抒情的な食べ物について

 セブンイレブンで売っている透明なカップ入り総菜が好きで、昨日はカプレーゼを買った。最近つい何度もこのカプレーゼを買ってしまうのは、伊藤計劃の『ハーモニー』というSF小説でカプレーゼが出てくる場面が頭に刻まれているからに違いない。主人公が旧友とレストランに入り注文したカプレーゼがテーブルに運ばれてくるのだが、旧友は話の合間にそのカプレーゼをじっと見つめていたかと思うと突然フォークで自分の喉を突き刺して絶命してしまうのだ。
 食べ物の描写が別に旨そうでなくても、上記のように食事どころではない事態が勃発してスルーされてしまったとしても、本の印象的な場面とともに頭にインプットされている食べ物はふとした瞬間に思い出して「食べてみたいな」と思ったりする。村上龍『イン・ザ・ミソスープ』では、夜の街の観光ガイドをしている主人公が外で殺人鬼の外国人とカップヌードルを食べる場面がある。その殺人鬼は、樹脂製のフォークに巻き付けたままのヌードルが冷えてゴムみたいになっていくのにも構わず身の上話に熱中するので主人公は「そんなに放置したら不味くなってしまう」と気が気ではないのだが、その殺人鬼は「うまい物を食べたいという欲求が無いのでね」「うまいものを食べると、自分の中からなにか大事なものが抜けて行ってしまう気がするんだ」と説明しつつ、すっかり冷えてのびきった麺を口に運ぶ。私はこのシーンが妙に好きで、そのせいでカップヌードルを買うこともあるくらいだ。サリンジャー『対エスキモー戦争の前夜』という短編では、主人公が訪ねて行った友人宅の居間で、友人の風変わりな兄からデリカテッセンで買ってきたばかりだというチキンサンドを受け取る。このシーンで特に好きなのは、いいから食べてみろと強引に勧められた主人公が一口齧ってみせてとってもおいしいわ、と世辞を言い苦労して嚥下する描写だ。とてもまずいサンドイッチで云々といった直截的な表現はないのに、主人公が口内いっぱいの不味さに辟易して喉におしこむ感覚が読んでる身にも伝わってきて、そこがいい。少しくわしく話の筋を説明すると、この主人公の女の子は友人宅の居間で出くわした友人兄のヘンテコさに最初は警戒して憎まれ口をたたいたり反論したりするのだが、風変わりな会話を続けるうちにちょっと同情的というか、打ち解けた感じになる。そこであの不味いサンドイッチの描写が来て、続いて待っていた友人がやっと居間におりてくるシーン、とっさにサンドイッチを上着のポケットにねじ込んで一緒に外へ出るシーン、わけあって険悪だった友人と少し仲直りっぽくなるシーン。そして最後に「彼女は一人になってから、もらったサンドイッチを道端のくずかごに捨てるかどうか迷ったが、結局元通りポケットに仕舞った。むかし可愛がっていた小鳥が死んでしまって、大人からそんな死骸はやく捨ててしまいなさいと言われた時にも彼女は小鳥を長いことポケットから出せなかったのだ」的な記述で締めくくられているのも、この話を気に入っている点だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?