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自殺 ニ

僕の父親は首吊り自殺をして死にました。
母の口から「わたしのせいじゃない」と幾度となく発せられるたび、その言葉とは裏腹に責任や後悔があるように僕は感じていました。

父は昔から家にいることも少ない上に、家族とコミュニケーションをとることも極端に少なく、僕が生まれてからほとんどの期間は別居生活でした。それでも家庭にお金を入れることだけは最低限やっていたみたいです。それが父の誇りやプライドだったのでしょうか。

家庭を全く省みない父でしたが、何故か僕のことだけは時々可愛がってくれました。芦ノ湖に連れていってもらった事、インステップキックを教えてくれたこと、ビリヤードを教えてくれたこと、忘れられません。

僕が成人式でベロベロに酔っぱらい、なぜか父に電話をして「生んでくれてありがとう」と伝えた時「いろいろごめんな」と返された時に僕は気づくべきだったのです。いろいろな違和感や、うまくいっていない家庭の現状を、僕は見て見ぬふりをしていたのです。

そんな父でしたが、僕がホストとして成功した頃のことです、急に仕事を辞めることになりました。職場での人間関係が原因だったと噂程度に聞きました。無職になり、収入もなくなった父は当然今までのように家にお金を入れることはできなくなり、その分のお金は代わりに僕が家庭に入れていました。そしてある日、父は失踪しました。

なので、父が死んだのは、僕のせいだと思いました。


きっと父は居た堪れなかったのだと思いました。仕事もできず、家庭に居場所もなく、そして息子が代わりに女を騙したお金で暮らすのが耐えられなかったのだと思いました。

本当の事は誰にもわかりません。
だって死んでしまったのですから。聞きたくてももう聞くことはできません。

残された側の人間は想像する事しかできないのです。

父の自殺によって何人が「わたしのせいだ」と思ったことでしょうか。わたしが殺してしまったのではないか、わたしが何か変えられたのではないか、もっと話を聞いてあげればよかった。

自殺とは周りの人間にそう思わせてしまう行動です。ですが、僕は時々それを羨ましいと思ってしまうことがあります。

なぜなら僕は今までたくさんの人を傷つけて、恨まれて、失望され、そして忘れられてきたからです。

それら全てが自殺という選択によって許されるような気がしてしまうのです。

父が死んで、母は「わたしのせいじゃない」と言っているのに聞いて、なぜか僕が父に対して芽生えた感情は「羨ましい」だったんです。気にかけてもらえて、忘れないでもらえて。

おかしいでしょうか?もちろん紛れもない事実として、誰の目から見ても母のせいではないのですが「わたしのせいじゃない」という言葉は不思議と本心には聞こえなかったのです。

人間は思ってもない事を口に出したりします。それは時に自分のためだったり、時に誰かのためだったり。

楽しくもないのに楽しいフリをしたり、悲しいのに悲しくないフリをしたり、死にたいと思っているのに無理に笑ってみたり。

周りを心配させないように、気を遣わせないように、そんなことばかりしているとふと思ってしまいます。

生きているのは疲れる。死んじゃいたいなと。ふと考えてしまう時があります。

僕が自殺をしたら何人の人を泣かせてしまうのでしょうか。僕が自殺したら僕を傷つけた人達は後悔してくれるのでしょうか?僕が傷つけてしまった人達は僕を許してくれるのでしょうか?

僕が自殺をしたら「わたしのせいだ」と何人が感じるのでしょうか。

僕には、僕が死ぬことによって、悲しませたい人がいます。でもそれ以上に、僕が死ぬことによって、悲しませたくない人もいます。

僕が事故や病気で死んだのであれば「わたしのせいだ」と思う人はきっと一人もいないでしょう。

僕が今生きている理由は、僕が死ぬことによって悲しませたい人よりも、悲しませたくない人の方が僕にとって大事だからです。

「自殺したい」と思っている人はきっと、死ぬことによって悲しませたい相手こそが、きっと自分にとって一番大切な存在なのでしょう。僕が本気で自殺を考えていた時期はそんな気持ちだったことを今でも忘れません。

でも、あなたを死にたいと思わせるような相手をそんなに大切に思う必要はないと今はそう思います。

僕は幸いにも周りの人間に救われたのだと思いますが、今は今で自分の生きる理由すらも自分の為ではなく、他人のせいにしているのです。こんな自分が情けなく、余計に生きていることが苦しくなったりする時もあります。

そして僕はいつの間にか周りを心配させないために「死にたい」が言えなくなっていました。

自分勝手で幼稚に「死にたい」と言い、周りに心配を掛ける事によって承認欲求が満たされていた頃は、今思えばまだ幸せだったのかもしれないと思うことさえあります。

「生きていればきっと良い事があるよ」

「死にたい」という人間によく周りが掛ける言葉ですが、誰だってそんな事は言われなくてもわかっています。生きていればその内に些細な幸せは訪れるでしょう。ですが「死にたい」と思う人間はもっと単純に、それ以上に嫌な事の方が多いから死にたいと思ってしまうのです。

別に僕の人生は嫌な事ばかりではありませんでした。僕は今までそれなりに人に愛されてきましたし、楽しい思い出もたくさんあります。今思い返すと本当に夢のような日々を送ってきました。

だからこそ、未来には希望も期待もないのです。

大体の事はもう経験しました。大体の事はもう知っています。もちろん知らない事や経験していないこともたくさんありますが、それは興味がないことや、やりたくないことなんです。そしてなにより、幸せと不幸は表裏一体だということを知ってしまいました。

僕はきっと今までの人生が幸せすぎたのです。それゆえに、これからの未来に幸せを感じることができないとさえ思っています。もっと幸せになりたいなんて欲は正直あまりありません。

僕の命は父と母からもらったものですが、産まれたその日から僕の命です。僕のために使ってきました。それはこれからも変わりません。

そして今は僕のために捨てたいと思う時が普段は口には出さないまでも、時々心にあるだけです。

生きたくもないのに生きていること、死にたいと思いながら生きている事は素晴らしいのでしょうか?

僕はそうは思いません。が、それでも生きています。死にたいと思う時はあります。ですが死ぬ選択もできる中で常に生きる選択をしてきました。これまでも、そして恐らくこれからも自分でしていくのです。

「死にたい」と周りの人間に嘆いている人も、死ぬ選択もできる中で、無意識に生きる選択をしているのです。

「死にたい」と口に出して言えるのは、生きる事を選択している人間だけなんです。


僕だって「死にたい」と思う時はあります。それは、ゴミだらけの部屋を見た時や、今はもういない女の荷物を見た時も、自分の裸を見た時や、寝坊をした時、顔が浮腫んだとき、メイクがうまくいかなかった時、数えたらキリがありません。

そしてなにより人から「死にたい」と言われた時、僕は死にたくなります。

死にたいと言われるたびに、自ら死を選んだ人達の事を思い出してしまいます。その人達は決して「死にたい」と僕に言ってくれませんでした。

「死にたい」と一言、僕に言ってくれたのなら、僕はきっと何だって出来た。きっとなにかを変えられた。

きっと一度抱きしめるだけで、一言「あなたが大切だよ」と伝えただけで、手を握るだけで、頭を撫でるだけで、言葉を交わすだけで、変えられた筈だと思ってしまいます。ですが、後悔したところで死んだ人はもう戻ってこないのです。

僕は僕に「死にたい」と言ってくる人が嫌いです。ですが「死にたい」と言わずに勝手に死んでしまった人がいる以上、なんだか複雑な気持ちです。

自分の心に余裕がない時には「死にたい」と言ってくる人に対して「なら勝手に死ねや」と思ってしまう、わたしを時々殺したくなります。

ですが、僕は絶対に自殺はしません。生きることや死ぬことに対して人一倍無駄に考えてきたのですが、結局ひとつの結論に落ち着きました。

人間には寿命があり、いつか勝手に死にます。どれほど「死にたくない」と願った所で、どうせそのうち死ぬのです。だからわざわざ今死ぬ必要もないのだと。

わたしが赤ん坊としてこの世に産まれた時、わたしは泣いていて、周りの人達は笑っていた筈です。だからわたしが死ぬ時には、わたしは笑って、周りの人は泣いていて、それは素晴らしい人生だと思える筈です。

僕の大好きな言葉です。死にたいと思った時には『今のままでは死ねない』と思えます。

このnoteを読んで、普段何気なく「死にたい」と口に出している人が少しでも変わってくれたら、とても嬉しいです。僕が生きてきた意味を感じる事ができます。

「死にたい」と思う人に無理に「生きろ」というつもりも、今はありません。

毎日が地獄のように辛くて、人生に何も楽しみを見出だせない人に対して「生きろ」というのは余りにも酷ですよね。だから押し付けるつもりもありません。

僕はただ、あなたが生きていてくれたら嬉しいですし、あなたが死んでしまったら悲しいのです。

あとはあなたの好きにしたら良いと思います。あなたの命はあなたのものです。月並みな言葉ですが、あなたの母と父がくれた、たったひとつの、あなたの命です。

ですが、それをどう使うのかはあなたの自由です。もちろん捨てるのも自由です。

僕は僕の命を捨てることはなんとなく辞めました。その代わりに一生懸命に生きるわけでもなく、適当に惰性でダラダラと生きることにしました。ただの死ぬまでの暇潰しです。

「生きているだけで偉いよ」

なんて言われる事もあるのですが、別に偉くなくても結構です。何の目標もなく流されるように適当に生きていく僕を見て、蔑めばいいですし、見下してもらって構いません。

結局の所、きっと僕は僕が生きている事によって喜んでくれる人の為でもなく、僕が死ぬことによって悲しませたくない人の為でもなく、なんだかんだで自分の為に生きているのです。

この世界で生きていく事は時に残酷で、なんのために生きているのか時々解らなくなってしまうことがあります、そのために自分の存在意義を他人に委ねてしまったり、自分を見失ってしまう事が多々あります。

ですが、別に明確に生きる意味なんて持たなくてもいいんです。そんな立派な人間じゃなくても構わないじゃないですか。

僕が、あなたが、生きている事で何かしらのフワッとした意味は勝手に生まれるのだと思います。

例えばこのnoteを読んで、一人の人にでも「死にたい」から「生きたい」には変えられないまでも、「もう少し生きてみるか」と思って頂けたら、きっとそれは僕のフワッとした『生きている意味』になるのでしょう。そしてそれは、同時にあなたの生きている意味にもなると、僕はそう思います。

最後に、生きるのも死ぬのも勝手ですがこの言葉だけは伝えておかなければきっと僕はまた同じ後悔をするので伝えさせていただきます。死にたいと思うすべての人へ

あなたが生きていてくれると嬉しいよ。

あなたが死んでしまうと悲しいよ。

以上です。最後まで読んでくれてありがとうございました。僕にも生きている意味、きっとありましたね。

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