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「阿修羅の王子」の神話系ー大アンジュルム小説の文化史的背景ー

はじめに

おそらくは興福寺の阿修羅像の影響か、我が国には「中性的な阿修羅の王子」という表象を用いた作品はとても多い。阿修羅というのは戦闘の神なので、興福寺のもの以外は戦闘神らしい鬼面の像ばかりなのだが、とにかく興福寺阿修羅像が喚起する創作のインスピレーションというのは凄まじいものがあるのだろう。物語を書くというのは二つのかけ離れたイメージの間を埋める仕事なので、「細腕の美少年がどう戦闘神になるのか?」、あるいは「戦闘神が何故細腕の美少年になったのか?」というお題を掲げるだけで、無数のストーリーが書けるものである。

そんなわけで今回、自分の作品『阿修羅の偶像(アイドル)』をこの大いなる大喜利の末席に加えていただく上で、「阿修羅の王子」という表象を用いた過去の小説、漫画を色々と参考にさせていただいた。ちなみに自分はこうしたサブカル作品をも、数千年来のインド・イラン・仏教神話に連なる神話群として捉える立場なので、今回の自分の作品も「小説」というよりは「神話」を書いたという意識が強い。そして我が国の場合は、おそらくは「興福寺の阿修羅像」という表象が大きな転轍点としての役割を果たし、「阿修羅の王子もの」という独特のサブカル神話系を作り上げている。今回の作品に当たっては、そうした神話系の伝統に対してかなり意識的にリスペクトを払いながら執筆した部分もあれば、全くの無意識にその伝統が作品に表出してしまった部分もある。その辺りの話もしながら、今回の記事では「阿修羅の王子もの」三作品を振り返っていきたい。

(1)『聖伝-RG VEDA-』

CLAMPの商業デビュー作となる漫画作品である。1989年連載開始、1996年連載終了という、「エヴァ(セカイ系)以前」の平成初期ハイファンタジー作品の典型のような作品であり、この手のサーガものは同時期の作品にとても多い(たとえばよりヲタクに寄れば『スレイヤーズ』になり、より少女漫画に寄れば『BASARA』になる)。各キャラクターの造形も実に懐かしいというか、自分が中学時代に親しんでいた作品群のそれである。が、一方でさすがCLAMPというか、BL風味やヤンデレ風味など、90年代後半以降のヲタク文化で前面化する要素が既に確信犯的に散りばめられているのは実に興味深い。

ストーリーの方はかなりオーソドックスで、インド・イラン・仏教神話における「阿修羅衆 vs. 天衆」の戦記伝承を下敷きにしている。ただ、その戦火の中で阿修羅の王子に刻まれたトラウマが読者の感情移入を誘うと同時に、王子の「線の細さ」と「戦闘神としての不穏さ」の効果的な誘引として機能している。そしてCLAMPはそうした私小説的フックを作り出す上で、元々インド・イラン・仏教神話にあった設定を、物語上より効果的なものに改変している。『阿修羅の偶像(アイドル)』においてもこのCLAMP版の改変設定を丸々流用させていただいた(それがどの部分なのかは、『阿修羅の偶像(アイドル)』の公開後、改めてお話しできる機会があればと思う)。ただ、前述の通り神話というのは基本的に「お題と大喜利」なので、設定は流用しても当然お話は別物であり、『聖伝』に登場する平成初期風の流麗な神々は、『阿修羅の偶像(アイドル)』においてはことごとく令和風味の等身大キャラに転生を果たしていることは改めて強調しておきたい。

(2)百億の昼と千億の夜

60年代後半に書かれた光瀬龍の小説を70年代後半に萩尾望都が漫画化したもの。表紙に描かれている少女は何と「阿修羅王」であり、王子の造形はもはや「中性的」を通り越して最初から女体化されている。漫画版は長らく絶版になっていたので自分は原作を読んだのだが、最近完全版が出版された。「阿修羅、流行ってる

ちなみに上掲画像がハヤカワ文庫JA版の原作の表紙で、60年代に出た小説にもかかわらず萩尾望都の阿修羅絵と切っても切れない関係になっているため、表紙のノリが90年代前半の原ライトノベルと変わらない感じになっている。ただ、こちらはやはり時代柄ハイ・ファンタジーというより宗教神話風ハードSFといった趣の作品であり、神話的モチーフを用いた難解なストーリーを走らせ、最終的に脱・宗教神話を志向する作品になっている。あえてたとえるなら、一切ファンタジー要素のないサイバーパンクなのにモーフィアスとかザイオンとかネーミングがやたら神話的なマトリックスのあれに近い感じである。

前述の『聖伝』のような昭和末期ー平成初期のフィクションの想像力は、強固なハイ・ファンタジー世界を拵えた上で、私小説的な実存に訴えるストーリーに収斂することが多かった。設定がハイ・ファンタジーになっていた理由は、その方がかえって現実の夾雑物を排除でき、私小説的な主題を浮き彫りにしやすかったからだろうと思う。しかし『百億の昼と千億の夜』の場合には、ストーリーは脱・宗教神話であるにもかかわらず、主題としては「人間と超越的存在」について考えさせられるものになっていて、この辺りはやはり60−70年代の時代性であろう。阿修羅王の位置付けも、まるで「神の死」後の永劫回帰の中を雄々しく生きるニーチェの「超人」の如くで、やはりアフラ・マズダ(阿修羅)はゾロアスター(ツァラトゥストラ)教の最高神ということだろうか、などということも少し考えもした。つまり『百億の昼と千億の夜』よりも『聖伝』の方がしっかり宗教神話的にもかかわらず、前者の阿修羅の方が後者の阿修羅よりも、よほど神話的なキャラ造形になっているという逆説が発生しているのである。

ちなみに『阿修羅の偶像(アイドル)』を書くにあたっては、しっかりエンタメとしてキャラ小説になっていること、と、その上で超越性の復権をもたらすようなものになること、を意識した。つまり『聖伝』と『百億の昼と千億の夜』の中間くらいを意識した。前述の通り、①を志向する中でかなり意識的に『聖伝』の設定を流用させていただいたが、『百億の昼と千億の夜』の方は特に意識して模倣した部分はなかった。にもかかわらず、今回改めて漫画版を読み直してみたところ、②を志向する中で無意識的に影響された部分はやはり大きかったな、ということに気づかされた次第である。つまりこの作品は確かに「宗教神話」なのだが、真面目に超越性について考えていくと、どうしても「脱・宗教神話」的方向に向かわざるを得ないのがツァラトゥストラ以後の物語なのだ、ということなのだろう。興味のある方は、『阿修羅の偶像(アイドル)』を読む前に『聖伝』を読み、『阿修羅の偶像(アイドル)』を読んだ後に『百億の昼と千億の夜』を読むという順番が望ましいのではないかと思う。いかに「神が死ん」でいくかが時系列で概観できるであろう。

(3)「キン肉マン」

1979年に連載開始、現在もまだ連載中のゆでたまごによる超人プロレス漫画である。この作品に出てくる「阿修羅の王子」は「アシュラマン」という超人で、最初は「悪魔超人」という悪役で作品に登場しながら、徐々に「悪役」というよりは主人公の「好敵手」と呼べる存在になっていくキャラクターだ。

『キン肉マン』には様々な敵キャラが出てくるのだが、続編の『キン肉マンII世』まで含めて、真の意味で「好敵手」と言えるのはアシュラマンだけだと思う。他の敵キャラは一旦キン肉マンの味方になるとそのままだが、アシュラマンは『キン肉マンII世』でもう一度敵に回る。また、同じく敵に回った結果、ただの下衆な「悪役」に堕してしまった悪魔将軍と比較すると、アシュラマンは敵に回った後もその高潔さを維持し続けるのである。

なお、アシュラマンは「阿修羅の王子」というよりは「魔界のプリンス」という設定になっている。悪魔将軍の黒幕としてサタンが出てきたり、『キン肉マン』という漫画にはどちらかというと一神教圏的な「悪魔」の概念が持ち込まれているのだが、ヒンドゥー・仏教圏での「阿修羅」は戦闘神ではあっても「悪魔」ではない。むしろ「正義超人」たる帝釈天の「好敵手」という位置付けの方が相応しいであろう。その意味ではアシュラマンもまた、一神教圏的なキャラ設定から、ヒンドゥー・仏教圏の「阿修羅」的キャラへと変化を遂げていくのである。

ちなみに自分は子供の頃アシュラマンが一番好きな超人だったのだが、今回改めて『キン肉マン』を読み直してみて、何故自分が彼を好きだったのかがよく理解できた。詳しくは下記の連ツイを見ていただきたいのだが、彼はまだ「悪役」だった頃も含め、キン肉マンの登場キャラの中でも一、二を争うほど徹底して高潔な振る舞いを維持し続けており、まさに「プリンス」としか言いようがない。そう考えると、自分が子供の頃「アシュラマンの回心」と思っていたものは、実は「魔界のプリンス」としての強すぎるオブセッションや間違った自己規定から彼が解放されていったプロセスなのであり、これは宗教的回心というよりは阿修羅の王子の成長物語として考えた方がいいのではないか、と思ったのである。だとすれば、仏典にある「阿修羅の仏法帰依」という話を、「王子の成長物語」として捉え直すのも面白いのではないか、と考えた次第である。

そんなわけで、キャラ小説としての『阿修羅の偶像(アイドル)』は、『聖伝』と同時に『キン肉マン』に負うところが大きく、作中にはアシュラマンに対するオマージュもいくつか仕込ませていただいた。ところで自分が結構驚いたのは、今回「とある凄腕の方」にお願いした阿修羅の王子バルナのイラストが、興福寺の阿修羅像というよりはどちらかと言えばアシュラマンに近い顔立ちになってしまった、ということである。その理由は明快で、実は阿修羅の王子バルナには、そのモデルとなった実在の人物がいて、「とある凄腕の方」にはその人物に寄せてイラストを描いていただいたのだが、その人物の顔立ちが(バルナ以上に)アシュラマンに近いのである。ちなみに自分はモデル選定に際してアシュラマンのことは全く念頭になかったので、やはり無意識のうちに「神話系の伝統」が創作に滲み出てしまうものだなあ、ということを改めて実感したものである。


追記

今回の記事で取り上げた三人の「阿修羅の王子」のうち、きちんと「三面六臂」なのはアシュラマンだけである。

アシュラマンというキャラクターについて、作者のゆでたまごは「顔が三面、腕が六本あることでストーリーに広がりが生まれ、最初の想定以上に息の長いキャラになった」ということを語っている。確かにアシュラマンは、戦いの中で「笑い」「冷血」「怒り」の三面を使い分けることでキャラクターの微妙なモードチェンジが行われ、さらにその三面の裏には、彼のバックストーリーを象徴する「」という面が隠れている。人間(?)の多面性を子供にもわかりやすい形でアイコン化するという意味で、アシュラマンというキャラクターは見事な成功を収めている。また「六本の腕」は、彼の技の多彩さに用立つと同時に、「彼自身は己の腕を持たない超人(六本の腕は全て他の超人から奪ったもの)」という設定がストーリー展開の中で物凄く効いてくる。そのため、アシュラマンと元々の腕の持ち主である超人の関係性に応じて、腕がアシュラマンに歯向かって彼を窮地に陥れることもあれば、腕が彼の力を倍増させてくれるような展開もありうる。つまりアシュラマンの強さというものは、常に他のキャラクターとの関係性の結節点として描かれることになるのだ。

さて、「阿修羅の三面六臂はストーリーの幅を広げる」という命題の裏を返せば、「阿修羅という図像がそもそもストーリーを象徴している」ということも言えるのではないか。そもそも興福寺の阿修羅像の三面が、幼年期から青年期に至る阿修羅の成長を表している、という説もある。こうした阿修羅図像のストーリー性を特大スケールまで拡張したのが、『百億の昼と千億の夜』の終盤近くに出てきた以下のコマであろう。このコマでは、阿修羅は変転する宇宙そのものの象徴として描かれている。

さて、以上述べてきた、中性的な美形でありながら戦闘の神であること、②時系列上の変化を象徴するものであること、③空間平面上の関係性の結節点であること、によって繰り出される「阿修羅の王子」の豊かなストーリー性は、何かに通ずるものがないだろうか。そう、言うまでもなくアンジュルムである。数多の面(メン)によって紡がれた歴史こそがアンジュルムであり、その彼女たちの腕の展延によって開闢されてきた宇宙こそが大アンジュルムに他ならない。その意味では、自分が「大アンジュルム小説」を書くに当たって「阿修羅の王子」という図像を召喚したのは当然とも言えるし、逆に興福寺の阿修羅像以来積み重ねられてきた神話系の力が、アンジュルムという新しい図像を召喚したのかもしれない。そして、そうした神話系の大いなる力の前には、作家の語る物語などはただの口寄せに過ぎないのである。

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