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5月から6月の記録

 発熱と全身の痛みで発熱外来にかかったところ、腎臓にばい菌が入って炎症を起こしているとかで仕事を三日間休んでいた。それを除けば2月終わりに就業して以来休みも遅刻早退もせず働いている。前職でのだらしなさとは見違えるほどの対比だ。私はやればできる人間なのだ。ただ、繰り返し懸念として日記に書いているように好きにだらだらできないストレスで菓子を爆食いしフルーツジュースを飲む頻度が増えたので、晩夏ごろに予定している健診でよくない結果を出してしまうかもしれない。飲食でストレスをしのいで糖尿病や脂肪肝になるか、飲食によるストレス発散も我慢した結果発狂して自分か他人に危害をくわえ社会的に終わるかのどちらかの道しかないのだろうか。せつない。なんかブコウスキーの小説に出てきそうでカッコイイカモーと思って心の刹那的な慰安を求めようとしたが、無理だった。かっこいいかよくないかはもはや私にとって問題ではないからだ。働くのってつらいよねみたいなトピックの雑談掲示板は毎日といっていいほど立っているが、ある時覗いてみたら「自我を持つな 牛や豚が将来の夢を語る無意味さを知れ」と書いている人がいて、身も蓋もなくて少し笑った。人の言動を見聞きして 身も蓋もないこと言うなぁ と思うのが結構好きだ。


 実家からはたまにキャンベルのスープ缶を何種類か送ってもらう。食べたことのある人は知ってると思うが、めちゃくちゃおいしいものではない。チキンヌードルスープの缶を鍋にあけたところ、鶏スープに2-3センチの短い麺がたくさんと、最後に小石の親分程度のサイズの鶏肉がころりと落ちてきた。そういうところにアメリカ文化っぽい大味さを感じるので缶詰を温めて食べる一連の所作がなんとなく楽しいのかもしれない。ウォーホルが描いたたくさんのスープ缶が並んでいる有名な絵とかも思い出す。有名なラーメン漫画が元ネタかと認識しているが、現代人は食事をする時記号を食べているという言い回しがよく批判的に使われる。有名店に行列を作るとかのわかりやすい行為だけでなくても、けっこういろんな場面において記号で飲み食いしてるのかもしれない。


 不注意で家の箸が折れた。もうまともな箸は二膳しかない。買わないとな、と思った瞬間「箸ぐらい誰かくんねぇかな」という思考が勃然とわいてきた。なぜそんなさもしいことを急に思ったのだろうかと自分に当惑しつつ、昔読んだ町田康の悩み相談の文章を思い出した。『人生を救え!』という本に収録されていたと思う。落雷でTVが壊れたので買いなおそうと思ったら同僚から「TVなんてわざわざ買わなくても誰かくれるでしょ」と言われたんですが、どうすればもらえるものなんでしょうかという相談内容だった。今思い出して書いてみたけど、なんだよこの悩み相談。町田康の回答は「あなたのTVが欲しいという思いが周りの人々に十分に認知されていない。ことあるごとにTVがないとバラエティ番組などが楽しめないわ苦しいわー。あふふふ。落雷のボケが。殺すぞ。とかずっと言い続けてください。あいつにTVをやんないとうっとうしくてしゃーないわとなった人が誰かTVをくれるでしょう」という内容で、この回答もなんなんだよ。

他にわざわざ買わなくても誰かくれそうなものの代表としてはうちわが挙げられると思います。その証拠に、うちにはどうやって入手したか記憶のないうちわが三つあります。職場が蒸し暑くて汗がだらだら出るのでひとつ持っていこうと思います。


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