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ギリシャ神話の原典(言語日記19/03)

古代ギリシャの神々

言うまでもなく、ギリシャ神話とは古代ギリシャ人が語り伝えてきた神々や英雄の物語である。
世界広しといえども知名度でこの体系に及ぶものは少ない。

古代にヘッラス(ギリシャ)の神々が崇拝されていた全盛期はもちろん、信仰が廃れてしまった中世以降も、(時代や地域によって扱いに違いはあったが)この物語群は長く西洋の芸術・思想文化の源泉であり続けた。

現代日本人も一度は聞いたことがあるだろう。
神話そのものが好きな人なら言うに及ばず、個々のエピソードを知らなくても、漫画やアニメやゲームなどでギリシャ神話由来の名辞を目にした人も多いのではないだろうか(ゼウスやハーデースやアテーナーなど)。


ギリシャ神話とは何か

そういった知名度もあって興味を持った経験のある人も多いことだろう。

しかし調べてみようとすると、ひとつ疑問が浮かぶのではないだろうか。
ギリシャ神話とは何か、どの本に書かれているのか――と。
すでに詳しい人であっても過去にそう感じた経験があるかと思う。

それは簡単にいえばこの神話をまとめた"単一の原典"の類が元々存在しなかったからである。

ではギリシャ神話とは何なのだろうか?
今回は言語学・文学・文献学、そして何より古の記録に残された神名の面から神話伝承について語ることにしたい。


網羅的な教典の不在

ギリシャ神話の理解にまず必要なのは、前節で触れた「古代に網羅的な聖典はなかった」という事実の理解である。

神々や英雄の存在やエピソードは遠い昔から伝承されてきたもので、外来の神を取り入れるなどの段階的な形成過程があったり、別起源の伝承がひとつに混ざりあったり、時代や地域や作家ごとに解釈の違いや伝承の変化が見られたりしたため、伝承間にはバリエーションや矛盾も多い。

現代の入門書や漫画などには「ギリシャ神話」をまとめて概略的に解説しているものも多いが、それらは古代の様々な文献や発掘物、研究者の学術書などから情報をピックアップしてまとめたものといった趣である。

そのため情報の取捨選択や独自の補完・解釈などが行われていることもある(そうした試み自体は古代にも行われていたが、原典にはない要素が加わったり古代とはやや異なった解釈が見られることもなくはない)。
ただし丁寧な本であれば複数の伝承が網羅されていることもある。

学術書にも全体を総覧的に扱ったものが多数あるが、それらもやはり複数の情報源を参照している。
つまり今知られているギリシャ神話の情報源は単一ではないのである。


"ギリシャ最大の詩人"ホメーロス

では我々が知っているギリシャ神話とはいったいどのような情報源に基づいているのだろうか?

歴史書に見える古代ギリシャ人の信仰記録、神殿遺跡、彫像、奉献碑文その他の発掘物なども人にとって神がどう理解されていたのかを知る上で重要な手がかりである。
しかし今日イメージされる内容を最も色濃く伝えているのは数々の文学作品だといえよう。

古代ギリシャの多神教に直接の体系的な教典はなかったが、当時人々が重要視した作品はある意味「ギリシャ神話の聖典」と呼べるかもしれない。
その代表格は前8世紀頃の詩人Ὅμηρος「ホメーロス」の叙事詩である。

ホメーロスは半ば伝説上の詩人で、活動地も含め、生涯について詳しいことはほとんど知られていない。
その作品として伝わるἸλιάς『イーリアス』はアカイアー人(ギリシャ勢力)とトロイア人の間で繰り広げられ、神々の対立もあって10年に及んだ戦乱――トロイア戦争の一部を描いた英雄叙事詩である。

アカイアー勢として参戦した俊足の勇者でありアキレス腱の故事で知られる英雄Ἀχιλλεύς「アキッレウス」の怒りを巡る出来事がテーマとなっている。
タイトルはトロイアの別名Ἴλιον「イーリオン」から来ている。イーリオン物語といった趣だろう。

もうひとつのホメーロス叙事詩とされるὈδύσσεια『オデュッセイア』はトロイア戦争の後日譚である。
アカイアーの知将Ὀδῠσσεύς「オデュッセウス」の「トロイアの木馬」の計略をもってトロイアは陥落・滅亡し戦争は終わるが、神々の怒りや人々の思惑によりアカイアー人の多くは苦難の旅を強いられる。
そうした帰還の試みがイーリアスと同じ韻律で綴られている。

こちらの作者も伝統的にホメーロスと考えられているが、今ではイーリアスのみをホメーロスに帰し、オデュッセイアをその強い影響を受けた弟子や後継者の作とする研究者も少なくないらしい。

どちらも「夫婦関係の保護」のような信義を扱っている点は共通しているが、イーリアスでは神々が相互に対立し戦争を支援していたのに対し、オデュッセイアではやや(作者が考えるところの)正義の執行者的な描き方が強まるので、その違いを重視する研究者がいるようだ。
ホメーロスが特定の1人なのかについてはこれ以外にもホメーロス問題という難しい議論がある。

しかしどちらの説を取るにせよ、いずれも古くから伝承されてきた、言語的にも似通った性質を示す近い関係の作品同士なので、まとめて扱われることが多い。


ホメーロスギリシャ語

ホメーロスの叙事詩は言語学的にも極めて貴重な資料である。

ギリシャ本土や周辺諸島を含む東地中海地域は前12世紀頃様々な要因で大打撃を受け衰退した(理由は未だ完全には解明されていない)。
その後再びギリシャ地域の遺物が増加するのは後の時代で、特にギリシャ文字が記録されるのは前8世紀頃からとなる。

それゆえホメーロスの叙事詩は知られている限りでは古代ギリシャ最古の文学であり、言語研究上も貴重な資料となっている(後代とは異なる古い語形や語彙も多いためホメーロスギリシャ語などと呼ばれる)。

たとえば古典期(前5-前4世紀)のギリシャ語には定冠詞ὁ/ἡ/τόがあるが(ただし英語のtheより使用の制約は緩い)、ホメーロスギリシャ語にはまだない。

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