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アンの人生 赤裸々白書 ①九州編

昨年、BUYMAで独立するまでのサクセスストーリーを記しましたが、最近はそれ以前の体験談について聞かれることが増えてきました。

そこで今回は、学生時代の頃の話、社会人になってBUYMAを始めるまでの話を赤裸々に綴っていきたいと思います。

 BUYMAで稼ぐようになるまでのサクセスストーリーをまだ読んでない方はこちらもお読みください。


まずは今の現状。
私、アンはBUYMAで無在庫物販を行なっており物販ビジネスは4年目。年商は2500万。法人経営していて2期目に突入しました。
BUYMAではファッション業界の知識と卓越したリサーチ力を武器に、ハイブランドより10万以下の知る人ぞ知るブランドをメインで販売。20%を超える高利益率での受注は当たり前。ブルーオーシャンで悠々と稼ぐことを得意としています。

プライベートでは結婚しています。夫は院卒→ホワイト企業に務めるエリートサラリーマン。最近は資産運用を始めたようです。それから2歳と0歳の子どもがいます。とーっても可愛いです♩


4年前、タイミングよく購入できた高層マンションに住んでいます。都内を一望できる眺望よし、セキュリティよし、ご近所さんよしで生活環境には自体はかなり満足なのですが、元々住み替え予定で買った物件だったので来年戸建に引っ越します。今住んでいる物件は、購入時より1000万くらい高値になっています。美味しい買い物をしました。



と、ここまで読むと、順風満帆すぎる幸せな生活に見えますが、、、



遡って15年前、私は不登校児でした。




1.高校時代。友人からのいじめ

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わたしは九州の田舎の出身です。通っていた高校は文武両道を歌う進学校。制服が可愛いと評判の共学の学校でした。田舎なので、公立高校に入るのが当たり前、私立は滑り止めという環境。私は制服が可愛いことと修学旅行先がイギリスだということを理由に行きたい高校を選びました。統一模試での判定が中3の夏の時点で良かったので調子に乗り、夏はアメリカにホームステイに行き、本気で勉強したのは冬休みに入ってから。そんなナメた受験生生活でしたが普通に受かりました。高校受験の結果もの受験者の中では上位ライン。余裕で行きたい高校に入れた〜!やったー!とウキウキで制服に袖を通したことを今でもよく覚えています。

そして待ちに待った高校入学。自宅にインターネット接続が月○時間までと制限されている契約プランが組まれていた当時から、PCが充実している家庭で育ったので(今はパケット容量が重視なので20代前半には理解できないかもしれない)、WEB上の掲示板やチャットをよく利用していて、オンラインを介して高校入学前に友達の紹介で仲良くなったAちゃん、Aちゃんの知り合いだったBちゃんと3人で毎日一緒に過ごしました。

6月にAちゃんが誘ってくれた他校の文化祭である男性に出会い、夏の初めにすぐ彼氏ができました。最初は楽しかったのですが、彼は寮生活をしていたので、付き合って1ヶ月ほどで夏休みが始まったあとは実家に帰ってしまっい全く会えなくなりました。青春真っ只中の遊びたい時期です。デートしたい、海に行きたい、花火大会に行きたい。せっかく時間はあるのに遠距離になってしまったので何もできません。

私の気持ちはあっという間に冷めてしまい、夏が終わる前にお別れをしました。



これが悲劇の始まりでした。

それからは別れた以外は何も変わらない普通の高校生ライフを過ごし、冬が来てAちゃんからメル友を紹介されました。もちろん快く受け入れ、メールをスタート。3週間ほどで、クリスマス。その人と会うことになりました。
場所は忘れもしない駅前に飾られたクリスマスツリーの下。こっちはウキウキです。カップルが盛り上がるシーズン。HAPPYな展開が待っているのではないかと期待してしまいます。メールも毎日それなりに盛り上がっていました。


待ち合わせの10分前に到着。彼の到着待ちました。
・・・が、待てども彼はきません。写メを交換しているので顔はわかっています。

???

連絡をしてはみますが、一向に返信は返ってこず。。


2時間経ちました。
まだ来ません。。。


色々な不安が過ぎり、もう諦めて帰ろうかと考え出したとき、
「何してるの〜?」と現れた人がいました。


Aちゃんでした。
友人を連れて、にやけ顔で



話をすると、
「え、彼と会うんだ〜!へー!」


と言ってあっという間に去って行きました。



その直後です。
鬼のような長文で、メル友のアドレスから悪口を浴びせられたメールが届いたのは・・・


完全にハメられていました。当時テレビで流行っていた「ブラックメール」を模して、彼女が全て仕組んでいました。

私が彼を待っていた2時間は、後ろから様子を見物して、来るわけもない相手を待っている私を見て笑っていたのでしょう。


目の前が真っ白になって、何も考えられず家に帰りました。




Aちゃんはもちろん、Bちゃんにも一切連絡を取らないまま新年を迎え、新学期になりました。
何もなかったように仲良くできる・・・はずがなく


AちゃんはBちゃんと一緒に、毎日クラス中に聞こえる大声で、私に向かって「気持ちわりーんだよ!早く帰れよ!」などと罵声を浴びせ続ける日々が始まりました。いわゆるスクールカーストでは一番上のグループだったので、周りは何も言えません。
私は全てが恐ろしく後ろを向くことができません。周りの全てが白い目で自分を見ているように感じます。

私は自席に座り小さくなってじっと耐えて過ごすしかない生活になりました。

それからまもなく、当時持っていた携帯の個人HPも突然不特定のIPに荒らされ、知らない人から誹謗中傷の嵐。リアルの世界も趣味のオンラインもどん底です。

2週間が限界でした。
それから私は学校に行けなくなりました。



信頼できると思って色々と話していた人からの裏切り。
勉強スピードの早い進学校で、授業がわからなくなることへの恐怖。鬱にななってしまうまでさほど時間はかかりませんでした。

毎日朝9時を過ぎてもベットから起きることができない。親に叩き起こされても体が動きません。布団に潜り込みます。

自室から飛び降りて死ぬことを考える日々でした。(戸建ての2階だったんで、飛び降りても死ぬわけないけどね )


目の色は灰色。お先真っ暗。
なんだろうな。まだ16歳、高校1年。楽しいことばかりだと思っていた人生ががらがらと崩れ落ちていきました。


残念なことに、私の親はいわゆる「毒親」だったので、世間体を気にすることばかりで子どもと向き合うような人間ではありません。子どもの心の傷よりも自分のことが大事。だから親に怒った出来事を話すこともできませんでした。心療内科に通わされましたが、医師も信用できず具体的な話をすることは一度もなく、ただ薬をもらうだけでした。

とにかく外に出ず引きこもっていたら、噂を聞いた地元の幼馴染が、遊びに誘ってくれたり、Aちゃんのことを中学時代から知る他校の友人が心配して連絡をくれ、実はAちゃんは中学時代から相手を変えてはイジメを繰り返すかなりヤバい子だったことを教えてくれたりしました。

実はAちゃんは、Aちゃんの友人だった元彼と別れたことで彼を振った私に腹が立ったようです。元彼はAちゃんのメル友だった人でした。これがトリガーとなり関係が崩れ、いじめのターゲットとなってしまいました。サイトを荒らしたのも彼女。2chに書き込んで荒らし依頼をしたようです。


そんな事実を聞き、支えようとしてくれた友人たちのおかげで少し気持ちが和らぎ始めた時、高2からは理系と文系でクラスが完全に別れることに気付きました。AちゃんとBちゃんは理系、私は文系です。
クラスは100%離れます。

2年からはもうあんな想いはしなくて済む。。。
これ以上休んだら留年が確定だしなんとか通いたい。。

その信念で、高校2年になった4月からなんとか学校に通えることになりました。新学期、登校した初日、教室に入った時は顔しか知らない新しいクラスメイトが自分を攻撃してくる敵に感じましたが、そう感じたのはものの数分でした。学校に来ていなかったことに対して何も触れず、声をかけてくれた人がたくさんいました。

あの時事情を知りつつも、仲良くしてくれたクラスメイトには感謝してもしきれません。
担任も、高1の時の、現状を見て見ぬ振りのおじさん教師から、ラグビー部を花園まで導いた熱血教師に変わりました。毎朝熱いホームルームはなかなか楽しく、クラスも仲が良かったので高3の卒業後もクラス会をするほどでした。

学校は楽しくなったけど残念ながら勉強は遅れを取り戻すことができませんでした。入学時は大学はMARCHに行きたいな〜なんてキラキラした大学ライフを思い描いていたのに、どん底に落ちた成績を上げて大学進学することすら諦めてしまいました。

その後は試験前になると何日か図書館で勉強。それ以外はアルバイトに精を出す日々。成績は赤点スレスレで乗り切って無事高校を卒業しました。

(ちなみに私を追い込んだ主犯ではなかったBちゃんとはいつか分かり合える日がくるんじゃないかと思っていましたが、Bちゃんは大学進学後、自転車と車の交通事故で亡くなったと風の噂で数年後に知りました)



2.専門学生時代。自分を変えるために服と音楽に触れる

高校卒業後は、福岡に行きました。

進学先は専門学校です。高2の時進路選択で見つけた服飾系専門学校。試しに体験入学に行ってみたら、先輩たちが凄く個性的で面白い!高校は校則が厳しくピアスも髪を染めるのももちろんでしたからNGでしたから、自由にファッションを楽しむ先輩たちの姿は強烈でした。髪型は金髪、銀髪、ピンクヘア。ファッションも、好きなブランドで全身きめている人。ゴスロリファッションもいたし、派手な古着ファッションの人、自分で作った服をきている人もいました。矢沢あいさんの漫画「ご近所物語」や「Paradise kiss」のキャラクターのようです。

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同い年の高校生数名と仲良くなりました。彼らもまた、ファッションにすでに詳しく、センスの塊のような方ばかり。8人ほどの男女のグループができ彼らとは体験入学以外でも会うように。

「福岡に行ったら自分を変えられる!人生が変わる!」

そう思いました。


そうして始まった専門学校生活。授業の資料として配られるのはコレクション誌やWWD、掲載されている私の知らないブランド。奇抜なデザイン。次元の違う世界。外見はモードな雰囲気で、ファッションに詳しそうなファッション学生になれましたが中身は全くの空っぽ。福岡に住む都会っ子は沢山のブランドに路面店や百貨店などで触れたことがあり、知識が豊富。そんな仲間たちに追いつきたくて、学校でも家でもパリコレなどコレクションのランウェイの資料を読み、ブランドに足を運び、当時福岡で最もお洒落な人が集まると言われた大名で、福岡のアートカルチャーにもふれました。

当時周りにいた人達はアーティスト肌、クリエーター気質の人が多く、個展を開いたり、自身のブランドを立ち上げた人もいました。(あれから10年以上経ちましたが、東コレに出て活躍している友人もいます。。)

心理学に興味を持っていて、「自分はどういった人間なのか」と日々自問自答をしている日々。友人たちのそういった活動に触発され、自分で作り上げてしまっている殻を破りたくて、自己表現がしたくなり、自分の内面と向き合うためにDJを始めました。

始めてから数ヶ月で様々なイベントから出演依頼をもらうようになりました。DJは自分の持ち時間を選曲を変えながらドラマを作っていくのですが、私の選曲がカッコいいと喜んでくれる方がいました。当時流行りのゴリゴリなEDMではなく、ディープでストイックなテクノミュージックなどを好んでいたので、若いのに珍しいというのもあったのでしょう。いつの間にか多い時は月に5本クラブでプレイし、長崎や大分などから出演依頼を受け、訪れたこともありました。

また姉妹校に通う同級生たちと派手な学生イベントも主催していました。音楽だけでなく空間演出をするチームもあって、毎回スタート前から5時間くらいかけて内装を準備して挑む大イベント。毎回200人くらいの人が来ていたように記憶しています。

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社会人になってからも活動を続けていましたが、夜はイベントに顔を出し、4時間睡眠をとって学校や仕事に行っていたので、今はあの生活は送れませんね。。週5~6で誰かと乾杯して、人脈作りやお客さんとの交流に勤しんでいました。

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一番盛れてた時、、(笑)



3.社会人。セレクトショップに勤務して

卒業後は、学校の授業で知り合ったセレクトショップのオーナーから声をかけられ他のでそこで働きました。この当時は純粋に好きな仕事がしたくて、たくさんお金を稼ぎたいなんて欲は何一つありません。
お店は国内のドメスティックブランドを扱うセレクトショップでした。高校の時に憧れていたセレクトショップの店員になるという夢はあっという間に叶ってしまいました。

個人事業の小さな店だったので、接客のイロハはもちろんオンライン通販の運営、バイイング経験、プレス経験と色々なことを経験させてもらいました。

2年後、働いていたショップが店をたたむになったので仕事を探すことになりました。ちょうど同時期に福岡に支社ができたばかりの、アパレル会社に応募したらマネージャーが私の経歴に反応し、意気投合してすぐに受かりました。イベント運営やファッションキュレーションサイトなども運営している会社だったので、ブログも書いて欲しいと言われ、もれなくブロガーにもなりました。

仕事がスタートするまで1ヶ月間あったので、大丸のお歳暮のテレアポのバイトをしました。BUYMAで活動していてもよくある、「荷物が届いていないみたいなんだけどどうして!?」という電話の応対ばかり。贈り物なので、電話口で怒っていたり時には泣いていたりもして、結構大変でした。

そして博多阪急の立ち上げを経験。半年スーツやビジネスウェアの販売を経験した後、店舗を移動して「Kitson」のオープニングスタッフとして働くことになりました。

Kitson、知っていますでしょうか?当時木下優樹菜さんが原宿の店舗で2時間でウン十万円お買い物したと話題になった、LA発で一世を風靡したセレクトショップ。ロゴがドカンと刻まれたトートバッグが流行りました。

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kitson Lovers official blog より転載
(すっかり忘れてたけどスザンヌさんもきてくれてました)

オープン時は、店頭に大行列ができました。ちょうど九州新幹線が開通してすぐでしたので、九州各地からKitsonのバッグを求めて人が溢れます。人が多すぎてお客さん同士の間隔が50cmくらいしかありませんでした。

オープニングパーティには2000人くらいお客様が集まって、ゲストがMay.Jさん。DJで駆り出されたので、そのプレイ後にステージに立った彼女にマイクを渡す役割をしました。私はTVを見なかったので、May,Jさんを知りませんでしたが顔がちっちゃいし笑顔が可愛くて好きになりました。

Kitsonには、社員が私を含め3名、あとはアルバイトスタッフでした。アルバイト生は200人の応募から選ばれた6名の女の子たちでした。現役モデル、語学堪能な元グランドホステス、ダンサーなど、ショップの雰囲気に合った、ルックス抜群のスタッフばかり。


ここで、また事件が起こります。。。

オープン時は先ほど話したように順風満帆で、忙しすぎて30分しか休憩が取れない状況だったのですが、オープンして数ヶ月すると状況も変わってきました。落ち着いてくると、やはり重視されてくるのは売上。

店ではスタッフ毎に個人売りがついていました。店舗の月間の売上目標から分配されます。会社から指示される目標金額がとても高かったので、個人売りを達成できる人が少なかったのですが、アルバイトで唯一達成している人がいました。その方が俗にいう”腐ったリンゴ”でした。(以下彼女をNさんと呼びます)

Nさんは売上をあげられることで天狗になり、横暴な振る舞いをするようになりました。休憩を規定の時間より長く取ることから始まり、ルール違反な商品を社割で購入したり、注意されても店長に反抗しやりたい放題。ついにはアルバイトを率いてまとめ上げるようになりました。

店長は、引き抜きで着任した30歳の女店長でした。
そんな彼女の振る舞い、売上を達成できないことによる上司や取引先からのプレッシャー。相当なものだったのでしょうね。。。


クリスマスに店長が飛びました。


私はこの事件が起こった前後は別の期間限定ショップの応援で店を離れていて、その店長の心の変化には全く気づくことができませんでした。


その後、繰り上げで店長になったサブも荒波のこの店の状況に耐えられず、店長が飛んで2ヶ月後には辞めてしまいました。Nさんはこれで店が自分のものになったと思ったのでしょう。さらに自由な振る舞いをし、店の中は崩壊の一途をたどりました。売り上げはすでにどん底です。


その後男性の店長が着任しました。大阪・梅田の某ショップでマネージャーを勤めた実力者で、相当のやり手だと聞きました。彼も最初は彼女をなんとか更生させようと試みました。。が無駄でした。Nさんはバチバチと敵意剥き出しの態度を取り、裏では仲間たちに向かって店長の陰口を触れ回るようになりました。


店の状況を改善すべく戦略を練り、Nさんを辞めさせるための手筈を整えました。私は、店を守るため店長のサポートに徹しました。

・・・が彼女はうわてでした。
もし自分が辞める時は皆で一緒に辞めよう。と周りのアルバイト生とすでに裏で結束していました。

計画実行の日。いつものように通常の2倍の時間の休憩をとり帰ってきたNさんを店長が裏へ呼び出しました。私は店長の指示で店頭に立ちます。すると裏から「ふざけんじゃねえ!てめえ!」Nさんの怒号が聞こえました。店長の胸ぐらを掴んだ後、その店にいた他のアルバイト生を従え、消えていったそうです。


・・・・・・・・・((°▽°))・・・・・・・・・・・


とにかく、この一件で、"腐ったリンゴ"はいなくなりましたが、同時に他のアルバイトも全員飛んでしまったので残ったのは店長と私2人のみ。半月に1度だけの休み。朝から晩まで店頭に立ち、休憩の時にはヘルプで別店舗からスタッフを呼んでなんとか店を回し続けました。

この後新しくアルバイトが決まって人数自体は確保できましたが、採用されたのは勤務態度に問題のある10代の女の子ということも多く正常に業務が回らない。安心して店を運営できるという状況には至らず

男性店長は鬱状態となり休職してしまいました・・・


そうして、店を回す社員が自分だけになってしまいました。模様替えをすれば深夜まで作業。そして早朝から出勤する日々。マネージャーから叱られ、泣きながら作業をすることもありました。とにかく辛い。。

もう無理です。。。
このどん底の店の状況にもう嫌気が刺していました。


そんな時慕っていた先輩(現役のスタイリストの方)に「東京に来たらいいのに」と言われました。
もう23の歳、上京するなら今しかない。「東京に行きたい」という気持ちが強くなり始めました。

追い討ちをかけるように、福岡ではクラブの一斉摘発が起こりました。自分が主で活動していたクラブが風営法で摘発され営業できなくなってしまいました。(当時風営法により0時以降に客がダンスフロアで踊る行為が問題視され、大阪や福岡などで一斉摘発が起こりました。3年後の2015年に風営法の改正によって「特定遊興飲食店営業」の許可を取得することで営業ができるようになっています)

楽しかったDJ活動までできなくなってしまいました・・・


店長が鬱になって3ヶ月後。
私は会社を辞め、新しい仕事も決まらないままに上京しました。



つづく

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