アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』が掴んだモノ、残したモノ。

 ※例のごとく、感想をしたためた雑記と思っていただいて構いません。もちろん多少なりともネタバレを含みますのでご容赦を。注意点は考察なんてほぼ無いよってこと。そういうのが読みたい人は[ アニメ シンデレラガールズ 考察 ]でググれば宜しい。

 そもそも何故今更、などと思われるかもしれませんが、どうにも心の中でモヤモヤしたものが溜まり続けていて、いっそアウトプットしてしまえばスッキリするかもと思ったもので。はっきり言って、もう年末だし、大掃除感覚だい。

 しかし先に言っときますが、わたしゃあこのアニメ好きだよ。そもそも評論家では無いので嫌いなもののことに例え些細なことだろうと労力を注ぎたかぁないのも事実ですがね。と、言うことでまず、アニメでは無い、アイドルマスターシンデレラガールズの説明なんかもやっときましょうか。

 アイドルマスターシンデレラガールズはアイドルマスターの世界観を受け継いだソーシャルゲームとして2011年11月からサービスを開始した、基本プレイ無料のソーシャルゲームのタイトルである。今でこそ当たり前になりつつあるが、ソーシャルゲームでありながら登場人物の多くに声優を起用しCDも数多く発売された。
 多くのファンに支持され、アニメ化が決定した段階でゲーム内で使えるアイテムが配布され、アニメ開始時にはフライデーナイトフィーバーキャンペーンとしてテレビアニメと連動したキャンペーンも始まり、その盛り上がりは遠目に見てて痛快であった。
 遠目で見てて、と言うのは正直な話、ゲームにそこまでのめり込めなかったからってのが主な理由である。まあ、ゲームシステムそのものに起因することなので、詳細は省きます。

 このアニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』はアイドルマスターシリーズに分類され、行列の出来るラーメン屋の暖簾分け的な扱いでした。でしてー。
 だから、アニメTHE IDOL M@STERとも比較されてしまうのもやもなし。原作ファンの母体数も多い上、続編とも言える位置付け故に、制作会社、制作者の肩に伸し掛る重圧や苦労はえげつねぇものだったと容易に察せます。

 ……が、それはそれ、これはこれ。

 制作者サイドの苦労や苦悩が作品に滲み出てしまっては意味が無いのです。スケジュールや予算の都合で作画崩壊や、放映延期なんてことはあってはならんのです。それだけで作品の評価はだだ落ちしてしまう昨今。(ユーザーの評価が厳しいと言うか、重箱の隅を突く主婦目線のような感じもして、もう少し緩くてもイイんじゃないかなぁ、なんて個人的には思ったりもしますが。いや、権利は行使するべきなんでしょうが)

 なんにせよ、アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』、略してデレアニは映像のクオリティに関してはトップレベルだったのではないでしょうか。
 細かいピンボケやソフトライトなどの映像効果もシーンを印象的に見せるのに一役も二役も買ったことでしょう。だがしかし、そんなことはどうでも良い(良いわけ無いが)それが全てというわけではあるまいて。
 映像以外で作品評価に繋がる箇所と言えば、音楽。やっぱ音楽だよね。NO MUSIC.NO LIFE,なんつってね。アニメだろうが映画だろうが近代映像作品において音楽は切っても切り離せなくなりつつある。アニメから離れても日常的に音楽は流れてるんだもの。
 だが、デレアニは音楽も良い。BGMとして挿入されたインストも去る事ながら、OP、ED、挿入歌がまたふんだんに惜しげもなく使われてるよ~。

 正直な話、わたしゃあ、アイドルマスターファンが集まるコミュニティの中では所謂、765AS派という派閥に属していることもあり、このデレアニを不純物の無い、まっさらな気持ちで観ることは、そりゃあ出来ませんでしたよ。端的に言ってしまえば、アニマスとは別物であり、偽物、というひねくれた感情を抱いていたのも事実です。アンチに近い厄介さんですよ。完全にこじらせてますよね、ゴホゴホ。だもんで、一歩退いたところから「ふうん、アンタが私のシンデレラ?」なんて感じで観てたんですよ。
 でもね、だからこそ、ビックリしたんです。だって、全話を見終わったらシンデレラガールズを好きになってしまったんですもの。みんな可愛いんだよ。もう、テノヒラクルー。
「ふうん、アンタが私のシンデレラ? まあ、悪くないかな」ってもんさ。割とこのパターンに陥りやすいのも自分で心得ていますが。

 世間に出回ってる作品は好みと感性の問題とは別にして、ちゃんと読めば、しっかり時間を割けば、感想として出てくるのは「良かった」というものが溢れてるんじゃあ。
 だって創作に関わる人ってのは、情熱を作品に込めるわけですよ。こだわりと矜持を持って作られてるんだから、良い物が出てくるのは必然とも言えようぞ。

「んじゃあ、具体的にどの辺が良かったのって?」って聞かれたら、それは自分の目で見て、アイドルの歌を聴いて、心で感じて、確かめて欲しいっス。

 不満が無いって言えば嘘になる。

 でもそれは裏を返せば、「好きになっちゃったからなんだ」ってことでもあるわけで。

 目に付く範囲で多かった評価が、「一期は良かった」という声。まあ、分かる。一期良かったよね。でも俺はみくにゃんそのものを便利屋扱いしたこと未だに許してないからな!! 二期では多少解消されたけどさ。え~、本当にめんどくさいPですね。基本、アイマスPってめんどくさいんですよ。面倒なオッサンばっかなんだよ。
 みんなそれぞれに理想があって、それぞれのアイドル像があって、好き嫌いがあって、公式に提示されたものですら許せない部分があったり。そんな集合体なんだから、内部分裂も致し方なかろうもん。アイマスPは細胞っすよ細胞。ガン細胞にだけはなりたくないよね、ホント。
 本家(この場合、本家とはアケマスと呼ばれるものを指す)原理主義や、アイマス2だけは絶許な人も居ますし、息の長いコンテンツなんで地雷も多い。怖い。わたしゃあ穏健なほうですよ。結果的にではありますが、シンデレラガールズも好きになってしまったので。まあ、プロデューサーと言うよりは、やはりファン目線に近いのやも。でもそれで良いと思うの。自由で柔軟でゆるゆるでも許される。それがアイマスなんだ。おっとっと、話が逸れてしまいました。

 いまいち釈然としない演出、構成だった二期。ライブシーンなんかはカメラの回り込みを期待してたのにかなり少なかったし。本家アニマスが凄かっただけに少し残念に思ったり。でも別にそんなことは俺からしたら些細なことですよ。(話が破綻しかけてる)
 アニメなんてものは、好きになれるかどうかが全てなんじゃい。頭空っぽにして見れるくらいが良いんじゃい。好きか嫌いかそれ以外の三択で良いんじゃい。難しく考えないで、シンプルイズなんちゃらで良いんじゃい。

 もしかしたらデレアニは考察するアニメだと言う人も居るかもしれない。

「このシーンに出てきた○○は△△だから、つまり□□ってことなんじゃないのか」って考察するのも楽しいんだけど。それよりも、アイドルをちゃんと見てあげるほうが俺にとっては重要。そう言えば童話のシンデレラって大衆的で何か安っぽいよね。(問題発言)

 本人自身は不幸な身の上かもしれないけど、突然現れた魔法使いがかぼちゃの馬車とねずみの従者と麗しいドレスとガラスの靴を用意してくれた上で、出掛けた舞踏会で王子様に見初められる。とくに何の努力もせずに他人の力で幸せになれるシンデレラストーリーなんつーものが王道ストーリーとして蔓延ってるわけだがや。いや、それはそれで良いけども、何か釈然とはしないものが股下にぶら下がったお金玉的なものの辺りからこみ上げてくるっつーか。
 アイドルに何をしてあげられるのか、シンデレラ達に何をしてあげられるのか。プロデューサーに取ってはそっちのほうが重要なんじゃないかと。その意味合いではデレアニは薄味だったかもしれないね。

 でもね。

 主役として、メインヒロインとして、島村卯月は選ばれた。それは素敵な素敵な舞踏会への挑戦権でしかない。お城の階段までの道のりは遠く、たくさんの困難が待ち受けている。
「アピールポイントは笑顔です。笑顔だけは誰にも負けません」
 ……そう思っていた時期が僕にもありました状態に陥った島村卯月の顔は涙でくしゃくしゃになっていた。誰にも負けないと思っていたモノが誰でも出来るモノだったことに気が付いた瞬間、それは無価値に等しいモノに成り下がってしまうー。しまむー。
 器用とは言い難い卯月が頼れる、唯一の武器はみんなが最初から持ってる冒険者の標準装備だったわけで。島村卯月に取って、そんな笑顔は捨てることも叶わぬ呪いの装備に変容を遂げた。こういう展開、たまらなくおじさん好き。

 シンデレラガールズにぐっと心を“掴まれてしまった”のです。

 散々繰り返されたフレーズが後々になって効いてくるのは毒に近い。でもね、毒に掛かった状態からダンジョンを出て、残りHP2とかで城下町に辿り着いたときにしか味わえない、得も言われぬ達成感、たまらなくおじさん好き。むしろそれを味わいたいがために毒消し草を買わないまである。要は、シンデレラガールズもとい、シンデレラってRPGなんだよね。 #絶対に違う
 違うと言えば、先述しました通り、アイマスというコンテンツにおけるアイマスPたちが相対したときの科学反応も様々で、ケンカまではいかなくとも、お前と俺は違う的な暗い気持ちを抱えてる人も居る現状。
 でもアニマスしかり、デレアニしかり、シンデレラガールズの面々も落ち込んだり、塞ぎ込んだり、アイドル辞めるなんて言ってみたり、それはそのまま、アイマスの歴史であり、再構築に近い事象なんだよ。もうほぼ同じだよね。ドラクエにしろFFにしろ、シリーズものはみんなまとめて同じっしょ。

「俺はドラクエ4が好きで、お前はドラクエ5が好き! そこになんの違いもありゃしねぇだろうが!」

「 違 う の だ ! 」

 ……はい。違うものは違うのでしたか。そりゃそうだよね。

 この感覚。この感覚が働くんだよね。恐らく。アイマスに長く触れた人ほど、この感覚に陥りやすいのかもしれない。雑にアイマスへ置き換えてみよう。

「俺はミリオンスターズが好きで、お前はシンデレラガールズが好き! そこになんの違いもありゃしねぇだろうが!」

「 違 う の だ ! 」

 これだとまあ、違うのはそりゃ違うよね。違うものを追いかけてるんだもの。でもこのやり取りの元ネタは漫画、キン肉マンのワンシーンで、カラスマンとザ・ニンジャが戦う最中、その昔ザ・ニンジャと共に戦い厚い友情を交わしたはずの正義超人のブロッケンjrが応援に駆けつけるも、ザ・ニンジャはブロッケンJrを突き放す。しかし、それはブロッケンjr達を庇うためのザ・ニンジャの配慮だった、というもの。なので少し変えましょうか。

「俺はプロデューサーの赤羽根健治で、お前はプロデューサーの武内駿輔! そこになんの違いもありゃしねぇだろうが」

 これが正解です。違いなんてそんなものです。プロデューサーという視点に立てば違う事務所だろうが別に応援したって良いんだよ。どうしたいかだけで良いんだよ。
「俺が観たかったアニメのアイドルマスターはこれじゃない」
 そう言う人も居るかもしれない。だけどこれもまたアイドルマスターが提示してくれた、新しいひとつの形態なんだって。受け入れられないならそれでも良い。それもアイドルマスターさ。

 ガラスの靴を用意してあげます。魔法をかけてあげます。

「その代わり、貴女はどのような素敵な姿を見せてくれますか?」

 その問いかけの答えは、もしかしたら各々の理想の中にしか無いのかもしれない。だけど、別々の理想を追い求めたって良いじゃない。デレアニは俺たちがシンデレラの将来を思い描くために魔法使いが用意してくれたものなんじゃないかなって、そう思うよ。
 少なくとも俺は彼女たちを好きになる魔法をかけられたもん。デレアニは沢山の「好き」をくれたもん。

 いつか魔法が解けたとしても、きっと、好きだったという気持ちだけは残ってるから。

 十二時の鐘が鳴り、残っているものはガラスの靴だけだとしても。

 触れたときに感じた温りだけで、魔法の証拠には十二分でしょう。


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