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30歳、泥濘の中

 静かに静かに降り積もっていたものが、限界が来たのだと思った。仕事をはじめて10年以上、本当にたくさんの数え切れないほどのことがあった。14歳の17歳の19歳のあの時、ここが今一番の底にいるのだと思っていた。私はそこから這い上がって、もう二度とあの頃の自分に戻ることはないと思っていた。もうどうしようもできない、何かに依存しなければ生きていけない子供ではない。自由だ。ちょうど倍の年齢になった時、家族よりも大切にしたいと思える彼にも出会えた。私は幸せものだと思う。

 なのに、どうしてだろう。

 奈落の穴はどこにでも空いているし、海のそこから太陽の降り注ぐ砂浜に這い上がったと思っていた私は、何も変わってなんかいない。自分の積み上げてきたものの脆さと、染み付いて離れないものがあるということを、海の底はとても綺麗な場所だったということを。海の底は底じゃなかった。底がある方が幸せだったのだと、淀んだ水と腐った土の底なし沼のような今、思い知った。

 溺れても、もがいても、水よりも重く重くのしかかるそれに足掻く力すらなくなって、動けないのだということ。そんな気力すら湧かなくて、どこへも行けずに、立ち尽くし横たわる地面すらない。踏み止まれる足掛かりもない。沈んで凝り固まって、濃度を増す変われないものと変わっていってしまうものと。

 泥なら綺麗な水で洗い流してしまえばいい。油なら炎で燃やしてしまえばいい。闇なら光、影には灯り。そんな単純なものでできていればよかった。けどそれが複雑に絡み合った混ぜ合わさったものならどうすればいい?問いには答えをというものでもないのでしょう。

 蓮のように花を咲かせなさいと言われても、どこへ何を目指せばいいのかも分からない。根を葉を伸ばす先すらわからない。流れているのか、沈んでいるのか。花は咲くまで自分が何色の花なのかなんて知らないし考えもしないのに、私は人だから、どこで咲いて、何色の花をどれだけの大きさに咲かせたらいいのか考えてしまう。悩んでしまう。そして悩んでおきながら自分がどんな花を咲かせたいのかすら分からないでいる。

 人からどう見られているかばかり考えている。好かれるのも嫌われるのも人それぞれ仕方ないと思いながら、嫌われることに傷付けられることにひどく怯えている。そんな自分に疲れているのに、疲れたと泣く気力すら今は無い。

 あの時は、誰かの迷惑になるのならその時死のうと思っていた。死んで楽になったのだろうという当人を、解放されたのだろうという家族をたくさん見てきた。今の私はどうだろう?家族は?彼は解放されたいだろうか。

 そんな単純で簡単に片付けられるものじゃ無いんだよと、とりあえずは14歳の私には伝えたいと思う。

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