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小沢健二が大好きだ

ブギー・バック。渋谷系。フリッパーズ・ギター。これらすべて、僕にとっては過去のものだ。1980年代後半~1990年代半ばに起こったムーブメントは、1996年に生まれた僕にとって体験しようのない歴史上の出来事でしかない。当時を振り返った小説やエッセイ、評論は数多く存在するので、当時の渋谷の雰囲気や小沢健二の衝撃を追体験することはできる。ただ、追体験はあくまで擬似なのだ。90年代を生きていない僕にとって、小沢健二の音楽と真に接することは出来ない。小沢健二の世界観に惹かれつつも、埋まることのない距離感を感じ、熱中しきれない自分がいた。

「優れたJ-POPはその時代の熱狂と共に語られる。」これは僕の持論だ。YMOが一世を風靡したとき、宇多田ヒカルが「First Love」を発表したとき、世間は衝撃を受けた。そしてその衝撃は多くの人の記憶に残り、今日まで語られ続ける。そしてYMOや宇多田ヒカルの音楽が流れるたびに人々は当時の出来事を思い出すのだ。タイムカプセルを開けたかのように。

そして小沢健二の音楽もまた、世間に衝撃を与え、今なお聞かれ、語り継がれている。けれど僕が「小沢健二」というタイムカプセルを開けたとしても、そこには何も入っていない。あるのは「当時を僕は生きていない」という事実だけだ。どれだけ接近を試みても、共有点を持つことなく空を横切るだけの彗星のように、僕はいつまで経っても真に小沢健二を体験できない、そのことを煩わしく感じたこともあった。

そんな僕が「小沢健二の音楽」と接する、またとない機会が去年訪れた。新譜『So kakkoii 宇宙』の発売である。実に13年ぶりのアルバムである。心躍った僕は再び小沢健二との接近を試みた。

そうしたら一曲目『彗星』から感極まってしまった。なんたって歌詞がいいのだ。

そして時は2020 全力疾走してきたよね

1995年 冬は長くって寒くて 
心凍えそうだったよね
だけど少年少女は生まれ
作曲して録音したりしてる
僕の部屋にも届く

開始10秒で僕の小沢健二に対するわだかまりは消し飛んだ。小沢健二が今を生きている僕らに向かって、音楽を作っている。そのことが僅かな文章量の歌詞でもありありと分かった。その瞬間、小沢健二は「歴史上の人物」から「今を生きる人間」に変わった。僕は今小沢健二と同じ時代を生きているのだと胸が熱くなった。

今ここにある この暮らしこそが宇宙だよと
今も僕は思うよ なんて奇跡なんだと
自分の影法師を踏むように
当たり前のことを 空を横切る彗星のように見てる

なんてカッコイイサビ。アルバムを聞く前は表題「So Kakkoii 宇宙」を見て、「宇宙とは大きく出たな、小沢健二」とか思ったわけですが、全然大きい話ではなかった。この暮らしこそが宇宙、というのが小沢健二が今回のアルバムで伝えたかったことであり、『彗星』はこのアルバムのテーマ曲のような役割を果たしている。これは個人的な推察だけど、「暮らし≒子育て」であって、自分の子供と接している中で宇宙を感じたのが今回のアルバム制作のきっかけなのではないかと思っている。だから今回のアルバムは音楽を聴いている人に語り掛けていると同時に、息子への手紙でもあるのかなーと思いながら聞いている。

歌詞の話だけしてきたけど、それ以外ももちろん最高だ。独特なリズム、渋さと若々しさが同居する歌声、そしてゴージャスなストリングスアレンジ、その一つ一つが小沢健二ならではで、このアルバムをリアルタイムで聞ける喜びを改めて感じた。特に『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』で流れる、穏やかなトランペットソロには他のミュージシャンの楽曲で感じたことのない心地よさがあった。

このアルバム、もう何十回と聞いているが、面白いことに1曲ずつじわりじわりと良さがわかってくる。全部の曲が一聴して「良い曲!」ってなるわけじゃなく、正直何が言いたいのかよくわかんない曲もあったんだけど、聴いてるうちに最初は気付かなかった良さがどんどんわかってくる。だから月によって一番好きな曲がどんどん変わるアルバムになった。僕はこのアルバムを事あるごとに聴き返すだろうし、きっとそのたびに「So Kakkoii 宇宙」は僕らに語り掛けてくるだろう、宇宙のすばらしさを。

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