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ヘブライ人への手紙第10章

発信する内容は実体そのものではない。
フェイクニュースなどもある。
実体はその人そのもの自体である。

現代は人々同士の結びつきが希薄になっている。

病気、戦争、災害で自分の持っている財産、家族がなくなったら、自分の支えがなくなる。
病気になると、自分が後どのくらい生きれるのか、意識する。と同時に問題あるものと罪を意識する。
今まで神さまそのものではなく、神さまを正確に見えていなかった。それ故に人間は神さま以外のものに頼っていた。しかし、死に直面すると神さまを見ることになる、神さまに意識を向ける。神様に呼びかける。
それがこの章のテーマ。

神さまは捧げ物を好まない。レビ記4章に書いてあるような捧げ物は必要ない。

罪を自覚して信仰者として向かって行く。

心は神さまになくて、律法だけ守っている。つまり、言われたことだけをやっている。それは神さまに喜ばれない。心が離れているのに形だけ行っているだけである。神さまのことを心に留めていない。教会に行って奉仕しても疲れるだけである。


神さまに向かう心と神さまの為に働く体が一致していると疲れない。

勧告。真理の知識を受けた後、神さまに心を向けた状態で体は逆の方向を向く。罪を犯す→体のバランスを崩す。

最終的に神さまを蔑ろにする。
神さまを思っているのに、全く行いが違う方向のことをする。

心に神さまがいるという
悪いことをするという習慣、環境だった。
その人達が集まって良いことをするという習慣。悪いことをするという習慣が減っている。

敵対する心は神様に委ねる。

「「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。」
30節

敵に、「失敗しろ。やっつけてやる」という心を持たなくても良い。

許すということから始める。憐れむということが大事。憐れみの心を持って、敵対する人さえも良くなって欲しいと願う。

22節

「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」



ヘブライ10章

いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。
ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。
それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。
あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。
そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」
ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、
次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。
この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、
その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。
なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。
「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。
もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」
罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

奨励と勧告
それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。
イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、
心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。
互いに愛と善行に励むように心がけ、
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。
ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。
モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。
まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。
「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。
生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。
あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。
実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。
神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」
しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

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