始まりと終わり。
「死」からのスタート。
ずっとずっと前から、「やろう」「始めよう」と思っていた想いを言葉に綴る「書く」という行為。どのブログにしようか迷ってたところ、noteのデザイン性とシンプルさに惹かれ、アプリをダウンロードしてそのままだったnote。
それを、本日から始めることにした。
なぜスタートが本日になったかというと、父方の祖父が亡くなったからだ。
自己紹介もする間もなく(自己詳細はプロフィールにて)のっけからheavyな話題だが、これは暗い話ではないことをあらかじめ宣言しておこう。
私の祖父母はもう父方の祖父のみ。
ここでは「じーちゃん」と呼ばせていただく。
私の父と母は離婚していて、父は田舎でじーちゃんと2人暮らし。仕事の都合やらでなかなか田舎に帰れずにいたが、高齢のじーちゃんのことはずっと気にかかっていた。最後に会ってからもう5年は経つのではなかろうか。ずっと田舎のことが気になっていたところに、現在もなお猛威をふるっているコロナウィルスの到来。
こんな時に田舎に帰っていいのだろうか。どんなに自分が丈夫だとはいえ、今帰ったら皆に迷惑がかかるんじゃないだろうか。帰りたい気持ちとコロナ渦の狭間でずっと悶々としていた。でもどうしても高齢のじーちゃんのことが気にかかっていた。そのことを父と電話で喋ったら「ワシらは受け入れるから、帰ってきたいと思うなら帰っておいで」と言ってくれた。
そう言ってもらえたこと、叔母の「会いたいと思ったときに会いに行ったほうがいい」という言葉に背中を押され、後ろめたい気持ちはありながらも田舎に帰ることを決心した一昨日。帰る予定を父と電話したのが昨日。そして今日チケットをとった矢先だった。
父からの電話。
「いいかい。驚かないで聞くんだよ。」と落ち着いた中にも優しい父の声を聞いた瞬間、私は悟った。
「じーちゃんが亡くなった。」
聞くところによると、じーちゃんは今朝もピンピンしていたがばーちゃんのお墓参りに行ってその場で倒れたところを発見されたらしい。死因は熱中症の確率が高いそう。でも突然死だったので、警察の人も来てこれから検死をするところだという。
うん。分かっていた。
なんとなくじーちゃんに死の足音が近づいているのを感じていたんだろう。こんなにじーちゃんに会いたいと思うのは虫の知らせだったのか。
悲しくて涙が止まらなかった。
でもなんでこのタイミングなんだよ。
もう少しだけ待ってて欲しかった。
もう一度じーちゃんのしわくちゃのあたたくて大きな手を握って抱きしめたかった。
父は言った。
「じーちゃんは生ききった」と。
私はじーちゃんの過去を知らない。
だけどばーちゃんのいるお墓で苦しまずに天に召された。過去は知らないけど、これだけは分かる。じーちゃんはばーちゃんを心から愛していたということ。その愛するばーちゃんの側で90年という人生の幕をおろしたじーちゃん。なんとドラマチックな死に様だろう。我がじーちゃんながらかっこ良すぎるじゃねぇか。
じーちゃんの死の報告をしてから父は言った。
「人はいつか必ず死ぬ。生きてる我々が今を頑張って生ききることが何より大切だ」と。
これはじーちゃんからのエールではないか?
「今やらなかったらいつやるんや?今の人生を生ききるんよ。」というじーちゃんのメッセージだと受け取り、思い切って本日を、私の「スタート」「始まり」の日にしたというわけだ。
始まりがあれば終わりがある。
いつも始まりと終わりはセットで用意されている。
それなら自分はどんな終わりにしたいか。
必ずくる終わりなら、やりたいことやってアホになって今を全力で生きて楽しむ方がお得じゃないか。
そんでその終わりを迎えるときは笑顔でいたい。
90年の人生を生ききったじーちゃん。
なんでも生きてうるうち。
笑って泣いて悩んで考えて喚いて叫んで、全力で「現在(いま)」という人生を味わっていきたい。
とにかく生きているうち。
読んでくれるかもしれない読者には、生きているうちに愛する人に愛してると伝えていって欲しい。生きているうちにしか直接伝えられないのだから。
このnoteの方向がどうなるかは私自身、未知である。この文字と言葉にすることも私という人生を存分に味わうという1つのツールとして綴っていきたいと思う。
最後に。
じーちゃん。愛してるよ。
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