ちから、安堵感で落ち着いていたわけでもない。夫婦は長くいればいるほど相手に依存してしまうと言う証拠であろう。あれほど父親の事を悪く言っていた日々。
子供の教育に対して全く無関心であった父親に対する不満。
仕事で忙しい中、やっと時間を作り母親が招待し、おしゃれなレストランで一緒に食事をすれば文句ばかり言い、『俺はご飯と納豆でいい。』

いろんな嫌だった出来事は、このような緊急な場面では一瞬にして飛んでしまうのであろう。『お母さん、警察でなしに119救急車を呼ばなくちゃ!』と伝えると、『あぁ~、そっか』と自分が電話をかける。
暫くすると救急車が近くの総合病院へ。

親父は今まで3度死に損なっている。
仕事で薬品の液体の入ったタンクに落ちて皮膚がだらだらになっても数年で回復。機械の操作ミスで数千ボルトの電気が身体に通っても時計の周りの皮膚が焦げ焦げになるが、大丈夫。
僕が小学校3年生の時に学校から帰ってくると、全身包帯を巻いた人がうちのちゃぶ台の前で胡坐をかいて新聞を読んでいる。そんな包帯人間(中は透明人間?って思いながら)ひっそりと横に座って、母親が仕事を終え入って来たので『お母さん、この人誰?』って聞くと、二人が笑い出した。
出張先の温泉街で入った銭湯で熱湯に足が滑って頭から入ってしまったと言う。全身やけどで数年で完治しているがしぶとい。

今回は?今回は気胸という病気でタバコや仕事での薬品の影響で肺が真っ黒。また穴が開いてしまっているために灰がつぶれて、呼吸が困難になっていた。その為左の胚の1/3をカット。
まだ元気に生きている。週1-2階はゴルフコースを回っている。
周りのゴルフ仲間がいなくなり始めているが、親父は元気で生きている。

先日会社から帰ってくると母親と父親の言い合いの声がする。
父親はボケが始まっている母親が保険証を無くすと困るので、預かっているのだが、母親が『明日腰が痛いから病院行ってくるわ。保険証貸してくれる?』と父親にいう。
父親は『俺が連れて行ってやろうか?』という
母親は『ありがとう。保険証ちょうだい。』という
父親が『だから、俺が一緒に行くからいいだろ! 』と少々声のトーンが
母親は『自分の事だから、保険証渡して。』としつこく
父親は『俺が持っていくからいいだろ!』とまた少しトーンがきつく
母親は負けじと『いや忘れなければ良いけど!』という
そんな父親は馬鹿にされた気分があるのか『なんでぇそんな事言うんだ!』
と完全に怒鳴っている。
その会話を聞くと僕が、『お父さん怒鳴らなくていいよ。』と忠告する。
『怒鳴ってないよ!』と怒鳴っている。

こんな会話は過去に何十回だろう。繰り返している。
何時の事だろうか?母親が父親に対して嫌味を言うようになったのは。
貯まりにたまった与えられた恐怖心に対する小さなリベンジなのだろうか。
しょっちゅう言い争いを聞くのはもううんざりであるが、両親とも残りの人生を数える年になって、身体も思うように動かなくなって、記憶力も不安定で、しかし僕は分かっている親がいなかったら自分もいない事を。




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