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愛が全てなら、奴らは何処に

今日は珍しく18時まで仕事場に拘束されるということもあり、アンジュルムのパシフィコ横浜公演にも行かずに、この文章を書きながらダラダラと職場で時間を潰している。

アンジュルムというグループは、誰を推すかによってヲタの様相がガラリと変わるところがある。自分などは元々「風見鶏」を名乗っていたくらいで、アンジュルムの推しメンが本当に定まらないのだが、あえて言えばやはり「和田彩花推し」だったのだろうな、ということは思う。それは、私が箱推ししていた「第一章」のアンジュルムを開闢したのが彼女だった、ということもあるし、彼女の思想性や人文学的な背景に自分が親しみを覚えやすい、ということもある。また、純粋に彼女がこれから何をしでかすのか、ということに大きな興味もある。そんなわけで、彼女の卒業以後はアンジュルム本隊よりも和田彩花の「現場」に足を運ぶことが多くなった。

第1章のアンジュルムというグループは、実に奇妙な「盆栽」であった。実に様々な太さの枝があらゆる方向に伸び散らかされた野生的な樹であり続けた。逆に言えば、誰が「幹」なのかさえもよくわからない、鑑賞する視座を何処に置くかで、全く異なるメンバーが「幹」に見えてしまうような、そんな不思議グループが、アンジュルムであった。

しかし、久々に勝田里奈の卒コンで久々に観たアンジュルムは、誰が「幹」なのかがはっきりしていた。まずは新リーダーである竹内朱莉であり、「侍大将」である佐々木莉佳子である。アンジュルムは、この二人が確固として指し示す方向性に、全ての枝が綺麗に伸びていく端正な盆栽に変わりしつつある。川村文乃や室田瑞希はもちろんのこと、和田彩花体制下ではむしろユーモラスな魅力を持ち味にしていたはずの上國料萌衣や笠原桃奈ですら、シリアスで力強い「戦う女」に変貌し始めているように見えた。私は彼女たちのパフォーマンスに圧倒され、魅了されながらも、ライブが終わった時、ふと思ったことがあった。

「これは、果たして"For Me"なグループなのであろうか?」

ここで少し視点を俯瞰した形で状況を見てみたい。卒業後の和田彩花は、リベラリスト、フェミニストとしての立場を鮮明に打ち出しながら、徐々に表現者としての牙を向き始めている。一方福田花音や田村芽実は、和田彩花と真っ向から異なる「古典的な女性像」としての自己主張を始めている。彼女たちの主張についてとやかく言う和田彩花ファンもいるが、自分は和田がフェミニストである以前に「アイドルの選択肢を増やしたい」と主張するリベラリストである点を重視したい。その立場に立てば当然福田や田村のような保守的な立場をもプレーヤーとして包含したアリーナが構築されるべきであろうと考えているし、実際、そうなりつつあるように感じるのである。

一方、この秋に卒業した勝田里奈が何を打ち出してくるかはまだ見えてはいない。だが、着々とSNS等のインフラを整備し、アンジュルム本隊の周りを相変わらずのたおやかな所作で旋回し続けている。また相川茉穂はと言えば、一時期の「タブー」としての扱われ方が嘘のようにSNSで元気な姿を晒し、和田や三期メンバーとの接触も隠すことはなくなった。彼女が再び一廉の者として我々の前に姿を現す日も、そう遠くはないのではないか、という気すらしている。

こうしたOGたちの動きを見ていると、彼女たちは本当に「アンジュルムを卒業」したのだろうか、と思うことがある。彼女たちはアンジュルムを「出ていった」のではなく、単に盆栽の鉢に収まらない枝として空中に伸びていっただけなのではないのか、と。いかにアンジュルムが野生的な盆栽だったとは言え、「アイドル」という盆栽の鉢の中では和田と福田のジェンダー観がすれ違う様などを見ることは到底難しいであろうし、相川のような事情を抱えた「枝」を「鉢」の中に収めることも困難であった。しかし、かつては一本の「枝」に過ぎなかったメンバーたちは、今や一つの「幹」として各々に振舞いながら、大局的に見れば「大アンジュルム」という巨木を構成しつつあるように感じるのだ。

そうした「大アンジュルム」のアリーナを俯瞰した時、竹内朱莉がリーダーを継承したアンジュルム本隊は、「大アンジュルム」に対しての「小アンジュルム」といった様相を呈しつつある。そして第1章のアンジュルムにおいて色濃かった和田彩花のリベラリズム的側面が「大アンジュルム」へと拡張されていったとすれば、「小アンジュルム」は第1章終盤から徐々に前景化してきたフェミニズムの側面に特化した「強い女」のパフォーマンス集団へと変化しつつあるように思うのだ。竹内朱莉や佐々木莉佳子を和田彩花と比較した時、果たしてフェミニズム的な主義主張の持ち主なのかと言えばとそうとも言えないであろうが、少なくとも彼女のパフォーマンスのスタイルが、極めて「強い女」のイメージに適したものであることは確かであろう。だとすれば、船木結のように、「強い女」と言い切るにはあまりにも繊細な文学性を備えたメンバーが「小アンジュルム」からの卒業を決意することにも、非常に納得がいくし、「大アンジュルム」という視野を一度でも持ってしまえば、それはとても良い選択なのではないかとすら思う。彼女は今のアンジュルムのメンバーでは数少ないソロとして通用する歌唱力の持ち主だと自分は思うし、いずれ一本の太く長い枝として「大アンジュルム」のアリーナに屹立するであろう彼女の姿が、むしろ楽しみでもある。

和田彩花のリベラリズム的側面が体現されていた第1章のアンジュルムを「箱推し」していた自分は、その拡張形態である「大アンジュルム」を引き続き箱推しし続けたいと思う。だが、「女性を勇気づけるグループ」として特化しつつある「小アンジュルム」が男性である私にとって「For Me」であるはずはない。しかし、だからと言ってそのことに特に失望もない。むしろ、「小アンジュルム」の外郭に広がる「大アンジュルム」の光景が賑やかで刺激的なものになりつつあることを、大いなる希望を抱いている。

だが、だからこそ一つだけ言っておきたいことがある。

リベラリズムという思想には、二つの原理が内包されている。一つは、個人が己の持ち味を活かして自由を追求していくこと。もう一つは、万人には冒されざるべき基本的人権というものが備わっているということ。前者だけが追求されれば弱肉強食の市場原理社会になり、後者だけが追求されれば互いに萎縮し停滞した社会になる。両者は時に相矛盾するものであり、だからこそ時に補完しあって社会の健全性を保っているのだ。

ちなみにキリスト教的な「万人に平等に降り注ぐ神の愛」という伝統を欠く日本という国は、「天賦人権」という倫理的基盤が弱い。その代用品としての機能を果たしたのは、古くは仏教の「慈愛」という考え方であり、戦後の芸能界では「無為の人」がもてはやされた。古くは「男はつらいよ」の渥美清、新しくは電気グルーヴのピエール瀧など(あるいは「象徴天皇制」すら、その文脈で語れるのかもしれない)、「何の役に立つのかわからない」「市場価値が何なのかよくわからない」キャラクターをもてはやす「美学」が、「天賦人権」という「倫理」の代わりを果たしていたのである。その意味においては、神のいない日本という国で、悪魔がその役割を果たしたことすらあった。前世紀末に聖飢魔IIのデーモン小暮閣下は、人間社会に「害をなす」として葬り去られた怪獣達の立場に立った名曲、「害獣達の墓場」の中で、「愛が全てなら、奴らは何処に」と歌った。浄土真宗の「悪人正機」的伝統にすら感じさせるこの曲のメッセージは、その後市場原理に席巻されたこの国の風土においては、随分と古びたものになってしまったように思える。

そんな世知辛い平成末期の世において、燦然と輝きを放ち続けた「第1章」のアンジュルムは、和田彩花が各々の強みを持った「強い女」として生きよとメンバーを鼓舞する一方で、キリスト教的な「愛」、あるいは仏教的な「慈愛」の色彩さえ帯びた「結局はLOVEでしょ」の精神を高らかに掲げていた。まさにリベラリズムの二つの原理が貫徹され、互いに補完し合うことで成立していたグループだったのである。だからこそ、まだ歌は下手だし踊りも荒削りな、「何者でもすらない=『市場』において値がつかない」状態であった加入当時の笠原桃奈は、安んじて自らの実存を肯定することを覚え、その持ち味を徐々に発揮していくことができた。和田彩花からリーダーを継承した竹内朱莉が、その精神を欠いているとは思わない(むしろテクニカルなレベルでは、和田以上に後輩に自己肯定感を覚えさせることに長けた名コーチであるとも思う)。だが、既に述べた通り、第1章のアンジュルムが和田彩花の人間性と完全に連動していたのに対し、第2章の「小アンジュルム」が象徴するものは、竹内朱莉自身の人間性と少しズレたところにあるように思える。そしてそれは、リベラリズムの博愛主義的な側面よりは、「強い女」の戦闘的な側面に寄ったものになりつつあるように感じるのである。

そのことを象徴するのが、中西香菜の卒業なのではないだろうか。

純粋にパフォーマーとして見た場合の彼女の「市場価値」は、他のメンバーに比べれば決して高いものではない。加入時の笠原桃奈のように、今後の伸び代が期待できるような年齢でもない。はたまた、和田彩花や勝田里奈のように、自分に付加価値を与えるような知識や技能を身につけているわけでもない。

そのことについては、他ならぬ中西自身が長らく不安を抱き続けてきた。彼女は「自分がアンジュルムにいていいのだろうか」ということを絶えず口にしてきたし、彼女の他メンバーに対する過剰なまでの気遣いも、時に奇矯にすら見える言動も、全てはその不安の裏返しであろう。実存不安からそうした言動をとる女子というのは別に珍しくはない。そして、そうした女子は市場原理に席巻されてしまった現代においては、「重い」存在として低い市場価値をつけられ、人間関係の市場から退場させられてしまうことも多い。だが、第1章のアンジュルムとは、「強い女」と「LOVE」の両原理を兼ね備えたリベラリズムの集団であった。このグループの「LOVE」は、「強い女」たり得ないという不安に基づく彼女の言動すらも、彼女の「個性」として包摂してしまったのであるー

ーということを、少し前まで自分は思っていた。おそらく似たようなことを感じていたアンジュルムファンは、いるのではないかと思う。

しかし、今の自分は少し違うことを考えている。

既に述べた通り、この国では市場原理では値がつきにくい「天賦人権」に代わって、「無為の人」を持て囃す美学が重んじられてきた。そのことを、昔は「無為の人」を持て囃すほど、社会に余裕があったのだ、と言いたがる人もいるだろう。しかし、私はその因果関係をあえて逆に捉えたい。むしろ「無為の人」がいたからこそ、「天賦人権」に代わる機能を果たしていたからこそ、社会に余裕が与えられていたのではないか、と。

中西香菜とは、まさにそのような存在なのではないだろうか。

たとえば加入したての笠原桃奈にとって、中西香菜は単に優しくしてくれた先輩、というだけではない、歌もダンスも、他のメンバーに比べて上手いわけではない、いつも奇矯な言動で失笑を買われている変な先輩。でも、そんな彼女が受容されている「アンジュルム」と言う空間に、笠原はどれほどの安心感を抱いたであろうか。このグループならどんな自分でも受け入れてくれる、そう思ったのではないだろうか。

ただし、今の「小アンジュルム」が、中西という存在を受容できる方向性のグループだと言うつもりはない。今のこの国は、多様化した価値観に合わせて形成された島宇宙が、各々の市場価値を純化し続けているところがある。だからこそ福田花音や田村芽実は第1章のアンジュルムから分離したのだし、和田彩花と小アンジュルムも分離したのである。ツイッターでも、雑多垢よりは趣味や政治的志向に特化したアカウントがフォロワー数を稼ぐご時世である。和田も福田も竹内も中西もごった煮であった、真の多様性空間であったアンジュルムのあり方では、市場的には共倒れになってしまう、という現実は、残念ながら無視することはできないと思う。

逆に言えば「大アンジュルム」とは、今や市場価値がつきにくくなったリベラルな多様性空間を、それぞれの島宇宙を包含する「銀河系」として拡張したものに他ならない。「大アンジュルム」それ自体には、決して市場価値がつくことはない。しかしその外郭にこの銀河系が存在することで、島宇宙同士はお互いに引き立てあう関係を保ち続けるのである。「あやかのん」とはまさにそうした関係性であるべきだし、室田瑞希と佐々木莉佳子、相川茉穂の関係性も然りであろう。「大アンジュルム」とは、島宇宙同士が時に没交渉に、時に激しく反目しあう日本社会において、然るべき「公共空間」としての役割を果たすべき存在であってほしいと、私は願ってやまない。だが、一つだけ大きな不安がある。

中西香菜は、その空間の何処にいるというのだ?

そう、中西香菜は、「アンジュルムからの卒業」のみならず、「芸能界からの引退」を表明しているのである。

前述の通り、もしも中西香菜の存在こそが、第1章のアンジュルムをアンジュルムたらしめていたとするなら、それを外郭に拡張した「大アンジュルム」にとっても、彼女の存在は不可欠ということになる。逆に言えば、原理的には彼女の存在なくしては、「大アンジュルム」もまた(まるで現実の日本社会のように!)、島宇宙同士が孤立し、あるいは激しく反目しあう空間と化してしまう危険性があるということになってしまうのではないのか。

しかし、中西香菜が「大アンジュルム」を構成する一本の太い枝になるということには、これまた原理的な困難さがある。何故ならば、その枝の一本になるということは、独り立ちできるだけの市場価値を獲得するということを意味するからである。「無為の人」であることに価値のある中西香菜は、より具体的なレベルでは共同体の支えなくしては存在しえず、同時にその存在こそが共同体の紐帯となりうるような、まさに唯一無二の特異点なのだ。

文化史を紐解いてみれば、こうした「無為の人」が持ちうる市場価値は本当に限られている。これは決して私だけの意見ではないが、彼女が役者に向いているというのは本当にそうだと思う。リリウムでもアタックNo.1でも、彼女の演技は本当に異彩を放っていた。実存不安は「今の自分」以外の何者かであろうとするスキルを向上させる。古来、大女優と実存不安は切っても切れない関係にあるのだ。歌手は一人で歌うことができる。ダンサーも然りだ。だが、役者は舞台を準備する共同体なくして存在し得ず、同時にその存在こそが共同体の紐帯となりうるような、「無為の人」のための天職なのである。

そう考えると特撮界の第一人者である高寺成紀氏が中西香菜の熱烈なファンであることには、文化史的な必然が生まれてくる。スタンバーグがマレーネ・ディートリヒを見出してこの方、世界の映画界は「無為の人」を見出す目利きの製作者の歴史に彩られている。そして何よりも高寺氏は、世を偲ぶ仮の学生時代のデーモン閣下と宗旨を同じくする悪魔の手先、「怪獣」の味方なのである。そもそも休養に入った相川茉穂のピンチヒッターとして入ったことが、中西と高寺氏の縁の始まりという話からして因縁に満ちていると思う。相川の怪獣好きは、傷ついた妖怪の手当をし続けたという八百比丘尼のごとき彼女の博愛主義に由来する。だが、相川の代わりに登場した中西は比丘尼ではない。人に愛されたくもその術がわからず、ただ暴れまくることしか知らない姿は、まるで怪獣のようではないか。

私は中西香菜の卒業を聞いた時、やむを得ないことだろうな、ということを思った。また、芸能界を引退するという話も、彼女がそれを望む以上は仕方がないのではないのではないか、ということも思った。だが、その後、中西ヲタの方々と盃を交わし、彼らが中西香菜という存在にどのような意義を見出しているのかということを深々と知ることで、己の浅慮を改めるに至った。

中西香菜という存在は、「大アンジュルム」の銀河系に必要不可欠な「怪獣」である。

結局アンジュルムのパシフィコ公演に行くことが出来ず、仕事帰りに同僚と飲んだくれながらこの文章をダラダラと書き続けていた私は、これから予約受付が始まる高寺氏主催のイベント、怪獣ラジオPresents 「中西香菜のヤッタルチャンシネマ!」に申し込むつもりである。


愛が全てなら、奴らは何処に

愛が答えなら、耳を澄ませ Monster is crying now




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