遡行

父の実家の庭に松の木があるのだが、その松が急に枯れかけたことがある。そのとき実家には父のほかに叔父、祖母、当時健在だった曾祖母がいた。

誰が言うともなく、満州に行っている伯父が危難に直面しているのではないかということになり、曾祖母が近くにある薬師如来堂に一週間ほど籠り、伯父の無事を祈り続けた。

その伯父は、大学の農学部に入学と同時に満州に渡り、大学が同地に所有していた農場で学び始めた。農場といっても、伯父が渡満した当時は半ば兵営と化しており、敷地内には塹壕が敷設され、退避用の横穴まで掘られていたという。

伯父はロシア人の家に下宿してロシア語を学び、大学卒業後は関東軍情報部(特務機関)に入って、下級スパイのような仕事をしていたらしいのだが、敗戦後にソ連側に捕縛されてシベリアに抑留された。曾祖母が薬師如来堂に籠ったのは、その頃のことだったかも知れない。

シベリアの収容所では、日本人の捕虜は便所掃除もやらされる。便槽に梯子を下ろして便槽内に下り、ツルハシで凍結した糞尿を砕いてスコップで掻き集め、バケツに盛って縄で上に引き上げる。この作業を延々と繰り返すのだ。足下で硬く凍結した糞尿にツルハシを振り下ろすたびに氷片が飛び散って顔に当たるが、臭いもないので、汚いという感覚はなかったという。

昭和25年頃、伯父は最後の交換船で舞鶴港に帰って来た。顔中凍傷だらけだったため、出迎えに行った家族は、伯父を見分けられなかった。伯父の帰国第一声は「レーニン万歳」だったそうだ。

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