砂絵制作と幸せの感覚
画家のAte Kuma。と主催する藝術集団Arca Solis(アルカソリス)。その第二回目の展示会を今年2月、宮城県仙台市にある坐カフェで開催した。
有り難い事に、会期中は沢山の方にお越し頂いたようだ。(僕は奄美にいて、作品だけ仙台に旅立った)
この時、僕は「嘉徳」という、砂防ダムもコンクリート護岸もなく、絶滅危惧(CR)のリュウキュウアユや天然記念物のムラサキオカヤドカリなど、希少性の高い生き物たちが暮らす世界自然遺産の緩衝地帯を題材に砂絵を描いた。
「嘉徳(かとく)」は、今、「護岸工事建設計画」で揺れている。詳しくは別記事で書こうと思うが、護岸工事ができることによって、自然環境、生態系、人命が守れなくなる危険性が非常に高いのだ。
その嘉徳の、護岸工事建設計画廃止を求める活動に僕も賛同し、少しでも多くの人に嘉徳を知ってもらいたいと思い、気がつけば「砂絵」という形で作品を作っていた。
初めて砂絵を作った約2ヶ月後に事件は起きる。閃いてしまったのだ。
貝殻を砕いて、「自家製の砂」を作ればいい、、、と。
そして、その自家製の砂を初めて作ったときに、どうしてもその「自家製砂」を使った作品を作りたくなった僕は、衝動的に黒い紙に接着剤を塗り、その上に作ったばかりの「砂」を落としていた。
この時、生まれたのが砂絵銀河と呼んでいる、砂絵で宇宙を描くシリーズ。(このシリーズは有り難いことに、作品をSNSにアップするとだいたい翌日にご注文が入る)
で、
先日、ご依頼があり、やっと制作が終わり、前から用意していた今までより大きいA4サイズの作品を作ってみた。(今までの作品は18cm×18cm)
その時に感じたことを書き出してみた。
砂を落とすのが怖くなるときがある。
作品が完成に近づいた時と砂が沈み、絵の表情が変わったことに気づいた時だ。
僕の作品は、僕の力だけでは完成しない。
砂の沈み込みや変化は最終的には予想しきれないのだ。
絵の変化に気づいた時に、砂を上から重ねることもある。
「怖くなる時」だ。
失敗したらどうしよう、感じたままに砂を落とせなかったらどうしよう、という迷いや不安が心に現れる。
そんな時は、手を止め、その不安や恐怖をじっと見つめて、「自分が」この作品を作っているのではないことを思い出す。
すると、何故か、不安や恐怖は消えて、穏やかさと温かさを感じるようになる。
穏やかさと温かさ、信頼で自分自身が満たされた時、手は自然に動き始める。
どこに、どのくらいの量を、どの大きさの砂を落とせば良いのか。
それが考えるともなしに分かるようになるのだ。
こうして完成した作品に手をかざすと不思議と温かく感じる。と、同時に自分で作った実感がない。
確かに自分で作っているのだけど、何故だか、「「美しいもの」をただ眺めている」ような感覚になる。
自分の作品を「美しいもの」と言うのは自画自賛するようで気が引けるのだけど、そこに在るものに、只々、フォーカスして引き込まれ、「無」の世界に没入している自分がいる。
対象的に、「自分が」作った感覚の時には、完成後の作品を見て「没入」する感覚や体験は今のところ、記憶にない。
完成までに、時間がかかったり、苦労した作品はそれまでの苦労を思い起こすこともある。
けれど、完成した作品を見て「没入」する感覚になるのは、「自分が作った」という意識や感覚が無い時だけだ。
出来上がった作品を自分で見て、「美しい」と感じられるのは、「他人と自分との比較」や「人からどう思われるか?」といった小我の意識が薄れるからではないだろうかと思う。
このような、「完成した後に、自分で見て没入できる」作品を作れたときの、恐れも不安もない、穏やかさと温かさが自然と内側から溢れてくるような状態が「幸せ」なのだと思う。
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