見出し画像

キリマンジャロのプライドはかつて私の中にも存在していた

おおよそのひとが持つ「愛」だとか「情」だとか、そういうものが私には備わっていないらしい。そのことに気が付いたのは小学3年生ぐらいのころだったろうか。


常に周囲の人間の顔色をうかがうことが癖になり、「その人が言ってほしいこと」を予測し心地よい言葉を与える。


あるいは大人が「こうあってほしい」と考えるその人物像に沿うように、考え行動する。


そんな私を母は「他人に興味がない子」と評し、人とも自分とも正しく向き合えない自分は、愛情が欠落しているのだと理解した。

20代に差し掛かると、「期待されている自分」そのままでいることがとても上手になった。


それがとても、楽だったのだ。


主体性のない自分を、さもそれが本当であるかのようにみせ、「いつでもやりたいことを好きなようにやっている」と思われるまでに完璧な自分を演じることができるようになった。


そのころから、私は本当の意味での本心を誰にも打ち明けなくなった。


「何を考えているかわからない」とは、私と親しくなった人全員がもれなく言うことだ。


強いて言うなら「何も考えていない」が答えなんだろう。私は自分の考えを放棄し、求められるがままを演じることがすべてになり、その「はりぼての二十数年」は、30代目前にしてすべて崩れ落ちた。


今の夫に出会い、私の殻や壁というものを力づくで取り払える人がいることを知った。彼の前では本音を言えたし、言えないときには彼が無理やりにでも本音を聞き出しに来た。

一晩かかっても、根気よく「それが本心なのか?」と、私の心と向き合ってくれた。

自分自身ですらあきらめていたことを、他人である彼がいとわず行えることに感動し、同時に自分をかこっていたはりぼてが、くだらないプライドだったのだと気づいた。


弱い自分を見せたくない、できない自分を見せたくない、そんなちっぽけな、本当にどうでもいい自尊心でできた「囲い」の標高は、軽くキリマンジャロを超えていたかもしれない。


素直に想いを伝えられる人は、それだけで素晴らしい。素直にと言っても、歯に衣着せぬだとかそういう意味合いではない。


素直な気持ちは誰の心にもとげのように刺さらないし、ともすればささくれた心を修復するぐらいのパワーを持っていると思う。


フリーランスとして生きていると、この標高6000m級のはりぼてと共に歩いている人を良く見かける。しかし本当に求められ、大切にされ、長く活躍できる人は、その言葉一つだけで荒れ果てた心をリペアできるほどの優しい素直さを持っている人なのではないだろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?