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一泊二日で猪苗代へ行った (前半)

 気の置けない友達と遠くの温泉宿に泊まってみたいという長年の願いがようやく叶った。その友達によると「福島県の猪苗代がいいのではないか。猪苗代湖や五色沼といった湖の景色がきれいだし、むかし日帰りで行ったことのある諸橋近代美術館がとてもよかったのでまた行きたい」とのことだったので、行先は猪苗代にすぐ決まった。とにかく寛ぐことに重点を置き、予定をあまり詰めず、宿でも常に一緒に行動したりいっぱい会話したりすることにこだわらず思い思いに過ごすことにした。そういうのんびりした旅にあこがれていたので、嬉しい。
私は長野県に住んでいるので、猪苗代へ行くには在来線と新幹線を乗り継いで片道あたり運賃は14, 000円ぐらい、時間は乗り継ぎ待ちとかも含め5~6時間かかる。友達は東京在住なのでそれよりはもう少し楽だったらしい。久しぶりの長距離移動だったけど、思っていたより疲れなかった。TVで霜降り明星というお笑いコンビが相方の変なところというテーマで喋っているのをみたことがあるのだが、粗品がせいやについて「こいつは車や電車で移動している時、スマホを見たり音楽を聴いたりするでもなく手を膝において座ったままずーっと前を見ているので不気味だ」と語り、せいやが「俺は虚心坦懐乗り物に乗って移動するという行為をしているだけや。わざわざ他に何かする必要はない」と反論するやりとりが好きでいまだに覚えていて、私もたぶんせいや氏の感覚に近い状態で移動できたのだと思う。ゴールデンウィーク合間の平日であり会社勤めなどで有休をとって大型連休としている者も多いのではないかと思われたが、私が向かう方面はまったく混雑とは無縁であり、とにかく人込みさえ避けられたら上機嫌な性分なのでこれはありがたかった。おそらく多くの者が東京、鎌倉、京都、軽井沢といった都会に足を運んでいるのだろう。在来線と新幹線を乗り継いでの長距離移動に慣れておらず、たくさんある切符のうちどれを自動改札に通せばいいかよく分からず当てずっぽうで通したあげくエラーで改札を封鎖したら恥ずかしいので、乗り継ぎ地点を通るたび駅員に手持ちの切符すべてを広げて見せ「このうちどれを通せばいいですか?」と訊いたものだ。これを機に切符通しの法則性を学ぼうとしたが結局自分で判断できる気がしなかったので、これからも列車で長旅をするときは駅員に訊こうと思う。

 一日目は友達と郡山でおちあい、猪苗代に移動してごはんを食べた。とにかく車も人も少なく、こちらとしては快適で嬉しいけど大丈夫なのだろうかと心配になるほど閑散としていた。2023年5月現在、猪苗代駅付近の飲食店はとても少ない。車があれば別だが、駅から徒歩で無理なく行ける範囲の店は1~2軒だと覚悟しておいたほうがよい。私たちは昔懐かしい雰囲気の喫茶店に入り、友達はカレーライスとココア、私は山菜ピラフとレモンティーを注文した。

いい雰囲気
友達がしきりに金魚の視線を気にしていた
漫画のラインナップも充実

店主は気さくなご婦人で観光客にも慣れているらしく、店を訪れる客がメッセージを書く用の、昔から続く自由ノートを見せてくれた。分厚いハードカバーのノートは何冊も並んでいて、1970年代に書かれたぶんのメッセージに興味を惹かれた。読んでみたところ普通に旅行で回った場所の感想を書いている者、深刻な人生の悩みを書き連ねている者、片想いの相手への心情を吐露する者など様々で、後の二つのカテゴリに関してはこれ他人が読んでいいやつ……?と少しどぎまぎした。旅先だと開放的な気持ちになってそういうことを書きたくなるのかもしれない。2000年代よりも長文のメッセージが多く、相合傘が描かれていたりするところに時代を感じた。せっかくなので私たちも書かせてもらった。友達が先に書いたのに続けて「↑の友達と一緒に来ました」と横着して書いたら笑われた。昼ご飯を済ませても宿のチェックインまでまだ時間があるので、猪苗代湖を見物に行くことにした。グーグルマップで見ると猪苗代駅からだいぶ近そうに思えたが、ちょうど駅前ロータリーにいたタクシー運転手に訊くと「歩いて行くなんてとんでもない。少なくとも30分はかかりますよ」と目をむいた。地図の縮尺の感覚に慣れていないと、初めての土地でこういう思い込みをしがちだ。猪苗代湖まで行って駅まで戻ってくるのにそのタクシーの世話になることにして、見物に行った。湖面は向こう岸が判然としないほど大きく広がっていて、当日の曇天と強い風もあいまって荒涼とした味わいのある景色が楽しめた。私たちが湖を眺めたり写真を撮ったりしている間、運転手は車の近くをぶらぶらしながら待っていてくれた。猪苗代駅へ戻る車中で湖の感想を述べたり、運転手からこの土地のことを色々きいたりした。運転手の語り口はきわめて流暢で、観光客に案内し慣れていることが窺えた。「離れた湖岸の近くに二人ぐらい人が入って何かしているのが見えましたが、漁をしていたのでしょうか」と訊いてみたところ「さあ、猪苗代湖は酸性の水質で透明度が高いんですけど、商売になるほどたくさん魚がとれるわけではないと思いますが……ウグイとかフナとかの淡水魚が少しはとれたかな」との返事だった。

曇天の猪苗代湖
寒いので5月でも桜が見られる


 さて、猪苗代駅からさらに市バスに30分ほど揺られ、宿からの送迎バスに乗せてもらったすえに温泉旅館に着いた。移動中もお互いに黙ってぼんやりしたりスマホを見たり車窓に気になる景色が見えたら感想を言い合ったりとのんびり過ごせたのが良かった。今回泊まったのはいちどに受け入れる宿泊客は最大四組程度というこぢんまりとした温泉宿で、四つある源泉かけながしの温泉が自由貸切りという豪華な仕様だった。この日は私たちのほかに宿泊客は一組しかおらず、山奥の景色や静謐な雰囲気を堪能できた。あてがわれた部屋を見てまわって間取りや設備にいちいち歓声をあげたり、備品の双眼鏡で窓から木の芽を眺めたりけん玉やお手玉やコマを物珍しくもてあそんだりした後は、それぞれ持ってきた文庫本を読んだりスマホやTVをみたり気ままに過ごした。文庫本はかなり迷ったすえに新潮文庫から出ている太宰治の『きりぎりす』という小説集を持ってきた。この中に収録されている『佐渡』という短編が旅の話なので旅情が盛り上がることを期待して選んだのだが、数年ぶりに読み直したところ思っていたより佐渡のことをけなしていたので狼狽した。発表当時、佐渡の関係者が読んで怒ったりしなかったのだろうか。小説で読むなら旅が全部うまく行った話よりも、予想に反して気持ちが盛り上がらなかったとか現地の人とテンションがかみ合わなくて困惑したという話のほうが味があって好きだから、別にいいのだが……。友達のほうは巡礼者に関する本を読んでいた。

つづく

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