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ルシフェルと地蔵菩薩

「天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方がどれほどよいことか!」(ミルトン『失楽園』)


2020年という年の中で、3月27日という日は数少ない「いい日」として自分の記憶に残っている。

その頃、室田瑞希はコロナ禍の影響で無観客での卒業ライブを余儀なくされ、和田彩花のライブ活動にもブレーキがかかり、こぶしファクトリーもまた無観客での解散コンサートを三日後に控えていた。末法の世が迫り来るそんな夜にTwitterを開くと、TL上で人々が叫んでいたのである。

「まろ!」「まろ!」

 最初何が起こっているのかわからなかった私も、しばらくして状況を把握すると、思わず叫んだ。

「まろ!」

「ZOC」というグループの無観客ライブに、福田花音が新メンバー「巫まろ」として降臨したのである。

ハロプロ外のアイドル事情には相変わらず疎い私は、「まろまろ浄土」というソロ曲を歌い踊る「巫まろ」を観ながら、ZOCというグループが何者なのかを初めて把握した。そして、大森靖子という毀誉褒貶著しいミュージシャンがプロデュースし、社会的に逸脱した少女達ばかりを集めたグループであることなどから、まろの選択を危ぶむ声が早くもTL上に浮上し始めているのも見かけた。

だが、私は彼女の選択を祝福したい、と心から思った。

その理由の一つとしては、自分がミュージシャンとしての大森靖子に好感を抱いていた、ということが挙げられる。といっても、まろの降臨で初めてZOCの存在を知ったくらいであるから、それほど熱心なフォロワーというわけではない。一度ひょんなことから彼女の弾き語りを至近距離で聴くことになり、これは大変な人物だな、という感銘を受けたのと、2017年のビバラポップで生バンドを率い、こぶしファクトリーをエンパワーしてくれたのがとても嬉しかった、という程度である。また、彼女が書くアイドルソングは彼女自身が歌う曲よりも自分にとってはツボにハマることが多く、たとえば 「GIRL ZONE」は2019年のハロ楽曲では自分的ベスト3に入る曲であった。そしてまろと肝胆相照らす仲であり、彼女の魅力を熟知しているであろう大森は、歴代アンジュメンの中でも1,2を争う歌唱力の持ち主であるまろを輝かせるプロデューサーとして、そして同時にクリエイター志向を持つ彼女の「師匠」として、唯一無二の人材であるように思えたのである。

だが、それよりも私の目を奪ったのは、「まろまろ浄土」の冒頭から不敵な面構えでブリブリのダンスを踊る彼女が放つ圧倒的な輝きであった。その時自分が抱いた印象は、「可愛い」ではなく「カッコいい」だった。それは、今まで和田彩花や勝田里奈に対して抱いたことのある感覚ではあったが、まろに対して感じたのは初めてのことであった。

一般に、アイドルというものは「ヲタクの見たい姿」に応えるものである。ところがアンジュルムというグループにおいては、「ヲタクの見たい姿」など気にせず「自分の好きな色のリップを着ける」ことが推奨される。つまりアンジュルムのヲタクは、「『ヲタクの見たい姿』など気にせず『自分の好きな色のリップを着ける』メンバーの姿」が見たい、ということになる。つまり、「各々が自由意志によって自分自身のスタイルを選びとる」という実存形式そのものが、アンジュルムのヲタクの「見たい姿」なのである。

この構造は、一つの逆説を招く。つまり、メンバーがその自由意志によって選ぶものが、いわゆる典型的なアイドルヲタクの見たいような「可愛い」アイドルの姿だったとすればどうなるのか、ということだ。その逆説は、アンジュルムの中で最も「典型的なアイドル」からかけ離れた形象の持ち主である佐々木莉佳子が「スマイレージさんの曲が好きなんです...」という話をする時の屈託に満ちた表情に見出すことができるだろう。その一方で佐々木は、自分のファンの求めるような「かっこいいアイドル」の姿を求道的なまでに追求する。佐々木というアンジュルムを象徴する形象を持つメンバーは、メタな意味においては「アンジュルム的なるもの」から最もかけ離れた、「典型的なアイドル」と言ってもよいのだろう。

一方、福田花音はどうか。彼女は造形においてもそのアイドル哲学においても、一見「アンジュルム的なるもの」から最もかけ離れた存在に見える。無論、そのことは本人が最もよく自覚していて、スマイレージからアンジュルムに改名して間も無く、彼女は二十歳の若さでアンジュルム初の卒業者となった。つまり「典型的なアンジュルムヲタク」の理想に沿うことを拒否し、「典型的なアンジュルムヲタク」の理想とはかけ離れた「典型的なアイドル」ソングを提供する作詞家としての道に賭けたのである。

そんなわけで私がアンジュルムを知った頃、2016年末ごろの福田花音は、「アップフロントお抱え作詞家見習い」ともいうべき微妙なポジションのアンジュルムOGであった。まあ、彼女も若いし、まだ絶賛「自分探し」中なのだろうな、くらいの感じで、生暖かく見守っていたし、実際、彼女が時にアンジュルムに提供してくれる詞の内容も、何とも「微妙」な出来栄えであった。だが、去年の半ば頃くらいであろうか、和田彩花が卒業し、アンジュルムのリーダーという立場に縛られない積極的な発信を始めた頃から、それまで常に調子こいた脇の甘いツイートばかり発してきた彼女が、それまで感じたことのなかった切実さをもって己のアイドル哲学を主張し始めたのである。それらの呟きを、「和田への当てこすり」として否定的に受け止めるヲタクも多かったが、自分は何かとてつもなく素晴らしい変化が訪れる前兆のように感じた。そしてその後、父親の逝去とアップフロントからの退所を経て、彼女の呟きにはいよいよ力強い意志が漲るようになっていった。

3月27日のまろの「降臨」は、そうした全てのプロセスの帰結であった。ちなみに2020年の3月12日、彼女は25歳の誕生日を迎えている。「25歳定年説」にあれだけ激しく反応した和田彩花が、「アイドル」を名乗りつつも「年相応な」アーティスティックな楽曲を発表し続けているのに対し、まろはこれ見よがしのアイドルダンスからキャリアを再スタートさせたのである。どちらがカッコいいか、より「ロック」か、と言えば、今回に関しては断然まろであるように思う。普通のアイドルヲタクが思うように25歳で「定年」などしない。かといって、アンジュルムのヲタクが望むような「アンチアイドル」にもならない。自分の人生は自分で選んでやるーそう啖呵を切って不敵に笑いながらブリブリに踊る彼女こそが、実は最も「アンジュルム的」であることに気づいた私は、思わず快哉を叫ばざるを得なかった。

かつて宗教改革期の英国で、ピューリタン革命派の詩人ジョン・ミルトンは、キリスト教信仰における「自由意志」の重要性を訴えるために『失楽園』を書いた。ミルトンの問題提起とは、人間が「自由意志」を持たない神の僕に過ぎないのであれば、すなわち数多くの選択肢の中からあえて「神への信仰」を選びとるという形でなければ、神の偉大さは証明されえないのではないか、ということである。そしてミルトンが「自由意志」を体現したアンチヒーローとして描いたのは、人の身たる「神の子(かみこ!)」への拝跪を拒み、神に叛逆した天使長ルシフェルであった。そして神によって地獄に堕とされ、魔王となったルシフェルは、「天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方がどれほどよいことか!」と啖呵を切る。『失楽園』におけるルシフェルとは、いわば自由意志の「最初の発明者」である。神への反逆者こそが「神の偉大さ」の発明者であるという逆説。元々は大天使ミカエルと並び立つ天使長でありながら、自らの意志によって地獄の王としての道を選んだルシフェルは、神の偉大さを裏付ける偉大なる陰画なのである。

だが、21世紀の『失楽園』はもう一段ねじれている。今回の場合、天使の軍団を率いて「神=正統的アイドル像」に叛旗を翻したのは大天使ミカエルたる和田彩花の方であり、しかも天使の軍団は叛旗を翻したまま天上に居座っている。これに対しルシフェルたる福田花音は、「引き続き神の偉大さを崇める」という己の自由意志によって天使の軍団を離脱し、「地獄」へと堕ちていった。そして神代のルシフェルは叛逆の科により醜い魔王の姿に変えられてしまったが、21世紀のルシフェルは天使の姿のままに「地獄」に堕ちていったのである。

さて、これを待ち構えていたのが、地獄の番人、大森靖子であった。地獄の「闇」を徹底的に掘り起こす叛逆精神において、彼女は10年代に生き残った最も正統派のロックミュージシャンである。だが同時に彼女は、地獄の闇に埋もれて死に飲み込まれることを良しとしない。そして強烈な「生」の輝きを齎す存在として、ハロプロを代表とするアイドルポップスの「可愛らしさ」に固執する。叛逆精神と可愛らしさーこの一見矛盾する二つの要素が、彼女の音楽性に幅を、そのメッセージに深みを与えている。そんな彼女の頭上高く、地獄の空から堕ちてきた天使の姿をした叛逆者である福田花音は、まさに夜闇に夜明けの光をもたらす「明けの明星(ルシフェル)」だったのではないだろうか。

さて、大森靖子という人はあれだけのハロ好きでありながら、和田彩花やアンジュルムとはあまり絡みがない。このことに関しては(本人は決して公言することはないだろうが)、明らかに相容れない存在なのだろうとは感じていた。いや、より正確に言うならば、和田彩花=アンジュルムと、福田花音=大森靖子は、ミカエルとルシフェルのごとき陽画と陰画の関係にある。陽画は陰画を失えば光の中に消え失せ、陰画は陽画を失えばただの闇となるのだ。光と闇の交錯を愛する大森が、その機微を知らないわけがない。だから彼女は、アンジュルムという「陽画」に映し出されない「影」を強調しようとした。たとえば彼女がまろに捧げた「まろまろ浄土」には、こんな歌詞がある。


フェミっぽいくせ こっち全否定

 「女の子」じゃなくて「自分」じゃん

 苦労してない顔面に 分かるわけない乙女心


いささか踏み込み過ぎていると批判する向きもあるだろう。和田彩花の「フェミニズム」には実のところ真っ当な人文科学の学徒らしい慎重さがあり、福田=大森的なるものを「全否定」しているわけではない(実際、和田はまろ加入のはるか以前にZOCのライブを訪れている)。また、弥勒の如き美貌を持つ和田に、「アザラシのように」可愛らしい外見のまろがコンプレックスを抱いているというゴシップも、結局はヲタクによる下衆の勘ぐりでしかない。しかし、自分は大森があえてここまで踏み込んだことは正解だったと思う。というのは、大森は「まろ」という(あるいは「あやかのん」という)アイコンを用いて「強者のフェミニズム」への反駁という、真っ当な社会的メッセージを発しているからである。そしてそのメッセージの政治性は、平成最後の日に発売されたZOCのデビュー曲「family name」において既に見られる。


要らない感情しか売らないから

消費されたって消えはしない


この歌詞を、同時期に話題を博していたアンジュルムックのキャッチフレーズ「少女を消費しない」へのカウンターとして論じるのはやり過ぎだろう。ただ確実に言えることは、大森が視野に入れているファン層は、「私を少女性だけで見るな」と安んじて主張できるだけの他のリソースを備えた強者ではないということだ。大森が重視しているのは、サヴァイヴするために少女性を売りにせざるを得ないような、社会的弱者の少女達である。これに対しフェミニズム側は、彼女達が少女性を売りにせざるを得なくなっているような社会構造自体を批判することもできるだろう。だが現に既存の社会構造の上で人格を形成してきた者にとっては、社会構造の批判はその実存を否定されることにも繋がる。少なくとも彼女たちの心に寄り添う対症療法としては、「あなたを安易に消費させるな」と言うのではなく、「あなたは消費されても消えはしない」と言う方が正解なのではないか。

福田花音は和田彩花とは異なり、個人的な所感を政治的、社会的メッセージに昇華させるようなことはしない。その意味でも、やはりあくまで正統的なアイドルなのだ。個人的な所感の表出は「人形」であるまろが担い、社会性の演出はあくまで「人形使い」である大森が担う。そして、両者のマリアージュは、まろ加入後の初シングル「SHINEMAGIC」のカップリング曲であり、まろのパフォーマンス力を最大限にフィーチャリングした「ヒアルロンリーガール」において早くも発揮されている。



自分は、「ヒアルロンリーガール」はまろ史上最高傑作であると同時に、大森が書いてきた「可愛い系」楽曲の中でも珠玉の出来なのではないかと感じてる。おそらくつんく♂には、まろの「可愛さ」を貫く叛逆精神を十全に描くことはできない。また、大森というシンガーは攻撃的な楽曲を歌う時の激しさとは裏腹に、「可愛い系」楽曲を歌う時には途端に儚くか弱い存在になってしまうところがある。「儚くか弱い少女」を消費させるつもりならばそれでも良い。しかしこの曲で大森が描きたいのは、「消費されたって消えはしない」女子の世界、大森の愛する「孤独」の世界であるはずだ。それを守るためには、大森本人ではあまりにも面の皮が薄い。そのためには、「おかげさまで今日も可愛い♪」と嘯くまろのふてぶてしさが必要なのである。両者の「面の皮の厚さ」がどれだけ違うかは、「ヒアルロンリーガール」のサムネを見るだけで一目瞭然だ。

福田花音はハロヲタの間でも好き嫌いの分かれるメンバーだったと思うが、意外なことにどちらかといえば男性のアンチが多く、女性のアンチは少ないという印象を抱いている。一方で和田彩花には騎士道精神に溢れた男性ヲタがつく代わりに、「フェミニズム」のアイドルである割に(というか、ある意味だからこそ)女性のアンチが多い印象がある。「おかげさまで今日も可愛い♪」と嘯くまろの小憎らしさを見て、男性ハロヲタが「可愛げがない」と感じるのは無理がない。では、女性ハロヲタは、なぜ彼女を好ましく思うのだろうか。

そのヒントとして、「ハロヲタの女王」である大森靖子が自ら「まろまろ浄土」を歌う動画を観てみたいと思う。歌詞字幕とともに、まろ本人とは全く異なる大森のパフォーマンスを見ることが出来る。

「まろまろ浄土」では、「まろ」がひたすら面倒くさい女であることが、延々と歌われ、それでも自分を評価してくれ、愛してくれ、ということが連呼される。もしこれだけの悪条件が並べられた後、彼女に愛情が与えられるとすれば、その愛情は一切の「対価」を要求しない、掛け値無しのものであろう。この歌を、まろ本人は一切の衒いもなく、堂々と歌い上げながらZOCに降臨した。大森の歌う「まろまろ浄土」は、まろ本人よりもはるかに攻撃的で、はるかにか弱い印象がある。そしてどこか大森自身もそのことを自覚し、必要以上に露悪的なトーンで吐き捨てるように歌っているように感じるのだ。まるで、彼女自身は決して「まろ」にはなれないことを伝えたいかのように。

生育過程で適切な愛情を与えられなかった人間は、他者から与えられる愛情に対して常に不安を感じている。その愛情が「掛け値なし」のものであるかを常に疑い、不安定で複雑な言動を示す。多くのハロヲタは既に知っているように、そうした愛着不安は、まろにもある。

しかし、彼女の行動は至ってシンプルである。「掛け値無しの愛情」を臆面もなく要求するのだ。たとえば以下のツイートを見てみよう。

わかりやすく面倒くさい女」ーそれが他人の追随を許さない、彼女の最大の美質である。そしてまろ本人もその美質を十全に自覚し、その美質に対する賞賛もまた、実にわかりやすい形で要求してくる。

ZOCは様々な「めんどくさい女」が集うグループであり、そのファン層にも多くの「めんどくさい女」を抱えていると思える。その「めんどくささ」を隠さないこと、それを下手に隠すことで、「めんどくささ」を一層こじらせたいことー「わかりやすくめんどくさい女」のまま、かつて天使軍団の元勲として君臨した福田花音は、確かに「めんどくさい女」たちのロールモデルになりうる存在ではある。

だが、私はさらにもう一段踏み込んだことを考えてみたい。そのヒントとして、藍染カレンが以下のインタビュー動画の最後に言い放った言葉を紹介しておきたい。

まろをもう一度武道館に立たせたい。

藍染のこの言葉を聞いた時、私は思わず耳を疑った。

「まろさんが来てくれたからには、私たちももっと大きいところで出来るよう頑張りたいと思います」と言うのならわかる。しかし、彼女ははっきり「まろ」と呼び捨てにした。荒くれ者揃いのZOCの中で、良識的な「隠キャ」である彼女は、他の場面ではちゃんと「まろさん」という敬語を崩さない。その彼女が何故、この文脈においてのみ、「まろ」と呼び捨てにしたのか。

ちなみに彼女は、15歳の時にスマイレージ時代のまろと握手したことがあるという生粋のハロヲタである。私には、彼女が「まろを武道館に立たせたい」と言い、続いて「レコ大新人賞ももう一度取らせたい」と言った時、一介の女ヲタに戻っていたのではないか、と思えるのだ。そして、その女ヲタとは、まさに今現在、「まろ...お願いだから幸せになってくれ...」と祈りを捧げている、日本津々浦々の女ヲタである。まろが嬉しそうな顔をしているところを見ることだけを望む、まろに「掛け値無しの愛情」を注いでいる女ヲタなのだ。

愛着障害を抱えたクライアントに対する効果的なセラピーに、「ペットを与える」というものがある。

クライアントが己の低い自己肯定感を、他人に愛情を注がれることによって上げようとする限り、自己肯定感を他人によって握られていることになってしまう。その「他人」が「掛け値無しの愛情」を注いでくれない限り、つまり何らかの「見返り」を要求しない限り、そのクライアントの自己肯定感が上がることはない。また、仮にその「他人」が本当に「掛け値無しの愛情」を注いでくれたとしても、そのクライアントは常に疑心暗鬼によってその愛情を疑い、関係性が破綻してしまうことも多い。

だからそうしたクライアントには愛情を注ぐよりも、「掛け値無しの愛情を注ぐ対象」を与えた方がいいのだ。ペットはその飼い主に「掛け値無しの愛情を注ぐ」ことを絶え間なく要求してくる。飼い主がペットの面倒を見ても、ペットが飼い主に見返りを返してくれることは絶対に期待できない。飼い主の方としては、ただペットが満足げな顔をしているのを見て喜ぶのみである。だが、そのことこそが重要なのだ。他人に「掛け値無しの愛情」を注がれるのではなく、自分が他人に「掛け値無しの愛情」を注げる存在であることを自覚し、そのことで、相手の満足げな表情を見ることによってのみ幸福を得ることを確認できるようになった時、クライアントは自分が自己肯定感を自己生産できる人間であることを意識できるようになる。

つまり私が言いたいのは、大森は、ZOCのメンバーとZOCのファンに、「掛け値無しの愛情」を注げる「ペット」を貰ってきたということなのではないか、ということである。

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ちなみに、この策はことによると「共依存」的な関係を作り出してしまうことに繋がる。愛着障害を抱えた人間同士がこの関係に入ると、「掛け値無しの愛情」を相手に与えようとしてもついつい相手からの「見返り」を期待してしまったり、あるいは相手から与えられた「掛け値無しの愛情」が本物なのか疑心暗鬼に陥ってしまうのである。だからこそ大森は、自分が貰ってきたゴマフアザラシが、絶対に他人に見返りを返さず、ひたすら己への愛情だけを要求する存在であることを「まろまろ浄土」の歌詞の中で示す必要があった。そしてこのゴマフアザラシが、あくまで「まろまろった根性直せって、迷惑かけないレベル」の、あくまで人畜無害であり安定感のある、「わかりやすくめんどくさい」生き物であることを示す必要があったのではないか。

叛逆精神に貫かれたかわい子ぶりっ子、決して天使の姿を崩さない堕天使であるところの福田花音は、アンジュルムという奇跡的な現象が生み出した「鬼っ子」であり、その存在自体が一つの奇跡でもある。そう考えると、彼女は他の「めんどくさい女」たちのロールモデルになりうる存在とは思えない。地獄を這う者は、どう足掻いても天使になることはできないのだ。

だが、天使を愛することならできるのではないか?

仏教圏の地獄においては、時に地蔵菩薩が顕現し、地獄に堕ちた衆生に対し無限の慈愛を注ぐことで救済への道を開くという。しかし、ここまで論じてきたロジックに従えば、いくら地蔵菩薩が無限の慈愛を注いだところで、地獄の衆生どもはその慈愛を疑い続けるだろう。だから私が思うのである。地蔵菩薩が衆生に与えるものとは、「慈愛」ではなく、「慈愛を持つ心」なのではないかと。つまり真の地蔵菩薩とは、地獄の衆生に無限の慈愛を与える者ではなく、地獄の衆生に無限の慈愛を要求する者なのでないか、と。

キリスト教圏の天界で生まれた福田花音というルシフェルは、仏教圏の地獄へと堕ち、巫まろという地蔵菩薩になろうとしていたのではないか、と私は考えている。愛に飢えた地獄の衆生にいくら無限の慈愛を与えたところで、ザルに水を注ぐようなものである。むしろ地獄の衆生には、逆に無限の慈愛を要求するべきなのである。そして、その極意に気づき、地蔵菩薩に無限の慈愛を注ぐことのできるようになった衆生は、「まろまろ浄土」へと往生することができるのだ。

今回、一連のZOC騒動の中で、「みんな信じるものを間違えないで...幸せにアイドルをやらせてください...」というまろの発言が叩かれている。私はこの発言の前段は「ルシフェル」としての発言、後段は「地蔵菩薩」としての発言だと思う。まず前段の「信じるものを間違えないで」というのは、彼女が生まれ育った「天界」の流儀である。ハロプロではどんな騒動が持ち上がっても、事務所はあくまで誰も傷つけないような「お知らせ」だけを発し続け、ヲタクは薄々それを疑いながらも従い、いつの間にか騒動は沈静化する。まさに「信じる者は救われる」という流儀だ。繰り返すが福田花音というルシフェルは神に叛逆したのではなく、神に叛逆した天使軍団に叛逆する形で地獄に堕ちてきた。その意味ではいたって神の正統なる僕である彼女は、ただアイドルヲタが幸せになるための正統な流儀を指し示したに過ぎず、断じて戦慄かなのを貶めるための「匂わせ」などではないと思うのだ。続いて後段の「幸せにアイドルをやらせてください」こそは、無限の慈愛を要求する地獄の衆生に対し、逆に無限の慈愛を要求し返す地蔵菩薩の極意である。これがハロヲタ界隈であれば、ヲタクの菩提心がくすぐられ、「そうだね。まろを悲しませないようにしなきゃね」というリプが居並ぶことだろう。私には、彼女の発言が「失言」だったとは思えないのである。

しかし、残念ながら今回の衆生済度は失敗に終わった。そのことに間違いはない。

仏教圏には「縁なき衆生は度し難し」という言葉がある。地蔵菩薩であっても、全ての衆生を救うことはできない。今回、まろという地蔵菩薩は己の使命をしっかり果たした。それでも救えない衆生は存在する。浄土往生の極意を会得できない衆生は、業が洗い流されるその日まで、六道を輪廻し続けるのみである。ただ、残念ながらそうした衆生の数は、まろが、そして大森が想定していたものに比べても、はるかに多かったのだと思う。

私は熱烈なZOCヲタではなく、あくまで「アンジュルムという現象」全体の熱烈な支持者としての立場から、ここまで論じてきた。その立場から見ても、今回のことは本当に残念でならない。大森靖子はミカエル(和田彩花)の陰画としてのルシフェル(福田花音)の姿を、これまでになくヴィヴィッドに描き出すことに成功していたし、ZOCというプロジェクトは、アンジュルムから零れ落ちるような層を善導する可能性を秘めていたと思う。

大森は「family name」の歌詞で、「これじゃ誰のことも愛せない でもそんなのつまんないし 厄介だ」と書いている。ZOCというグループはその始まりから「愛してくれ」とは歌っていない。「愛させてくれ」と歌っているのだ。浄土往生の極意は、既にデビュー曲の段階から示されていたのである。自己肯定感は他人からの愛によって左右される者ではない。彼女のいう「孤独」の中に、各々が自己肯定感の自動生成装置を持つべきなのだ。聡明な大森は、極意の全てを理解している。ただ惜しむらくは、彼女は地獄の衆生済度を統括する立場の人間としては、いささか己の感情を制御する能力に難を抱えているということである。しかし、これまた彼女を責めても詮無きことである。彼女の業を落とす仕事は、「時」に任せるしかない。

それでもなお、希望は残されている、と私は思う。少なくともZOC一のパフォーマーであり、おそろしく聡明な女性である藍染カレンには、既に極意の全てが伝わっている。私は彼女の言葉を信じながら、地獄の上空を去ることにする。そして彼女がその言葉通り、ルシフェルを推戴し、満を辞して天上へと攻めのぼってくるのを待ちたい。その時、光と闇の黙示録はいよいよ佳境を迎え、ミカエルとルシフェルは一体となって大天使の像を結ぶであろう。


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クッソ生きてやれ。






















































































































外傷的な育ちをしたクライアントに対するセラピーの一つに、「動物の世話をさせる」というものがある。











































































































































































































































































だが、大森がまろに捧げた「まろまろ浄土」の歌詞はどうだろうか。




















































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