バスタブの骨
◆台本の使用について
現時点では金銭の発生の有無や上演場所等に関わらず使用許可は不要です。ストーリーやキャラクターに大幅な変更のない範囲でご自由にお楽しみください。
また、この台本はフィクションです。実際の事件等とは無関係であること、犯罪を助長する意図はないことをご理解ください。
その他ご不明点などございましたら、コメントもしくはTwitterアカウントへご連絡ください。
◆比率、時間について
不問2 約40分ほど
◆登場人物
高梨晴加(たかなしはるか):性別不問。大学2年。
氷野紡(ひのつむぎ):性別不問。大学4年。
◇
高梨:先輩。
氷野:なに、高梨。
高梨:今、お時間いいですか?
氷野:いいけど……珍しいね、そんなもの持ち出して。包丁なんてあんまり使ったことないと思うんだけど。どこから出してきたの?
高梨:先輩の車ですよ。運転席のドアポケットです。新品の刺身包丁があったので。
氷野:え、そんなの置いてたっけ?
高梨:自分で買った包丁の存在忘れることあります?
氷野:……あー、思い出した。この間ホームセンターで買ったんだっけ。魚料理……えーと、アクアパッツァとか作ってみたくてさ。置きっぱなしにしちゃってたなんて、我ながら嘆かわしいくらいに不用心だね。
高梨:理由のない刃物の携帯は法律違反じゃなかったですか?気をつけてくださいよ、こういうことになるんですから。
氷野:いやいや、禁止されてるのは逆の理由でしょ。ていうか包丁持ち歩いてるくらいで何を今さら。だいぶ前から立派な犯罪者じゃんか、お互いに。
沈黙。
氷野:ふふ、ほんとに殺す気なんだ。
高梨:はい。
氷野:なんで?
高梨:変なこと聞きますね。殺される理由なんて知る意味あるんですか?
氷野:人を殺そうとするほど思い詰めてる人間にはカウンセリングが必要でしょ、なーんて、ははは。
高梨:はは、笑えませんよ。
氷野:とか言いながら、ちょっと笑ってるじゃん。で、なんで殺そうとしてんの?
高梨:なんでだと思います?
氷野:うーわ、全然言う気ないね?困ったなー。
高梨:先輩こそ、どうしてそんなに嬉しそうなんですか?
氷野:んー?いつも通りへらへらしてるだけだよ?
高梨:よく胡散臭い笑顔って言われません?
氷野:言われる言われる、詐欺師向いてそうとか催眠術使えそうとか言われるよ。
高梨:でしょうね。先輩にこんなこと言いたくないですけど、実は詐欺も催眠術もやったことあるんじゃないですか?
氷野:ひどいなぁ、いつも通りにしてるだけなのに。
高梨:これまでの経験上、自分が殺されるかもしれない状況で、いつも通りではいられないと思うんですけど?
氷野:新しいパターンの経験が積めてよかったじゃん。後輩の成長を見守れて嬉しいよ。
高梨:よくないですよ。怖くないんですか?丸腰の自分に、相手が殺意を持って武器を向けてくるんですよ。
氷野:……殺意を持って、ねえ。
高梨:なんで笑うんですか。
氷野:笑っちゃだめ?
高梨:いや、だめっていうか……正直、こんな不気味な先輩、初めてです。
氷野:えーほんと?気持ち悪かった?ごめんごめん。……くく、ふは、あはは、あーだめだ、めっちゃ面白い。
高梨:怖……
氷野:本気で引くのやめてくれる?……でも、そっか。高梨に気づかれてるとは思わなかったな。
高梨:……安心しました。嘘の下手な人間に、人殺しなんてできませんから。
氷野:それもそうだね、ほんと優秀な後輩で困っちゃうな。
高梨:優秀な先輩に育ててもらったからですよ。
氷野:あは、そういうこと言っちゃう?
高梨(M):土を掘る。掘る。穴を開ける。シャベルの尖った先端が、何度も地面に突き刺さる。
高梨(M):すくってもすくっても腐葉土ばかりで、誰の骨も見えてこない。
場面転換。過去。
高梨(M):去年の夏、免許を取った。遠くに行くときは、いつも先輩に甘えてばかりだったから、先輩が卒業するまでに、一度くらい自分が運転しようと決めていた。
氷野:高梨ー、荷物全部積んだー?
高梨:積みましたよー。
氷野:ほんとに???スコップちゃんとある??プランターにお花植える用のやつじゃダメなんだよ???
高梨:ちょっと、いつの話してるんですか?!ちゃんと2本積みましたよ!後ろ振り返ったらあるでしょうが!!
氷野:あ、ほんとだ。よーしよしよし、尖ったのと平たいの、両方あるね。成長したじゃん。えらいえらい。
高梨:何年前の話だと思ってるんですか……というか、あれは先輩の言い方のせいですからね!?スコップって言われたら誰だってプランターにお花植えるやつだと思いますよ!!
氷野:いーーーや絶対違うね!!!!!プランターにお花植えるやつはシャベル!!!山の中に死体埋めるやつはスコップ!!!
高梨:はーーー!?!?!?逆に決まってるじゃないですか!!幼稚園児でも知ってますよそのくらい!!!!
氷野:なんだと、喧嘩か???先輩に対する不敬罪で殺しちゃうよ???
高梨:余裕で返り討ちにしてやりますけど???後輩だと思ってなめてかかると痛い目見ますよ??
氷野:へ〜〜〜〜え、ずいぶん自信満々だねえ。じゃ、お手並み拝見……と言いたいところだけど、ちょーっとここらに長居しすぎかな。犯行現場の近くにぐずぐず居座るのは三流のやることだからね。さ、そろそろ車出すよー。
高梨:了解でーす。……あれ、証拠って全部持ってきましたっけ。
氷野:まってまって、怖いこと言わないで???証拠は1番大事だよ???確認して??
高梨:うそうそ、嘘でーす。全部このビニール袋に入ってまーす。
氷野:ちょっともう〜〜〜〜〜やめてよそういうの!!ほんとに怖いから!!
高梨:へへ、からかってみたくなっちゃって。どうです、心臓止まるかと思いました?
氷野:思った思った!!なんなら人殺しのくせにこんな殺され方するのかぁ、みんなこんな気持ちだったのかな、死体埋めた後においしくハヤシライス食べてごめん……ってとこまで考えた!
高梨:お、ジェネリック走馬灯ですか??無料体験版だと人生振り返るところまでは配信されてないんですね。
氷野:先輩を殺しかけといてその言い様!!そんな子に育てた覚えはありません!!
高梨:育てられた覚えもありませんー。あ、でも一人前の殺人犯にはしてもらいましたね?
氷野:確かに……道の駅で売ってる野菜みたいに顔写真とプロフィール載せておいた方がいいかな。生産者の顔が分かると何かと安心だし。
高梨:載せるのはいいんですけど、それって誰が見るんですか?死体?警察?
氷野:え?うーん、さすがにご存命の皆々様にはプライバシー的にお見せできないし……じゃなくて!!
高梨:先輩、そのツッコミ遅くないですか?
氷野:お黙り!!!とにかく、さっきのおふざけは封印!!本当に現場に証拠置いてきたら2人揃ってお縄だからね!!
高梨:わーかってますって。ほらほら先輩、早く行かないと朝になりますよ。実は明日2限からなんですよねー……
氷野:え、そうなの?今から行って帰ってきたら5時間はかかるでしょ?全然寝られないじゃん。言ってくれたら日にちずらしたのに。
高梨:いや、先輩も卒業近いですし、なんだかんだ忙しいじゃないですか。殺られる側の予定もあるのに、わざわざ日を変えてもらうのも申し訳ないっていうか……
氷野:おやまあ、ずいぶん先輩想いな後輩だこと。いーよいーよ、着くまで寝ときな。えーっと、死体よし、スコップよし、証拠よし、免許証よし……高梨、シートベルトした?
高梨:してまーす。
氷野:よろしい!じゃ、楽しいハイキングへ出発進行〜〜〜!!
高梨(M):先輩は運転が上手い。3年間助手席に座っていても、急ブレーキを踏んだところなんて見たことがないし、渋滞に巻き込まれたこともない。いつでもすいすい地図に載ってない道を通って、カーナビの予想より早く目的地に着く。
氷野:よーし、到着っと。高梨ー、着いたよ、起きなー。
高梨:(欠伸)もう着いたんですか……相変わらず運転お上手ですね。ありがとうございます、先輩。
氷野:ふふん、もっと褒めてみ?
高梨:先輩すごーい、やばーい、さすがー、千年に一人の逸材、F1レーサーさえ打ち負かす運転技術〜。
氷野:やる気ない口調の割に褒めすぎじゃない??どういう感情なのそれ???
高梨:え、もっと合コン女子みたいに言った方がよかったですか?しょうがないですねー。じゃ、リクエストにお答えして…
氷野:言ってないんだよなぁ〜〜〜〜〜。
高梨:ちなみに追加料金で語尾にハートをトッピングできますけど……
氷野:あ、結構です。
高梨:ノーマルがおひとつですねー。
氷野:注文キャンセルで!てかそもそも頼んでないからね??
高梨:えー、結構かわいくできる自信あるんですけど。
氷野:ばーか、そんなことしなくたって高梨は最初からかわいい後輩だよ♡
高梨:やだぁ先輩ったら、からかいすぎですよぉ。……なんか思ったよりできなかったのでやめていいですか?
氷野:だから頼んでないんだって。さ、荷物下ろすよー。
高梨:はーい。
車から降り、準備を行いながら話し続ける。
高梨(M):夏の山の空気はみずみずしい。夜明け前の薄闇にも潤(うる)んだ緑が透けて見えるほど、夏は命の季節だ。植物と土の香りを浅く吸い込んで、生きている、と思った。
高梨:にしても、雨降らなくてよかったですね。
氷野:そうだねえ、7月も終わりかけになって、やっと本当の梅雨明けって感じ。山は雨降るとひどいもんなー……
高梨:地面はぐちゃぐちゃだし濡れるし汚れるし、ほんとうんざりしますよね……
氷野:ねー。あ、でも、めちゃめちゃ濡れながら死体埋めて、寒い寒い死ぬーって言いながらファミレス入るのは好き。
高梨:そんなことばっかりしてるから風邪引くんですよ。心配する側の身にもなってください。
氷野:前に体調崩して動けなくなった時、高梨に電話したら秒で来てくれたもんね。
高梨:先輩が死にそうな声で死にそうとか言うからじゃないですか!!誰だってタクシー飛ばしますよあんなの!!
氷野:ドア開けた時の勢いやばかった。うわ!怒られる!って一瞬で悟ったもん。
高梨:怒るに決まってるでしょう!?玄関の鍵は開いてるし先輩はソファで倒れてるし冷蔵庫は空っぽだし!ほんといい加減にしてくださいよ!!次はタクシー使いませんからね!!
氷野:タクシー使わないだけで、来てはくれるんだ?
高梨:はーーー!?!?当たり前じゃないですか!!!そんなに薄情な人間だと思われてたなんて心外です!!!!
氷野:ごーめーんって。次ファミレス行く時にハヤシライスひと口あげるから許して?
高梨:いらないですー。というか先輩、毎回ハヤシライス食べてません?
氷野:だっておいしいじゃん、ハヤシライス。
高梨:おいしいですけど、ファミレスで食べるには微妙なセレクトというか……
氷野:はーーーー!?!?!?今、ハヤシライスのこと愚弄(ぐろう)した!?!?!?!?許さないけど!?!?!?
高梨:してないしてない、してないです!!ただ外食のわりに家庭的なメニューだなって思っただけです!!!
氷野:じゃあ何だったらいいの?
高梨:うーん……夏だからメニューにないかもですけど、ビーフシチューとか?
氷野:高梨、人を殺して埋めた直後に肉料理食べるの……???やば……引いた………
高梨:いやいやいやいやいや!!!!!おかしくないですか!?!?ハヤシライスも牛肉入ってるし、ほとんど変わりませんよね!?!?
氷野:全然違うけど?????ビーフシチューは「ビーフ」だから肉がメイン!!!ハヤシライスは「ライス」だから米がメイン!!!!!
高梨:デミグラスに肉と野菜が入ってるんだから一緒ですよ!!!!!
氷野:米の存在を!!!!!!!!軽視するな!!!!!!!!!!!!!!!88柱(はしら)の神様に謝れ!!!!!!!!!!!!!!!
高梨:ごめんなさい!!!!!!!!!!!!!!!
氷野:素直でよろしい!!!!!!!!!!
高梨:で、この辺でいいですか?
氷野:そうだね、いいと思う。そこの切り株の辺りから適当に四角描いてー。
高梨:はーい。足でずざざーって描いていいですか?
氷野:うん、なんでもいーよ。では、ここで問題です。「平均的な体格の成人男性の死体」を埋めるために必要な穴の広さはどのくらいでしょうか、はい高梨。
高梨:えっと、だいたい100センチ×80センチ……例えるなら、一人暮らしの浴槽をぎゅっとした感じのサイズ感。ですよね?
氷野:ぴんぽんぴんぽーん。そのくらいのサイズ感なら、多少余裕を持って埋められるね。じゃ、そのイメージで描いてみて。
高梨:……このくらいですか?
氷野:ど、う、か、なー、ちょっと測らせて……うん、合ってる合ってる、誤差2センチとか完璧じゃん。添削するところないし、もう掘っちゃうかー。
高梨:了解でーす。先輩、シャベル、三角の方でいいですか?
氷野:ん、ありがと。さー、穴掘り穴掘りー。
高梨(M):土を掘る。掘る。穴を開ける。シャベルの尖った先端が、何度も地面に突き刺さる。そうして先輩が柔らかく耕した土を、四角い形のシャベルでどけていく。
氷野:はーーー、早く終わらせてハヤシライス食べたい……ファミレスも最近行ってなかったからなぁ…
高梨:あれ、家で作らないんですか?
氷野:作ったことないよ?
高梨:え!?!?ファミレスであんなにハヤシライスばっかり食べてるのに!?
氷野:いやー、料理下手すぎて作れないんだよねえ。
高梨:ハヤシライスってそんなに難しくないじゃないですか。切って炒めて煮るだけですよ?
氷野:いやいやいや、料理音痴を甘く見ちゃいけないよ。包丁なんて使おうとしたら、間違いなく片手を失くすからね。
高梨:さすがに大袈裟じゃないですか??……あ、でも確かに先輩がハサミ以外の刃物使ってるところを見たことがないような……
氷野:そうそう、場合によっては自分が致命傷を負うから、うかつに刃物使えないんだよね。刺したり斬りつけたりできたらよかったんだけどなー。
高梨:ずっと血の始末が面倒だからだと思ってたんですけど、違うんですね。
氷野:あー、まあ、それもあるよ。血が出るとやっぱりねー、文字通り手を汚すことになるからさ。
高梨:水で洗えば落ちるとはいえ、面倒ですよね。
氷野:血は落ちても罪は残るけどね。ま、刺せば即死を狙える代わりに片付けが手間だし、殴ったり首を絞めるなら腕力がないといけないし、毒を盛るなら仕込みが重要。みんな違ってみんな大変。
高梨:結局、楽な殺し方なんてないんですね。
氷野:そういうことー。生半可な気持ちじゃ人は殺せないんだよ。憎しみとか苦しみとか、そういう莫大なエネルギーがないとね。
高梨:へー。あ、でも、今埋めてる人って…………あれ?そういえば、この人ってなんで殺したんでしたっけ。
氷野:えー?頼まれたからでしょ?
高梨:そうでしたか?そんなこと頼む人もいるんですね、こわーい。
氷野:それブーメラン刺さりすぎて致命傷じゃない?
高梨:死ぬこと以外かすり傷なので平気でーす。
氷野:ふふ、死ぬのはだめなんだ。
高梨:だめですねー。自分も他人もだめです。人に対して死んでほしいって思ったことないかもしれません。
氷野:人殺してるのに。
高梨:殺してますけど……行動と感情は関係ないですよ。今埋めてる人だって、頼んだ人の気持ちを肩代わりしただけですし。
氷野:でも、頼まれたから殺してあげようって思ったのは高梨でしょ?
高梨:そう……なるんですかね?
氷野:だって、計画を立てたのも、実行したのも、埋める場所をここに決めたのも、全部高梨じゃん。
高梨:違いますよ、いつもみたいに2人で話して決めて、先輩が車出してくれて……だからここに来るのは今日が初めてで、
氷野:なに言ってるの、夏から教習所通ってやっと免許取ったから、今日助手席に乗せてくれたんでしょ。
高梨:先輩こそ何言って、……え?あれ?先輩、シャベルは?
氷野:そんなの、最初から持ってなかったよ?
高梨:な、いや、そんなわけ……
氷野:ないって、本当に言える?
高梨(M):肌に馴染む涼やかな風が、都会的で人工的な死の香りを攫う。
氷野:高梨。
高梨(M):生きている、と思った。
氷野:それは夢だよ。都合のいい夢。氷野紡は死んだ、────ごめんね。
場面転換。冒頭の時間軸。氷野と包丁を持った高梨が対峙している。
高梨:先輩、やっぱり怖がってますよね。
氷野:かわいい後輩を怖がるわけないじゃん。
高梨:……目が合わないんです、さっきからずっと。嘘をついてるとか、隙を窺ってるとかじゃなくて、どこか上の空というか。
氷野:……あー、
高梨:先輩が見てるの、包丁、ですよね。
氷野:はは、……さすが、鋭いな。触ったらこっちが怪我しそう。
高梨:今さら怪我の心配ですか。
氷野:怖いんだよ、傷つくのが。所詮その程度の人間なんだもの。……3度も同じ目に遭えば慣れるかと思ったけど、そうでもなかったね。
高梨:3度……?それって包丁を向けられたのが、ですか。
氷野:あーもう、真面目に聞かなくていーんだよ、高梨。もう人なんて殺したくないでしょ。嫌なら嫌って、怖いなら怖いってちゃんと言いなよ。
高梨:だっ、て。
氷野:何?
高梨:怖くないんですか。先輩は、怖くないんですか。
氷野:ッだから、さっきからそう言ってるじゃん!!怖いよ。全部怖いよ、生きるのも死ぬのも傷つくのも傷つけるのも怖いよ。弱いから。
高梨:弱くなんか、
氷野:それは高梨が知らないだけでしょ。悪いやつは強いなんて、ただの願望なんだよ。
高梨:……
氷野:ずっと人間らしさを頭の中から追い出し続けてきただけで、人並みに死も愛も恐れてる。人殺しは人間を殺しただけの人間なんだよ。自分が異常だってことくらい分かってる、分かってるから優しくされたら痛いんだ。いたい、痛いよ、痛くて怖い。なのに、どうしてかなぁ。まだ笑えるんだ。ね、おかしいでしょ、だからこんな化け物みたいになっちゃったんだろうね。
高梨:先輩、
氷野:だから、だからなんだよ、高梨。理解なんかしなくていい。このまま流されて、嫌いになってよ。
高梨:……どうしてそんなこと言うんですか。
氷野:嫌われてた方が安心するからだよ。可愛さ余って憎さ百倍だっけ、ほんとその通りすぎて嫌になるね。いくら最初は愛してくれたって、家族も恋人も結局他人だからさ。でもみんな好きだった。殺されかけても好きだったよ。
氷野:母さんは言った、「お前が笑うから私が惨めになる」って。姉さんは言った、「お前のせいで私は愛されない」って。あの子は言った。「あなたは私のことなんか好きじゃない」って。
氷野:ただ好かれたくて、傷つけたくなくて笑いかけたのに。それってそんなに悪いこと?愛されるために笑うのって、人を殺すより悪いことなのかな。
氷野:ああ、ほんと、馬鹿みたいに愛してた。それしか知らなかったから。いっそ鏡に包丁を向ける練習でもしておけばよかったかな。
高梨:もうやめてください。そんな言葉、あなたから聞きたくなかったです。
氷野:高梨がどう思うかとか気にしてないからね。嫌なら早く嫌いになりなよ。
高梨:簡単に言いますね。
氷野:実際簡単でしょ。
高梨:そういうところは嫌いです。
氷野:それ以外は好きみたいに言わないでくれる?
高梨:勝手に言わせておけばいいでしょう。
氷野:後輩のくせに生意気だね?それならこっちも言わせてもらうけど、こうして生き延びてるのは高梨の責任でもあるからね。高梨がいなかったら笑って死ねたんだ。幸せなんて言わないよ。でも、その方が楽になれた。
高梨:言うのが遅いんですよ、いつもいつも。そういうことをもっと早く、もっとちゃんと言ってくれたら、こんなことしなかった。今ここに立とうとしなかった。あなたのこと、無理に笑わせたりしなかったのに。
氷野:この期に及んで責任転嫁?無理にでも笑わせてほしいなんて頼んだ覚えないけど。
高梨:こっちだってわざわざ不幸になるために出会いたくなんかなかった。他人同士ならすぐに殺せたはずなんです。こんな喧嘩なんかせずに「誰でもよかった」って言いながらあなたを殺したかった。
高梨:殺されたいのに、相手に情をかけて殺しにくくする。先輩は何がしたいんですか?自分の傷と向き合う時間を引き延ばして楽しいですか?
氷野:楽しくないよ。楽しくないけど、死ぬほど怒らせても高梨が殺してくれないからさ。だって凶器持ってる側がその気になれば全部終わらせられるんだよ、いつでも。
高梨:怒らせたくらいで殺してもらえると思ったんですか?生憎ですが、感情で殺人はしない主義なんです。
氷野:高梨は優しいね。みんな、躊躇なんてしてくれなかったから。……ね、優しいね、高梨。こんな風に踏みとどまってくれるから、君じゃだめだって分かるんだ。
高梨:……感情、なんかなくても、……殺せるじゃないですか。
氷野:高梨、
0:高梨が振り上げた包丁は、狙いを大きく逸れて、肩から胸元にかけてざっくりと傷をつける。
氷野:っつ……下手くそ。思いっきり鎖骨に弾かれてる。斬るんじゃなくて刺すんだよ。
高梨:そんなこと言われても……先輩は教えてくれなかったじゃないですか、刃物の使い方。
氷野:そ、だけど……ほんっと、手のかかる後輩。そんな顔してさ。
高梨:うるさいです。
氷野:やっぱり向いてないよ、ひとごろし。
高梨:自分だって被害者なんか向いてないくせに、よく言いますよ。一人前の人殺しにしてくれたのは誰でしたっけ。
氷野:はは、
高梨:……最初から、全部このためにやってたんですよね。こっちだって巻き込まれて迷惑してるんですよ。
氷野:うん、そーね。ごめん高梨。ありがと、つきあってくれて。……あとは自分でやる。だから、帰っていいよ。
高梨:……そんな言い方されて帰れるわけないじゃないですか。
氷野:難儀だね。
高梨:誰のせいだと……
氷野:あーあー、もう怒んないで?ね?
高梨:怒ってませんけど。
氷野:怒ってるじゃん。
高梨:怒ってる、っていうか……くやしくて、悲しくて、自分が恥ずかしくて、……なんでしょう、やっぱり怒ってるのかな。うん、はい、怒ってます、先輩にも自分にも。
氷野:あは、もしかしてまた叱られる?
高梨:分かってるならやめてくれればよかったのに。
氷野:ごめんねー?
高梨:許しません。
氷野:あれ、いつになく強気じゃん。
高梨:そう、見えますか。
氷野:うん、見える。成長したね。
高梨:……成長なんかしてません。何にも変わってないんです、最初からずっと。まだ先輩みたいになれない。包丁を持って、それからどうしたらいいか分からない。あなたを殺すことなんてできない。
高梨:先輩の骨なんて見たくないんです、だから、あの、そうじゃなくて、……包丁の向きが逆だったらよかったのに。
氷野:そんなことすると本気で思ってる?
高梨:違、ちがう、んですけど、なんていうか。
氷野:なに?
高梨:多分、すき、だったんです、先輩のこと。
氷野:へえ、両思いだったんだ。知らなかった。
高梨:……嘘つかなくていいですよ。
氷野:いやいやいや、本気!本気なんだけど!
高梨:先輩が本気になってるところ見たことないんですけど。
氷野:えー?ま、疑われても仕方ないね。かわいい後輩に手を汚させて、トラウマを植え付けて、それと同時に口説くって完全にDVのやり方だし。
高梨:最低ですよ。
氷野:ほんとだよ。これであっさり信じられちゃったりしたら、高梨の将来が心配で死ねないね。
高梨:……それも嘘ですよね?
氷野:あは、バレた。ごめんね、ちゃんと心配するけど、それはそれとして全然死ぬよ。
高梨:嘘つきは泥棒の始まりですよ。
氷野:人殺しの嘘は殺してからが本番だからね。はーあ、ほんとなんで高梨はこんなやつについてきちゃったのかなぁ。友だちとかに趣味悪いって言われない?
高梨:ひどくないですか?今先輩に言われたのが初めてなんですけど。
氷野:あ、そう?高梨って好きな人に言われたことはなんでも真に受けちゃうタイプ?
高梨:その質問されて本気にすると思います?
氷野:あっはは!全部質問で返してくるじゃん。うん、好きだよ、そういうところ。若干趣味が悪いところもね。
高梨:うわ……
氷野:ははは、めーっちゃ嫌そうな顔。
高梨:なんでそんなさらっと……
氷野:ダメだった?
高梨:それ聞いてから殺さなきゃいけない側の気持ち分かります?
氷野:残念だけど1ミリも分かんないや。
高梨:じゃあ教えて差し上げますけど、「死ぬまで後悔して死んでもその言葉に縋りつき成仏できず悪霊になる自信しかない」って感じです。
氷野:成仏してくれないのはちょっと困るなぁ。だって高梨には地獄に来てほしいんだよ、好きだから。
高梨:すきだから?
氷野:そう。好きだから。離ればなれは寂しい、でしょ?
高梨:……同意はしますけど、このまま生きてもっと一緒にいようって方向にならないのが理解できませんね。
氷野:生きて一緒にいたら何かいいことある?
高梨:ハヤシライスをたくさん食べられます。
氷野:あは、よくわかってんねー。それはちょっと魅力的だなぁ。
高梨:ハヤシライスくらい、いくらでも作りますから。先輩が一緒に住んでくれるなら毎日だって。
氷野:それもう付き合ってるじゃん。
高梨:だめですか?
氷野:ダメ……とは言えないけどさー……
高梨:なんですか?
氷野:いや、もしかしたら死にたくなくなるかもなって思って高梨と付き合う世界線を想像してみたけど、普通に二人で死んでた。
高梨:それだと殺人じゃなくて心中ですね。
氷野:ま、結局死ぬなら高梨と死ぬより高梨に殺してもらう方がいいかなーってなった結果がこれなんだけどね。
高梨:どっちにしたって最低じゃないですか。
氷野:最低と最低なら死体は少ない方がいいでしょ。
高梨:そんな理由で置いていかれるくらいなら一緒に死んだ方がましです。
氷野:ごーめーんって。普通に好きな人が死ぬのやだもん。
高梨:なら植物状態か記憶喪失かの2択に賭けて死なない程度に飛び降りますけど。
氷野:もうちょっと穏便なのないの?
高梨:ないです。
氷野:えー?しょうがないなぁ。じゃあ、とっておきの催眠術かけてあげる。
高梨:先輩、催眠術使えたんですか?
氷野:証拠の回収が無理そうな時に1回使っただけだけど、それで相手が勝手に自殺してくれたから多分大丈夫。
高梨:その根拠はあんまり信頼したくないな……
氷野:もーーーこの期に及んでわがまま言わなーい!いいからこっち見て!
高梨:……
氷野:ほらほら、ちゃんと目を合わせる!上手くかからなかったら困るでしょ!
高梨:こう、ですか?
氷野:うん、お利口。さ、高梨はこの後どうするの?
高梨:先輩を殺して、
氷野:うん。
高梨:いつもみたいに埋めて。
氷野:そうだね。
高梨:それから、
氷野:それから?
高梨:いつもみたいに、ファミレスでご飯を食べて、……人を殺すのは、もうやめます。
氷野:他には?
高梨:先輩のこと、好きでいるのもやめます。
氷野:ん、わかった。……目、逸らさないでよ?
氷野:出会ってから今日までの高梨晴加は死ぬんだ、氷野紡と一緒にね。安心して、ちゃんと連れてってあげる。
場面転換。現在。
高梨(M):深く息を吸うと、冷えた空気が針のように鋭くて、鼻の奥がつんと痛んだ。
高梨(M):土を掘る。掘る。穴を開ける。スコップの尖った先端が、何度も地面に突き刺さる。動かない人間を納めるための空間は、ひとりでも掘れない大きさではないけれど、先輩がいないと、いつもの倍の時間がかかる。
高梨(M):土を掘る。掘り終えた穴の底に、先輩を横たえる。
高梨(M):穴を掘る。そして埋める。無意味な作業だと思う。小石と泥の隙間から、先輩のマフラーの端が見えて、ことさら厚く土を被せた。氷に近い水分を含む黒が、白いカシミヤに重く冷たくのしかかる。
高梨(M):これでよかった。よかったはずだと思い込みたかった。凍てついた土の深海に眠るこの人が寒くなければ、それだけで十分だから。
高梨:……雪。
高梨:このままずっとここにいたら、凍死とかできるのかな。どう思います?先輩。
高梨(M):ひとり分の白い息が、曇り空へ昇っていく。すこしハヤシライスの湯気を思い出して、それから、火葬場の煙みたいだと思った。
高梨:……あー……こういう寒い日にビーフシチュー食べたら美味しいんだろうな……ファミレスって何時くらいに開くんだっけ。ビーフシチューあるかな。あるか、冬だし。
立ち上がり、服や手の汚れを軽く払う。
高梨:じゃ、そろそろ帰りますね、先輩。……さよなら。次に会う時は、きっと地獄で。
◇