優しい嘘
川崎洋さんという方の『ウソ』という詩を読んだ。
中学生の頃に国語の授業で嫌々ながらに音読をさせられていた時には、何とも思わなかったのに今になり読み返すと、不思議と心の琴線に触れた。
おそらく今日まで僕が生きてきた過程で、嘘というものに対して億劫になってしまったのだと思う。
なんで、みんな僕に嘘を吐くのだろう。ただ生きているだけで、毎日の様に嘘が降りかかってくる。
嘘にもたくさんの種類があると思う。今思いつく限りで書き出してみる。
・相手を騙し利益を得るための嘘
・相手を傷つけないための嘘
・面倒な衝突を避けるための嘘
・自分を大きく見せるための嘘
・自分を守るための嘘
欺瞞、配慮、協調、虚栄、防衛。
こうやってひとつひとつを分けて考えると、欺瞞以外はそんなに悪くもない気もしてくる。
———嘘を吐かれている—
あの何とも言えない気持ちを僕が初めて感じたのは、幼少期の頃に家族のみんなで遊んだ、桃太郎電鉄での出来事だった。
そのゲームには "貧乏神" "デビル" などの、意地悪をする、お邪魔キャラがいるのだが、家族のみんなは僕にお邪魔キャラが付くたびに「友達が出来たね」「良かったね」などと嘘を吐くのであった。
最初の頃は、本当に友達ができたのかと思い歓喜していたが、今になって思うと、どう考えても友達が出来た時のBGMではない。
僕はそのゲームをしている時だけは、家族との間に空気の壁があるような違和感を感じていたのであった。
そして、ようやくそのゲームの本質を徐々に理解してきた。どうやら貧乏神やデビルは友達ではない。むしろ敵なのであった。
僕がそのことを完全に理解した瞬間に、自然と口から出た。
「俺もう分かってるから嘘をつかないでよ」
ついに口にした瞬間の、ピンと張り詰めた空気は今でも忘れられない。
まるで、さも僕が言ってはいけないことを言ったかのように、家族のみんなは気まずそうに、おろおろとしていた。
目の奥がチリチリして、心臓を掴まれ揺らされたような感覚がして、手足は一気に冷たくなる。
これはなんの嘘だったのだろうか。
きっとお邪魔キャラが付く度に、昔から人一倍負けず嫌いで、泣き虫だった僕がいちいち泣き喚いたり騒いだりするのが面倒だったのだと思う。
僕を泣かせないための配慮の嘘と捉えることもできるし、子どもが騒ぐのが面倒だという自分を守る防衛の嘘だと捉える事も出来る。
そしてきっと、その両方だったんだ。
"優しい嘘"というのはきっと配慮の嘘の事であって、そこに他の要素が含まれたら、それは優しくなんてない。
少なくとも、僕はそんな嘘を吐かれたくないのです。
そもそも配慮とはなんだろう?気遣い、建前とも似ている気がする。
そういえば、僕は昔からお世辞や建前も苦手だ。
"優しい嘘紛い"の汚い嘘を僕に吐いてきた人達は「あなたを傷付けないために」とみな口を揃えて言った。
なら黙ればいいのに。話さなければいい。
「沈黙は時として最高の答えになる」と聞いた事がある。もしくは「話したくない」の一言で済むはずだ。
正直な事だけが自慢の僕でも、わざわざ他人に向かって、不細工だなぁ、太っているなぁ、と思ったとしても、仲良くなるまではさすがに口にはしない。
それではあまりにもデリカシーがない。だが、ある程度の関係性を築けたのであれば、話は違う。
不細工とも、太っているとも、正直に僕は言う。
それが僕にとっての他人と身近な人間への境界線であり、相手への誠意のつもりだ。
人間、自分の顔だけが見えない。他人の顔は見えるのに。
内面にしてもそうだ。自分の事だけが視えない。他の人に教えてもらうことでしか、自分の事がわからない。
アドバイスとは時として、いや大抵は人を傷付けるかもしれない。それでも僕はこれからも、お節介やありがた迷惑を好きな人には続けるつもりだ。
それが僕にとっての愛情表現であり、僕が思う相手のためなのです。
相手を傷つけない為の"優しい嘘"の正体は、自分が嫌われたくない、または好かれたいだけの、ただの嘘だ。人の為と書いて、偽りと読む。
こんな僕でも、もちろん嘘を吐いて、生きてきた。
おそらく僕が人生で一番付いてきた嘘は「あなただけが好き」という嘘だ。
欺瞞、配慮、協調、虚栄、防衛、その全てをぐちゃぐちゃに混ぜて、この嘘に縋ってきた。
心の中のことだし、墓場まで持っていけば問題はない。そんな風に思っていたと思う。
でも本当の僕には、好きな人はこの世界中にたくさんいる。一度でも好きになった人を心の底から嫌いになった事はない。
断言する。これは嘘じゃない。
腹が立って許せなかったり、デメリットを感じて距離を取りたい事があったとしても、一年二年も経ってしまったら、なぜだろう。
もう二度と会えないという事実に、いつもただただ、淋しくなる。
金を貸して飛ばれたシャブ中にも、浮気をされたあの阿婆擦れにだって、もう二度と会う事がないのだと思うと、とてつもなく侘しい気持ちになる。
今さら謝られたところで、心の底からは許せないのかもしれない。でも、正直に話してくれるだけでよかった。それだけでよかった。
もう二度と会わないとしても、本当のことが知りたかった。
吐かれた嘘ばかりか、今まで一緒に過ごした時間そのものが、なんの説明もない別れに溶け込み、全てが嘘になってしまった気がする。気が狂いそうだ。
一緒に過ごして楽しかった時間は本当ですか?存在していましたか?僕がいて幸せだった時間はありましたか?あの笑顔は本当でしたか?
答え合わせもせずに、あなたが居なくなってしまったから、何が本当だったのか、何が嘘だったのか、わからなくなるじゃないですか。
もしもあなたが死んでしまった時に、その事にすら気が付けないのは、そんなの悲しすぎるじゃないですか。
あなたも同じ気持ちでいてくれていますか?時々は僕の事を思い出してくれていますか?
「あなただけが好きだ」と嘘を吐いて、ごめんなさい。でも、好きなんです。信じてくれますか?
過ごした時間だけは、せめて嘘ではなかったですか?
「はい、本当でした」と今さら言われたところで、今の僕はきっとそれさえ、信じられなくなってしまいました。
人の言葉が全て嘘に聞こえます。時には自分の言葉すらも、嘘に聞こえます。こんな自分に嫌気が差すんです。
「嘘を付かない」なんていうのは絶対に嘘だ。そんな人間は、この世には存在しない。
それでも僕は、これからもなるべく嘘を吐かないようにしながら、やっぱり時には嘘が漏れ、自己嫌悪をしながら生きていくのだと思います。
ねえ、あなたはどうやって生きていくの?
僕がこの記事でみんなに伝えたかったのは、僕が生きているというホントだけです。これだけは紛れもない、ホントだ。
今さら僕たちが話をしても、きっと意味なんてないのだと思います。
答え合わせをしても、間違い探しをしても、正解なんてもうないよね。お互いの記憶や認識が今さらとなってしまっては違うのだと思う。
だから、お話はしなくてもいいよ。
みんなも、どこかで生きているという事実、生きているというホントだけでも、いつか伝えてくれたのなら、嬉しいなぁ。いつの日にか、楽しみにお待ちしております。
最後に、冒頭で紹介した詩を好きな人に贈ります。
『 ウソ 』 川崎 洋
ウソという鳥がいます
ウソではありません
ホントです
ホントという鳥はいませんが
ウソをつくと
エンマさまに舌を抜かれる
なんてウソ
まっかなウソ
ウソをつかない人はいない
というのはホントであり
ホントだ
というのはえてしてウソであり
冗談のようなホントがあり
涙ながらのウソがあって
なにがホントで
どれがウソやら
そこで私はいつも
水をすくう形に両手のひらを重ね
そっと息を吹きかけるのです
このあたたかさだけは
ウソではない と
自分でうなづくために
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