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アンジュルムのヲタクが愚痴垢を叩いてはいけない幾つかの理由

はじめに

さて先日X上でも書いたのであるが、「例の件」が突如出来したため、アンジュルムのヲタクは少なくとも年末までは、なるべく発言に気を付けなければならないことになってしまった。

特に自分のような人間は、基本的に「誰も敵に回さないような発言」をする術を知らない。なので年末まではnoteの発信自体を控えようと考えている。ところが困ったことに、自分などよりは平和主義者の集団であるはずのアンジュルムのヲタク界隈が、最近やけに荒れ気味な様子なのだ。これでは「例の件」にも何らかの悪影響が出かねない状況である。

そこで「例の件」が本格的に稼働し始める直前のタイミングではあるが、急遽アンジュルムのヲタクに対する提言を記事にしたためることにした。今回の記事は自分にしては珍しく全人類の「融和」を訴えるものであり、「例の件」への餞として、自分なりの「BIGLOVE」のメッセージであることを予め前置きしておきたい。

前提:「批判」と「愚痴」の違い

さて今回この記事を書くにあたり、「批判」と「愚痴」の違いについて改めて定義してみたい。正当な「批判」とは、以下の三条件を満たしていなければならない。

⑴批判者が自分の可謬性に対して十分にリスクヘッジしていること
⑵批判対象による反論可能性が担保されていること
⑶批判対象が批判点について自己修正可能であること

まず⑴だが、これはハロメンの言動に関する「批判」について問題となる論点である。

これまでも他の記事で繰り返していることであるが、ハロメンがエンターティナーである以上、実のところその言動の真意は我々ヲタクにはわからない。だとすれば、それに対するネガティヴな評価を少なくともネット上に発信するのは絶対にやめた方がいい。発言者の真意を誤解していた時の責任を絶対に負うことができないからだ。仲間内であれこれ言い合う分にはまだよいが、不特定多数に向けての発信は全く話が別である。後から「自分が誤解していました」と発信したところで、それを拡散してしまった他の人間が同じことをしてくれるかはまでは責任は負えない。大体そういうケースでは、「自分が間違った情報を拡散してしまったこと」に対する責任を回避するため、発信者の謝罪などはスルーされてしまうことが多いだろう。

さて、これに対し、「真意はさておき、誤解を招くような発言をした方が悪い」という言い方をする人もいる。これについては多少異論もあるが、論点が拡散するので今は触れない。そこでとりあえずこの主張を是認してみたところで言いたいのは、同じことはあなたにも当てはまるのだ、ということである。つまり誤解を招くような発言をする人が悪いとすれば、何故その誤解を発信したり、それを拡散したりする側が免責されるのか、という話である。典型的な「自分に甘く他人に厳しい」、言ってみれば「人間のクズ」の発想なのだと思う。

さて、このことは⑵にも関係してくる話である。ハロメンには我々一般ネット民とは異なり、不当な批判に対する反論可能性が担保されていない。仮に弁明の機会が与えられたとしても何らかの声明文の形式となるから、多くはタイムラグが発生し、既に不当な批判が拡散しきった後の祭りということも多い。そのような形で批判者と批判対象の間に明確な非対称性が存在する以上、それは「批判」と称するただの「いじめ」や「ハラスメント」なのである

その点に関しては⑶も同様である。ちなみに自分は「○○のパフォーマンスはまだまだだ」とか「集客が上手く行っていない」などと言ったネガティヴ発言については全く問題がないと考えている。それはもはや「批判」というより単なる「現状認識」なのであって、そうした発言をするヲタクを「ヲタクが偉そうなことを言うな」と叩くのは流石に行き過ぎであろう。そうしたヲタクの発言が批判されるとすれば、単にその現状認識が間違っているようなケースにとどめるべきである(まあ、無駄に偉そうなヲタクというものは大抵現状認識が間違っていることが多いのだが…)。いずれにせよパフォーマンスなどハロメンの自助努力によって改善できる領域についての批判はポジティヴな結果に繋がる可能性も高く、ヲタク間で言論統制みたいなことをやり合うことに意味は見出せない。

しかし、たとえばルックスなど本人の自助努力で変えられない部分についての「批判」はどうであろうか。普通に考えれば、本人の目の届く場所で相手のルックスを批判するのは、アフリカ系の人の肌が黒いことを揶揄するのと同じである。「端的な差別主義者」なのだ。

その際、「アイドルなのだから美しくあるべきだ」と愚痴垢勢は主張するだろう。自分は愚痴垢勢の「美」の基準というものはひどく幼稚で無教養なものにしか見えないのだが、これもまた論点が拡散してしまうので、百歩譲ってその主張を認めるとしよう。だが、そうだとすれば、それに対する批判は「美」の基準を満たさないメンバーを選抜した事務所に向かうべきであろう(どんな無教養人にも主張する権利はある)。だが、そのやり方に関しては、薄気味の悪い伏せ字を使って本人の名前を本人の目の届くような場所に置くべきではないのは当然である。

さて、そうなると連中が言い出しそうなことが既に二つほど予測できる。一つは「そのルックスでアイドルになるからには、叩かれることは予め覚悟すべきだ」というタイプの物言いである。だが予々論じている通り、この手の自己責任論が有効なのは相手が天災の時だけである。たとえばわざわざ好き好んでスズメバチのいる木に寄って行って刺されたのなら、責任は明確に「木に寄って行った側」にある。しかし相手が人災の場合には、まず責められるべきは当然災いをもたらした人間の方なのだ。しかもこの手の物言いが姑息なのは、自分もその人災の一部でありながら、発言者自身はそうではない振りをしているところである。発言者が事態を案じるのであれば、まず自分自身が口をつぐむのが先決であろう。それでもなお「木に寄って行った側」を責めたいのであれば、それと引き換えに発言者もまたスズメバチと同格であることを認めなければならない。そうなれば頭から殺虫剤をぶっかけられても文句は言えないはずである。

さらにもう一つ予想できそうなのが、「美しくなることも自助努力で何とかなる」というものがある。これに関しては「ある程度は工夫で何とかなるかもしれないがやはり限界がある」としか言いようがない。そして今までその「限界」を突破しようとする人為的な努力を重ねた人々が大抵が破滅していることは、わざわざ具体例を出すまでもない。第一、その際愚痴垢が念頭に置いている「美」の規範というのは愚痴垢の精神年齢に相応しく、ひどく幼稚で悪趣味なものであり、たとえるなら北朝鮮の幼形成熟顔の独裁者が軍事パレードの中に見出す類のものとそんなに大差がない。愚痴垢連中がその美学に殉ずる分にはどうぞ勝手に野垂れ死ねという感じだが、そんなくだらないもののために誰がハロメンの破滅を見たいというのであろうか。

愚痴垢に対する「批判」が成立し得ない理由

さて、以上のように愚痴垢のハロメンに対する「批判」は到底正当なものとしては成立し得ないものである。やはり愚痴垢はひどい、批判されて然るべきだ、という話にもなるだろう。ところが困ったことに、よくよく考えてみると事態はそんなに簡単ではないのである。

先ほど自分は、正当な批判が成立しうる三つの条件という話を述べた。この指標がハロメンを批判しようという愚痴垢に対して用いられるのであれば、愚痴垢を批判しようという誰かに対しても用いられなければ公正ではない。その点を、一つ一つ検証していこうと思う。

まず⑴、批判者が自分の可謬性に対して十分にリスクヘッジしているか。この点については、少なくとも愚痴垢がハロメンを批判しようというケースに比べれば、批判者の可謬性は断然低くなることは確実である。まず第一の理由は、愚痴垢はハロメンと異なり、正当な批判に値する「真意」を好き放題垂れ流しているという点。そして第二の理由は、ひどく認知が歪んだ状態でハロメンを叩いている愚痴垢に比べれば、大抵の批判者は頭も心も健全な状態にあるという点である。もっとも第二の理由に関しては、批判者の認知が愚痴垢並に歪んだ状態であれば成立しないことになってしまうわけだが、この危険性については後ほど改めて詳述したい。

次に⑵、批判対象による反論可能性が担保されているか。これは批判者と愚痴垢が対等な立場のネット民である以上、十分すぎるほど担保されていると言える。実際、自分が愚痴垢について記事を書くと、凄まじい数の鍵引用がついたこともあった。もっとも相手が鍵である以上、自分による相手への反論可能性は全く担保されていないわけだが、向こうが勝手に己の批判の正当性を手放しているだけなので、自分としては全く気にしていない。好き好んで奴隷民の身に甘んじている連中がどれだけ小石を投げたところで、自由民としての権利は二度と得られないのである。

ところが問題は⑶の点である。すなわち、批判対象が批判点について自己修正可能であるか否か。この点については、残念ながら絶望的としか言いようがない。この絶望的な事実を、最近アンジュルムメンバーの批判で何かと話題になっている愚痴垢を例にとりながら検証してみたい。

愚痴垢の言動をつぶさに観察していると、「やけに冷笑的、達観した物言い」と「ベタベタにロマンティックな物言い」が代わる代わるに繰り出されることに気づく。本来、そうした不自然な物言いは思春期のティーンエイジャーに見られる「中二病」の症状である。「本来の自己像」を受容しきれず、なりたい自己理想(ヒーローやヒロインなど)の形だけを真似るという、未成熟で「イタい」言動と言えるだろう。

そしてこういう人の成熟には大きく分けて二つのパターンがある。一つは自己理想を断念して「本来の自己像」を受容し、等身大の言動に落ち着くパターン。そしてもう一つは、なりたい自己理想にふさわしい内実(知性や胆力)を獲得するパターンだ。前者が凡人的な成熟ならば、後者は非凡人的な成熟と言えるだろう。そして当然後者は前者と比べてハードルが高い。ところがかつての日本社会には前者を許容する余裕があったが、昨今ではやたらと後者ばかりが称揚されるようになった。その結果、非凡人的な成熟を遂げようとする凡人が大量生産されるようになってしまったのである。その時、何が起きるか。

英雄的な言動形式に、ひどくショボい内実が「代入」された大人になってしまうのだ

実際、愚痴垢の最大の特徴として「歪んだヒロイズム」というものがある。これはとりわけ鍵垢ではなくわざわざ表垢で愚痴を撒き散らしている愚痴垢に顕著な現象と言えよう。彼ら彼女らの自己認識は、

A. 自分たちは思考停止のDDではなく、是々非々の美学をもって応援対象を選ぶ「意識の高い」ヲタクである
B. 自分たちはそれを裏垢ではなく表垢で堂々と批判を展開する「勇気のある」ヲタクである

このうちA. については、肝心の彼ら彼女らの「美学」というものが資本主義の廃棄物みたいなガラクタに過ぎずお話にならないのだが、その点を論じるとキリがないので他日を期すことにしよう。そこで今回はB. に集中したい。果たして彼ら彼女らは「勇気のある」ヲタクなのかどうか。確かに「恥知らず」を皮肉を込めて言い換えれば「勇気のある」という表現は正しいのかもしれない。何しろ、上述した「正当な批判」の三つの与件を全く満たしていないからだ。変な話、鍵垢で愚痴を展開するような連中の方が、三つの与件のうち⑴の「己の可謬性へのリスクヘッジ」を満たしている分、まだ「まし」なのである。つまり表垢の連中は、より「ダメ」なものへと好き好んで退化してしまったのである。そして少し考えれば分かることが理解できないほどの愚かさを、「正当な批判」と称してやっていることはただの弱い者いじめという卑劣さを、「勇気凛々」で垂れ流しているというわけだ。

だが、状況的に「凡人的な成熟」の道が閉ざされてしまっている以上、連中は「非凡人的な成熟」の道をひた走るしかない。しかし彼女たちは所詮凡人なので「非凡人的な成熟」を遂げることもできず、「非凡な形式」と「凡庸な内実」の乖離はどんどん大きくなり、歳を重ねるほどに「中二病だから」では許されないほどの腐臭を強めていくことになる。無駄にプライドだけは強いはずの連中が自分たちの実態を自覚してしまえば、恥ずかしさのあまり憤死せざるを得ないほどの惨状である。では、にもかかわらず連中は今もなお生きながらえているのだろうか。

その答えは、連中の「鉄壁の防衛機制」にある。

連中は、自分たちが非難されればされるほど、「凡人の非難を恐れずに、卓越した認識をもって正当な批判を続ける非凡人」という自己認識を強化するための心理的永久機関を手にしてしまっている。無論連中は「卓越した認識」どころかひびの入った眼鏡をかけているようなものだし、その「批判」は前述の通り正当どころか不当な誹謗中傷でしかないのだが、それを連中が自覚することはほぼ不可能に近い。認知の歪んでいる人間に対し『あなたの認知は歪んでいる』と指摘したところで、元々正しい認知がインストールされていない以上、何がどう歪んでいるのか理解できないからである。

たとえば自分が揚げた「正当な批判」の三つの与件についても、連中にしてみれば何を言われているのかさっぱりわからないかもしれない。何故ならば連中自身が「正当な批判」とは無縁の世界で生きてきたからだ。連中はやたらと「物言う自律的なヲタク」としてイキる割には、「ハロプロ外の世間の目」のことはやたら気にするキョロ充ぶりを発揮することが多いが、その時点で連中が全くもって「自律的」ではないこと、自分の頭を自律的に働かせることで「正当性」について考えた経験など皆無の、いわば近代的個人としては出来損ないであることは明らかなのである。

またさらにまずいことに、最近では様々な外的要因が連中の「鉄壁の防衛機制」を強化する方向に作用している。連中の「歪んだヒロイズム」の栄養源は、鍵を外す「勇気」を持たない鍵垢の「同志」たちから「いいね」であろうが、これは言わば奴隷頭に向けられる奴隷どもからの歓声である。「鶏口となるも牛後となるなかれ」とは言うものの、実際に鶏のボスになったところで鶏でしかないのだが、奴隷頭が奴隷どもからの歓声を浴び続ければ、自分が自由民としての権利を得たものだと勘違いする手合いが出てきても不思議ではない。そうした陶酔を合法麻薬のような気軽さで手に入れられるとならば、鍵を外してコケコッコーとやかましく鳴き始める鶏どもが続々と現れても仕方がない。そのコケコッコーが互いに交歓し、コケコッコーのエコーチェンバーを築き上げれば、「鉄壁の防衛機制」はますます強固なものになっていくであろう。

また、連中の不倶戴天の敵である譜久村聖が、昨年末に卒業を発表してしまったことも非常にまずい。実際には譜久村側ないし事務所側の事情によるものであろうが、愚痴垢勢に対しては「自分たちが山を動かした!」という偽りの好子として働いてしまっているのだ。「譜久村の卒業で愚痴垢も大人しくなるだろう」などと考えるのは大間違いである。何故ならば連中のインセンティヴは譜久村への憎悪にあるのではなく(ただし「何故よりによって譜久村がターゲットになるのか?」という話は興味深い精神分析の主題ではあるのだが、今回は割愛する)、憎悪そのものにあるからである。この点については、「竹内朱莉なるアイドル」でお馴染みultraviolet氏のポストを参照されたい。

おそらく愚痴垢勢はその惨めな生育過程において、「誰かを憎悪すること」以外の動機付けを学習してこなかった。だから特定の誰かに対する憎悪が消滅しても、次の憎悪対象を探さなければ生きるための動機付けを失ってしまうのである。憎悪対象は「推し」と同じく彼女たちの生きる糧なのであり、「推し」が卒業すれば次の推しに向かうのがヲタクの習性というものだ。実際、最近愚痴垢勢の矛先がアンジュルムに向かいつつあるのは、連中が次の「推し」を探しているということである。そして連中の「歪んだヒロイズム」を満たすには、憎悪対象はそれなりに強大でなければならない。つまり愚痴垢勢が今アンジュルムを標的にし始めているということは(もっとも連中はヒロイズムを気取りつつ姑息なので、アンジュルムが竹内朱莉の卒業で盛り上がっていた今年の上半期には全く手出しをしてこなかったのだが)、アンジュルムがいよいよモーニング娘。に比肩すべき存在になり始めているということを意味するので、アンジュルムのヲタクとしては言祝ぐべきことではあると思う。

ところで先ほど例に挙げた橙子という愚痴垢であるが、愚痴垢の中でも生命力に満ち溢れた興味深い個体ではあると思う。その点について、今一度そのポストを例に挙げて紹介したい。

もっとも、このポストの趣旨そのものは至って凡庸なものだ(凡庸さとは愚痴垢の本質なので仕方がない)。「あなたのことを心配しているから」という口実のもとにエゴを通そうとする毒親的エクリチュールである。自分が瞠目したのは「sm🍜ヲタ」という細部である。他のツイートを見ると一応佐々木莉佳子のヲタクであるようだ。確かに佐々木は「加入時はスマイレージ、デビュー時はアンジュルム」というメンバーであり、形式上は「旧スマイレージメンバー」という見方もできるが、普通「佐々木ヲタ=スマヲタ」とはならないはずである。そして自身もそのことは自覚していて、その後ろめたさが「sm🍜ヲタ」という微妙な言い回しに繋がっているのであろう。

娘。の愚痴垢勢がアンジュルムを娘。叩きの棍棒代わりに用いていることはかねがね指摘されている。そしてこの度譜久村聖の卒業を前にして、連中の「次推し」探しの一環としてアンジュルムに矛先が向いてきた時、「娘。の愚痴垢はアンジュルムに来るな」という声もあがっている。この橙子という個体は、「自分は元々sm🍜ヲタなのだ」と言うことで、そうした非難をあらかじめ封じようとしたのではないか。そして「あなた方新規とは違うのだ」というマウンティングも行おうとしたのではないだろうか。何故ならば内実は凡庸なくせに非凡な自分であることを自認するために生きている愚痴垢という有機体にとって、マウンティングとは光合成にも等しい営為だからである。盆栽は外部から刺激を与えることで様々な形に変化していくものだが、愚痴垢というものも環境の変化に応じて何とも面白い形になっていくものだなと、その生命の神秘に自分が静かな感動を覚えたことを改めて付け加えておきたい。

愚痴垢の行動を「強化」しないこと

さて、以上見てきたように、「正当な批判」第三の与件である「愚痴垢自身による自己修正可能性」が成立し得ないこと、それどころか愚痴垢は他人による批判を糧として「鉄壁の防衛機制」を強化し、己の生きるインセンティヴとなしていることは明らかである。アンジュルムのヲタクが愚痴垢を叩いてはいけない最大の理由とは、叩く行為自体が愚痴垢の行動を強化する「好子」として機能してしまっていることである。さらに言えば、愚痴垢に対して憎悪を燃やしたり、そのあまり「正当な批判」に必要不可欠な健全な認知が歪んでしまったり、売り言葉に買い言葉で愚痴垢に対して「不当な批判」を行ってしまうこと(たとえば愚痴垢の容姿に対して誹謗中傷を行うこと)も、愚痴垢に対する広義の「好子」になってしまうだろう。何故ならば憎悪と不当さとは連中の世界観そのものであって、それらに身を染める人がこの世界に増えていくことは、連中の生き様を肯定することに他ならないからだ。

だとすれば、アンジュルムのヲタクの指針は二つである。一つは、愚痴垢の行動を「強化」しないことだ。この点については、いえもんさんが素晴らしい提言をしてくれている。

前述したように、譜久村聖の卒業が愚痴垢の行為の「成果」であるかのように見えてしまっていることは、愚痴垢に対して大きな「好子」になってしまっている。だとすれば、アンジュルムにおいてはまかり間違っても同じことを繰り返してはいけない。結局のところ「んなこと知るか」精神をグループやヲタクが共有している限り、愚痴垢の行動を強化する「好子」が与えられることはないのである。「愛」の反対は「憎悪」ではなく「無関心」であるという言葉があるが、「愛」の代わりに「憎悪」をも「好子」となす悪食を覚えた愚痴垢の貪欲を封じるには、大盛りの「無関心」をぶちまけることで門前払いするのが最善の策であろう。

ただし、この方法は愚痴垢を追い払うことには効果的ではあっても、愚痴垢のインセンティヴ自体を弱化することはできない。だからたとえ愚痴垢がアンジュルム界隈から姿を消したとしても、連中は必ず他のターゲットを見つけて憎悪を注ぐであろう。何故ならば愚痴垢は生存戦略としてその方法しか知らない生き物であり、生きるために憎悪を吐き、酸素を吸っているからだ。

だからもし愚痴垢の行動原理そのものを変えたいのであれば、その行動に強力な「嫌子」を与えるしかない。連中が生きるためにその行動をとっているのだとすれば、逆にその行動の帰結が「生存の危機」に繋がるような条件付けを与えていくしかないのである。こうした働きかけを、「批判」ではなく「呪い」と自分は呼ぶ。「批判」が「意識」に働きかけるとすれば、「呪い」は「無意識」に働きかけるものである。たとえば愚痴垢がこの文章を最後まで読んだとしても、連中の「意識」は私の言うことに一切納得せずただ拒絶するのみであろう。だが、自分は最初からそんなことは期待していない。自分が相手にしているのは相手の無意識だけである。この文章を最後まで読んでしまった時点で、「呪い」はあなたの無意識にしっかりと刻み込まれてしまっている。どんなに否定しようが、もう後戻りはできないのだ。

おわりに:バスルームでゴキブリを殺す100の方法

だが「呪い」はとてもリスキーな手段である。相手に「破滅」という嫌子を与えることで「回心」を迫るのであるから、回心ができなければ相手の破滅をも覚悟しなければならない。なので、アンジュルムのヲタクにはこのやり口は全くおすすめできない。アンジュルムは「BIGLOVE」のグループであり、「愛」は「呪い」とは最も程遠いところにあるものである。そして「愛」の対概念である「憎悪」もまた、実は同じように「呪い」とは程遠いところにあるものなのだ。

先日、シャワーを浴び終わった後にバスタブの中にゴキブリを見つけた。バスルームを出て洗面所のティッシュを取りに行くとその間に逃げられそうだし、シャワーをかけて排水口に流しても後で這い上がってこられる可能性がある。そこで、百度まで上げたシャワーのお湯でゴキブリをバスタブの隅まで追い詰め、熱湯をかけ続けることで弱らせることにした。だが、このやり方だとゴキブリが完全に弱り切るまでには少し時間がかかる。なので、少しずつ動きが鈍くなっていくゴキブリを眺めながら、様々なことを考えた。

思えば自分はゴキブリに憎悪を抱いているわけではない。自分は生き物全般が好きな人間で、昆虫類というのはその中でも比較的好きな部類に入る。だが、自分の飼い猫に対するのと同じような愛情を抱いているわけでもない(飼い猫に熱湯シャワーをかけ続けて死に至らしめるなどという真似が自分に出来ようもない)。ゴキブリのことは好きでも嫌いでもない。ただ、人間の生活に害をなすから殺すのである。

ゴキブリが人間の生活に害をなすことを批判しても意味はない。ゴキブリは人語を解さず、行動を改めるつもりもないからだ。一方、一般に「人間」と呼ばれる者たちの中にも(人語を解するにも関わらず)絶望的に行動改善能力が低い有害な個体が存在する。「呪い」とは、その者たちの心に熱湯シャワーを浴びせ続けることである。そして自分はゴキブリに対するのと同じように、その者たちに対して愛情も憎悪も持っていない。だとすれば、果たして自分は、その者たちに対して同じように熱湯シャワーを浴びせ続けることができるのだろうか。

やがて完全に衰弱したゴキブリを自分はティッシュで握りつぶし、ビニール袋で包んで台所のゴミ箱に捨てた。何か今まで味わったことのない感覚が覚醒したような気がしたが、あまり他人と共有してはいけないもののような気もした。まともな人間ならば、もう少しゴキブリに対して憎悪か憐憫のどちらかを持った方がいいのではないかという気はしている。そしてそれが「BIGLOVE」のグループのヲタクなら、なおさらの話なのである。

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