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ムラサキカタバミの咲く家

 毎年初夏になると、郊外の我が家の庭に濃いピンクの小さな花が咲いた。
 1本の茎にハート型の葉が3枚ついたクローバーのような葉は、冬の間生き生きとした緑色を保ち、4月の初め頃からポツンポツンと花茎を伸ばし、やがて可憐な花を咲かせ始める。
 花の数は日ごとに増していき、5月には庭のあちこちに緑とピンクの縁取りができる。
 庭の低木の植え込みの周り、家の外壁の下、庭を囲む外の塀際にもこの縁取りができる。

 その花を植えたのは母で、庭や外の塀沿いに縁取りのように育てていたのだった。
 どこにでもある雑草のようだが、付近でその花を見かけたことはないので、どこかで見つけて採ってきたのだろう。
 私はこの花が大好きで、幼い頃、よその家の庭の縁に咲いていたこの花を摘んで、祖母に持っていったものだった。

 母方の祖母の家は私の家からほど近く、すぐそばの煙草屋の角を曲がって、大人の足なら2分程度の距離だった。
 煙草屋の角を曲がると左手には低い板塀で囲まれたネギ畑があり、ときどき畝の草取りをしている老人の姿を見かけた。
 季節によってネギ以外の野菜も育てられていただろうが、私が覚えているのは、白っぽい薄緑色の葱坊主が並んでいる光景だ。

 道の右側には幅1メートルほどの水の浅い溝川が続き、道は少し先でゆるい逆くの字型に折れ曲がっていて、その先は見えなかった。
 当時の交通量は現代とは桁違いに少なく、車がその道を通ることはほとんどなかったので、幼い子供が1人で歩いても危険はない。のどかな時代だった。

 ネギ畑の隣りには一軒だけ小さな平屋の家が建っていて、その隣りは空き地の野原だった。
 昔の家によくある造りで、その家も道路に面した南に縁側があり、いつも真ん中にガラスの嵌まった障子が閉まっていた。

 障子の内側はどうなっていたのだろう。
 母が私に1人で祖母の家に行くのを許すのは明るい昼間のうちと決まっていたから、外から見ると中は暗くて、道路から庭越しに覗いてもわからなかった。
 幼い私は、この中が見えない家の前を通るうちに、家の中を見たいと思うようになったかもしれない。

 この小さな家の庭は背の高い目の粗い金網で囲われていたが、庭一面に植えられた草花は道を歩きながら眺めることができた。立木はほとんどなかった。
 右隣りの野原の向こうにはいつも背の高い門が閉まっている大きな屋敷があり、屋敷と野原の間に、手前の舗装道路と並行した未舗装の細い裏道が通っていた。
 野原を通り抜けてその細い裏道を左に曲がった左側に、小さな家の玄関があった。屋敷の塀越しにそびえる樹木のせいでいつも日陰だったが、玄関の脇にはヤツデかツゲか何かあったと思う。
 とにかく、南側の道路に面した庭にあるのは草花ばかりだった。

 庭に張り巡らされた金網の下には、まるで縁取りのように緑の草が生えていたが、夏になるとその中に濃いピンクの花が咲いた。
 私はこの花が気に入って、祖母の家に行くたびに摘んでいった。
 祖母は私から花を受け取ると、冷たい井戸水を汲んだコップに生けてくれた。
 花好きで、家の中、とりわけ祖父の位牌を置いた仏壇に新鮮な花を欠かしたことがない祖母は、孫娘の花の手土産が嬉しかったに違いない。

 あるとき、いつものように通りすがりに金網の縁取りの花を摘んでいると、庭にいた若い女の人が話しかけてきた。
「そのお花、好きなの?」とでも聞かれたのかもしれない。
 花を摘んだことをとがめられたという感じはしなかった。

 庭にその家の住人がいることに気付かなかった私は、ほんの少し驚きながら、はにかんで頷いたか、あるいは言葉を返したか……。
 当時4〜5歳の私の目にさえ若く映ったのだから、その人は本当に若かったのだろう。まだ二十歳かそこらではなかっただろうか。

 そのお姉さん以外に、一度だけ、庭先にいた黒っぽい着物姿のおじさんを見たこともある。
 その家には娘と父親しか住んでいなかったはずはないのに、私は母親らしき人を見たことがなかった。

 その程度のかかわりなら、私が家の中を見たことなどあり得ない。
 それなのに、私はお姉さんに招じられて野原を通り抜け、玄関に回って、この家に上がり込んだような気がする。

 玄関を入ると板張りの狭い玄関の間があり、目の前の障子を開けると、そこは真ん中にこたつがある茶の間で……部屋の中は薄暗く、閉め切った障子に嵌まったガラスを通して、陽に照らされた明るい庭が見える……。

 果たして本当にそうだったのだろうか?

 子供というものは何でもないものを不思議がる。
 見えないものをあれこれ想像しているうちに、実際に見たような錯覚に陥ることもあるかもしれない。
 障子に嵌められたガラス越しに、外から家の中が見えないことを不思議に思う子供心が、家の中に入ってみたいという願望を生み、中に入ってみたという幻想を生んだのだろうか。

 後年、母にこの家の話をしたことがある。
 母の話では、あのお姉さんは叔母(母の妹)の同級生だったそうだ。結核を患って、まだ若いうちに亡くなったという。
 とすると、私が出会ったのは、彼女が勤めを辞めて自宅療養している頃だったのか。
 それから間もなく亡くなったということらしい。

 それなら彼女が私を知っていたということもあるだろう。
 私に話しかけたのも、偶然というよりは、同級生の姪という親近感からだったかもしれない。
 たとえそうだったとしても、結核患者が幼い子供を自分の近くに寄せるとは思えないから、私が家に上がり込んだというのは、願望であって現実ではなかったということだろうか……。

 母が亡くなって何年も経ってから、何かの話のついでに、叔母にあの家のことを聞いてみた。
 やはり、あのお姉さんは叔母の同級生だった。

 ところが、なんと、結婚して子供もいるというのだった。
 母は何か勘違いしていたのだろうか。他の誰かと間違えたのだろうか。
 たとえば、叔母の同級生にはお姉さんがいて、結核で亡くなったのはその人だったとか……。
 母は亡くなっていたので、聞いて確かめることはできなかった。

 母の間違いの理由は思いつかなかったが、叔母に母の言ったことは伝えなかった。
 叔母は5年前に亡くなったので、もう叔母にも聞くことはできない。

 結核でなかったなら、同級生の姪を家に上げたかもしれない。同級生の姪と知ってのことであれば、だが。
 いずれにしても自分の記憶が曖昧なので、家に上がったこと自体が想像だったかもしれないし、いくら考えても無駄だ。

 あの初夏に咲く濃いピンクの花は、郊外の我が家を処分して都内のマンションに引っ越してくるとき、一株だけ鉢植えにして持ってきた。
 どんどん株が増えて、季節が来るとベランダで美しく咲いてくれた。
 その後も引っ越しを重ねるたびに持ち歩き、増え過ぎて困るので、今はマンションの門のところに植えてある。

 ムラサキカタバミ……この名前を知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
 実際には芯が緑色なのがムラサキカタバミで、芯が紫なのはイヌカタバミと言うらしい。それがわかったのは更にずっと後だった。(塊茎で増えるのでイモカタバミとも呼ばれているらしい)

 あの小さな家にあった花も、我が家の庭の花も、芯が紫なのでイヌカタバミと呼ぶべきだろうが、長い間ムラサキカタバミと呼んできたので、今でもこの花をムラサキカタバミと呼んでいる。
 私にとっては、幼い日々と母につながる花、いつまでも心の中に咲かせておきたい花なのだ。


※上の写真は我が家にあったムラサキカタバミ(イヌカタバミ)。下が本当のムラサキカタバミ。



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