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インターネットについて

今は当たり前にあるインターネットですが、みなさんはどう使っていますか?離れている人といつでもコミュニケーションがとれる。冷静に考えると凄いことですよね。今の時代を生きていない昔の人からみたら、タケコプター、どこでもドア等となんら変わりはない、まるで魔法のような事だと思います。

そして今はSNSの普及により、知らない人とでも簡単に繋がる事が可能になりました。

僕はインターネットに一度、命を助けられた事があります。離婚をする直前の鬱病になった時の事でした。

人が怖かったです。大好きな友達も、大好きな家族とも会うのが怖かったです。それでも、誰かに話を聞いて欲しかったです。人には会いたくもないくせに、孤独もまた怖かったのです。

毎日死にたいと思っていました。死ぬのは怖かったですが、食事はもちろん摂らずに、致死量のお酒を飲んでみたり、タバコを浸した水を飲んでみたり、腕を切りつけたり、何故か1週間近くスマホと充電器と大量のアルコールと水を段ボールで持ち込んで、トイレで過ごしていました。  

死ぬ事をリアルに考えた時に、今のままでは死ねないと思いました。なんとも可笑しな話なのですが、整形してから死のう、美容室にいってから死のう、など考えていましたね。今の汚い姿のままでは死ねない!通夜や葬儀で見られたくない!と思っていました。おかしいですよね。

それと遺品整理の事を考えて、スマホの中身を整理していました。見られたくないものは削除していきました。その時に芽生えた感情があります。

死ぬ前に生きてた証を残したい。

このnoteの下書きには『遺書』というタイトルのものがあります。厚かましくも、裏切られた人への不満や楽しかった思い出、家族への感謝、友達への感謝、偉そうに書いてあります。恥ずかしいので公開する事はこの先もありません。

書く、という行為が唯一トイレの中で僕に出来る鬱憤晴らしだったのだと思います。それは今も変わりません。

話が脱線してしまっていますが、続けます。

2回目に書いたnoteのタイトルは『離婚』でした。
この時は、お互いに後に引けないように、決心をするため、そして今まで結婚を隠していた事への罪悪感を無くしたくて書きました。

家族に関わる事なので、元嫁と母親には事前にnoteの事を報告しました。元嫁に関しては、「何でも好きに書いて良いよ」と言ってもらえました。今でも感謝しています。ですが、母親の意見は違いました。

「頭がおかしくなったのか?」「なんでわざわざそんな事をするの?」「わざわざ世間様に叩かれるようなネタを提供する必要はない」

散々に言われました。僕はこう答えました。

「自分が本当に思った事を書いたのであって、それによって叩かれるのなら本望だよ。私が間違っているなら、それはそれで構わない。それを知る為にも、悪いけれど私はUPします」

母は呆れていました。きっとそれは僕の事を心配する気持ちからきていた意見だった事はわかっていますが、それでも僕は、自分の思想や人間性を否定されたみたいに感じてしまい、とてもショックを受けた事を鮮明に覚えています。

実際にnoteをUPしてみると、まずは昔の恋人から続々と連絡がきました。僕を心配してくれている連絡でした。そして、元嫁の友人からも電話がきました。泣いてしまった僕と一緒に彼女は泣いてくれて、「本当にごめんね」「わたしのせいだ」なんて言ってくれました。いつか恩返しをしなきゃいけないと思っています。

そして、沢山の知らない方からも本当に数多くのDMを頂きました。それこそ、返信しきれないほどに。中には同じ境遇の方もたくさんいました。否定的な意見も少しはありましたが、特には気になりませんでした。それ以上に、優しい言葉ばかりでした。助けてくれようとする方ばかりでした。なんて自分がちっぽけで、自分の事しか考えられない人間なのかと反省するほどに、そして、嫁が居なくなってから色褪せて見えていた景色が鮮明に、美しく見えました。

そして僕は生きる事を決心しました。


会ったこともない僕を励ましてくれる人がいる、この素敵な世界を愛そうと思いました。こんな時代に生まれてこれた事に感謝をするようになりました。なによりも、僕が死んでしまったら、この優しい人達を苦しめてしまう、悲しませてしまうと思うようになりました。

この人達に、そしてインターネットに、何か恩返しをしなくてはならない。今はそう思っています。

僕のTwitterのDMには、死にたいという相談、自傷が辞められないという相談、安定剤が辞められないという相談がほぼ毎日のように届きます。

昔の僕なら、きっと返信はしなかったと思います。
知らない人の相談になんて乗れないと考えていたので。

相談というのは、その人の状況、その人の性格を知らなければ、乗れないと思っていましたし、その考え自体は今も変わりません。

ですが、何らかの正解や正しい道に導く事だけが相談に乗る事の意義ではないと、今はそう思っています。

身近な誰にも話せない話を聞いてもらいたかったり、同じ境遇の人と傷を舐め合うだけでも、そこに意味も価値もあると今はそう思います。

知らない人だからこそ、話せる話って沢山ありますよね?インターネットはそんな私達を繋いでくれています。

全てのDMに返信する事は正直出来ていませんが、これがきっと僕に出来る、インターネットへの恩返しだと考えています。今までのDMで、たった1人の人間でも救えていたら良いな。

話は変わりますが、インターネットは時に人を傷つける凶器にもなり得ます。というよりも、そういうことがより最近多くなってきている気がしませんか?  

私怨や人間関係のもつれからならばまだ理解ができますが、知らない人や関わりがない人への攻撃って、あれは何の意味があってやっているのでしょうか?

僕は常に思っている事があります。

この地球にはNPCはいないって事です。

ご飯屋の店員さんも、タクシーの運転手も、そしてTwitterのアカウントも、みんな生きている人間です。

否定的な意見の全てが悪いとは思いませんが、関わりのない個人の人間への否定は、正直なんの意味もないばかりか、言ったほうが損をすると考えています。僕も過去にした事はありますし、自分と異なった意見には反対意見を飛ばしたくなる気持ち自体は、すごくわかります。

ですが、そもそも否定というのは人間関係を継続させる為に、その人に変わってもらう為あるのであって、他人に向ける事に何の意味があるのでしょうか?鬱憤晴らしのために使った時点で、それはただの自己満足です。そんな事で気持ち良くなれますか?自己嫌悪はしないのですか?そんな自分の事を好きになれますか?

最近でいうと俳優の東出さんの不倫についての否定的な意見をよくTwitterで眺めていました。

『奥さんが可哀想』『子供が可哀想』なんて意見を見る度に、ならそっとしておいてやれよ。と僕は思ってしまいます。

東出さんがを不倫したと言う事は、奥さんは浮気をされた女性ということになります。お子さんは不倫をした父の子供ということになりますよね。それを本人達は拡散されたいでしょうか?そして自分が愛した人への悪口を見て、気分が良くなると思いますか?

不倫が良いとか悪いとかの話ではありません。

ただ全く関わりのない他人の失敗を、正義を盾にして自分の憂さ晴らしに使っているだけとしか僕には思えないのです。

悪い事をした人になら、どんな言葉の暴力を使っても良いのでしょうか?それは何の為にですか?本人に反省してほしい、変わってほしいと思うのなら、違うやり方の方が良いと思いますよ。結局はただの死体蹴り、憂さ晴らしです。失敗をした人間に向かって、自分は安全なところから石を投げつける行為、見ていて、みっともないですよ。

ですが僕は幸いにも、本当にインターネットに救われました。いや、今も現在進行形で救われています。

Twitterに僕が作ったご飯の写真を載せると「美味しそう」「食べたい」とみんなが言ってくれます。明日もまた頑張って作りたいな、嬉しいなと思えます。

僕が悲しい、寂しい、と書けば、「大丈夫?」「話を聞くよ」と言ってくれる人がいます。孤独や不安が解消されます。

本当に命を救われました。

いつもみんな、本当にありがとうね。こんな時代にみんなと知り合えて、みんなと繋がれて、みんなと笑えて、そしてみんなと悲しめて、共有できて、僕はいま生きています。そしてこれからも。

一昔前は、インターネットで知り合った人なんて友達じゃない。なんて風潮がありましたし、僕もそう考えていました。が、僕はみんなのことを友達だと思っています。胸を張って、仲間だと呼べます。大切な人達だと思っています。

インターネット時代はどんどん加速していく中で、未だに上手に使えないのは本当に勿体ないですよ。

これからも僕は、Twitterで、noteで、発信を続けていくつもりです。それは恩返しという意味だけではなくて、やっぱり楽しいからです。人を傷をつける道具としてではなく、人と繋がるための道具として。

いつも本当にありがとうね。みんなの事が、インターネットが、大好きです。これからもよろしくね。

長文、駄文失礼しました。

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