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どっちも、いっちゃう!?:「倫理的問題行為に加担した表現者をどう扱うか」問題についての原則論

はじめに:※この記事は原則論である

ここ数年、いわゆる「キャンセルカルチャー」の問題が何かと話題にのぼるようになり、このnoteでも何回か取り上げたこともあった。ハラスメントなどの倫理的問題行為に直接的、間接的な形で加担した表現者の作品を、どう扱うのかという問題である。

ただ、そうした自分の記事群を改めて読み直してみたところ、どうも話が枝葉に入りすぎているな、という反省を抱くに至った。この問題系全般に対して自分がどういうスタンスで臨むか、という原則がはっきり示されていないのである。おそらく具体的な問題の諸相を追うことに紙幅を割きすぎていて、原則論をしっかり構築していくリソースがなかったのではないかと思われる。

そこで今回はあえて具体的な話は最小限度にとどめ、徹底して「原則論」を進めていきたいと考えている。もちろん、何故自分がこのタイミングでこのnoteにこの話を書くかという理由は、わかる人にはわかるであろう。その具体的な問題に関して今後起こるであろう議論、あるいは現在既に起こりつつある議論が、ひどく不毛なものになるのではないかと自分は憂慮している。なので、その際の導きの糸となりうるような原則論をあらかじめ用意しておきたいと考えた次第である。

作品の独立性と表現者の倫理性をめぐる議論

まず、こうした問題について必ず出てくるのが「倫理的に問題がある表現者と作品は独立的に考えるべきか否か」という議論である。

まず「作品と表現者は独立的に考えるべきではない」という意見。こうした人たちの主張には「自分はハラスメントに加担した表現者の作品を無邪気に聴くことはできない」という個人的なお気持ちが付記されることが多い。そして、そうした人々がそう感じること自体は、当然なことだと理解できる。

だが、その人がそう感じたからといって、それが「独立的に考えるべきではない」という規範になるわけがない。規範が規範として機能するためには、

⑴個人のお気持ちを集める形で集団的合意を形成する
⑵さらにそれが単なる一時的な「集団心理の暴走」にならないよう、歴史的に形成されてきた規範を参照する

というプロセスを経る必要があるからだ。個人がお気持ちを表明することは各々の自由であり権利だが、それがそのまま絶対的規範に繋がるわけではないという謙虚さは各々が常に持ち続けなければならない。また、表現者の倫理的問題行為に対して真摯な怒りを備えている人だけではなく、単に「いっちょ噛み」したいだけのキョロ充的尻馬ライダーが猖獗しやすい(こうしたタイプは合意形成・参照プロセスなどには最初から興味がない)。そして感情的になりすぎるあまり、上記のような煩雑な合意形成・参照プロセスに耐えられない人というのも少なからず存在するのも問題の一つである。

一方で「独立的に考えるべきである」という意見。こうした人たちにも規範形成という意味で問題のあるケースが多い。その最たるものが「倫理的な問題行為に加担した表現者」を告発しようとする人たちを、単に「キャンセルカルチャー」であるとして非難する物言いであろう。そうした人々が持ち出しがちなのは、「今までも『そういうもの』だったのだから」という物言いである。前述の二段階プロセスで言えば⑵の、「歴史的に形成されてきた規範」との参照プロセスを形だけ行なっているということになる。しかし既に述べた通り、問題行為の糾弾そのものは個人の自由であり、権利でもあるのだから、そうした意見にも耳を傾けなければならない。つまりこういう人たちは⑴の、集団的合意形成プロセスを完全に放棄しているのである。またさらに言えば、彼ら彼女らによる「歴史的に形成されてきた規範」との参照作業というのも、実にいいかげんで恣意的なものである。そもそも規範として機能不全な、だらしない「現状追認」に過ぎない。歴史を参照するためにはそこからしっかりと「善きもの」を掘り起こす必要があるのだが、彼ら彼女らにはそのために必要な教養が致命的なまでに欠落しているのである。

もっともこちらの陣営にも「独立的に考えるべきではない」陣営と同じく、まともな人もいればそうでない人もいる。このうち後者については、「自分が純粋に楽しみたいところに厄介な問題を持ち込まないでほしい。目をそらしたい」という自己中心的な生活保守主義者がその大半を占めるであろう。ちなみに自分は民主政論者(デモクラート)ではなくあくまで多元的決定論者(ポリアーキスト)なので、両陣営のあまりに「アレ」な人たちはざっくり合意形成プロセスから排除してしまって構わないと考えている。そうした雑音を取り払った上で、両陣営のまともな人たち同士の「落としどころ」はどこになるのか、というのが今回の論点なのだ。

欧米出羽

さて、「独立的に考えるべきではない」派が持ち出す論拠の一つとして、「欧米ではこんなことは許されない」というものがある。しかし、こうした出羽守的論拠もそれ単体では規範として機能し得ないものである。その人が欧米的価値観を奉ずるのは自由であり権利だが、他の人がどうなのかという点は合意形成プロセスを通じて確認しなければならない。また欧米のそれとは異なる日本土着の歴史的規範との照合作業も不可欠なプロセスであるからだ。

だが一方で、なぜ「欧米では許されなく」なったかということには検証の余地がある。何故かというと、欧米的規範そのものというより、その規範の形成プロセスについて、自分は欧米に学ぶべきものがあると考えているからだ。

まず、至ってざっくりと手早く欧米文化史を振り返る。まず、元々欧米において芸能とか技芸というものは教会にとっての布教ツールであった。教会音楽であれ宗教絵画であれ、宗教的倫理性と一体不可分なものだったのである。ところが中世末に旧教会の権威が失墜後、近世になって新・旧教圏のいずれにおいても国家教会化が進むと、芸能や技芸は世俗権力たる近世国家理性のプロパガンダツールになった。いわゆる古典音楽やアカデミック絵画というのがこれに相当し、今度は人文主義とか啓蒙的理性といった世俗的な倫理性と一体不可分となった。

ところが19世紀後半以降、そうしたアカデミズムに対する反発からモダニズム芸術が生まれ、大衆芸能へと発展していく。そしてモダニズム芸術や大衆芸能は18−19世紀的アカデミズムの貴族-市民層的倫理に対する反発から、時に退廃的で唯美主義的なメッセージを伴うものも多かった(たとえば「表現者の倫理性と作品は独立して考えるべきだ」という考えの源流の一つも、こうしたモダニズムの思潮の中に求めることができるだろう)。しかしその非倫理性、唯美性は、19世紀後半以降の欧米社会の民主化プロセスと表裏一体のものであり、それはやはり裏返しの政治性、倫理性を伴うものであったのである。

ちなみに「欧米では許されない」派の持ち出す「欧米」とは大抵アメリカを指すのであるが、そのアメリカでは上記の構図が20世紀末に逆転する。すなわち「18世紀-19世紀的価値観」の右派エスタブリッシュ勢力に対抗する「20世紀的価値観」の左派大衆芸能という構図が耐用年数を越え、左派文化は多元化が進む諸種アイデンティティの共存のために、より「ポリコレ」的になり(21世紀型民主党文化)、右派文化は20世紀的価値観を引きずる大衆票獲得のため、より大衆的、反「ポリコレ」的になった(21世紀型共和党文化)。だがその一方で。前者は相変わらず「世界の警察官」という20世紀的な倫理規範を維持しているし、右派は右派で18−19世紀の保守的な倫理規範をより強化しつつある。つまり左右両派とも現代社会での合意形成プロセスを継続するために必要な変貌を遂げつつ、歴史的に作り上げられてきた規範をしっかり参照している。この辺りは(良くも悪くも)世界最古の立憲民主政国家の面目躍如といったところであろう。

さて、「欧米では許されない」派の言う「欧米」とはアメリカを指し、それも21世紀型民主党文化の「ポリコレ」的な側面のことを指す。そして自分はどちらかと言えば20世紀型民主党文化で自己形成した人間だということもあって、実のところ21世紀型民主党文化にも21世紀型共和党文化にも馴染めないところがあるのだが、それでよいとも考えている。前述の通り、学ぶべきは欧米的規範そのものではなく、あくまで欧米的な規範形成プロセスだと考えているからだ。「和魂洋才」とはよくいったものだが、では、欧米的な規範形成プロセスを日本の条件下で駆動させた場合にはどうなるのか? 次章以降ではその思考実験を試みてみたい。

古来日本出羽

まずはまたしてもざっくりと手早く日本文化史を振り返りたい。まずは欧米において芸能技芸が教会と切り離され、世俗権力の傘下へと収まっていった14世紀前半から17世紀前半の日本のことを考えてみる。すなわち、鎌倉時代末期から江戸時代初期に相当する時代だ。ちなみに欧州の芸能技芸が教会のツールであったのと同じく、日本の芸能民も元々は寺社領を拠点として活動する漂泊の民である。ただし中世後期から近世初期の日本では、欧米とは異なるプロセスが進行していた。すなわち律令体制初期には寺社勢力を制御していた朝廷権力が後醍醐帝の抵抗を最後に完全に失墜し、脆弱な世俗政権たる室町幕府は寺社権門を統制しきれていなかったのである。その上で寺社領を拠点として活動した芸能民もまた、寺社権門の宗教的権威を背景に世俗権力に対して超越的に振る舞うことが可能になった(観阿弥・世阿弥や阿国歌舞伎)。そして強固な世俗政権となった江戸幕府は寺社権門こそその統制下に収めたものの、そこから切り離された芸能民は「アウトカースト」として世俗秩序の外部に留まり続けた。彼ら彼女らはそれゆえに「やくざ者」扱いされることはあったものの、それはその超俗性、聖性が逆説的な形で温存されたということを意味する。この伝統は近代以降になっても残存し、たとえば寄席が芸人たちによる世俗権力風刺の「聖域」と化すのも、元々は彼らの祖たる中世の漂泊民たちが纏っていた聖性の残光なのである。

ところで、こうして近代まで温存された芸能民の超俗性は、同時期に日本に入ってきた欧米のモダニズム大衆芸能が持つ唯美性と相性が良かった。明治維新後の浅草がわずか数十年でモダニズムの聖都へと変貌したのにはこの辺りに理由があるだろうし、自分のように20世紀型民主党文化に親和的な形で自己形成を遂げた20世紀日本人が多いことにも繋がる話だ。ただし、前述の通りモダニズム大衆芸能の退廃性、唯美性はその政治性、倫理性の裏返しである。モダニズム大衆芸能の表現者たちは18-19世紀的世俗倫理には対抗しつつ、新たに勃興しつつある市民社会の一員としての新しい世俗倫理を討議し合うプレイヤーなのだ。欧米のパフォーマーたちが政治的発言を厭わないことの規範的原点はここにあるだろう。一方、日本の芸能人が「政治的発言」をするとあまり良い顔をされないのは、元々世俗倫理を超越した存在である日本の芸能民が特定の世俗権力に肩入れしてしまうと、その聖性が失われてしまうことに起因するのではないだろうか

ただし、特定の世俗権力に肩入れしないということは、全ての世俗権力に対して超越的な立ち位置から物を申すことができるということである。単に「物言えば唇寒し」で口を噤んでいるだけでは、身にまとった聖性はすぐに消滅してしまうだろう。もっともそうした超越的な振る舞いは、特定の世俗権力に肩入れした振る舞いよりもはるかにハードルが高いし、単なることなかれ主義へとあっという間に頽落しかねない構造を備えた規範のあり方でもある。だがこうした日本芸能民的規範は、欧米モダニズムの規範よりも「志の高い」ものに自分には思える。そして現代日本の我々が常に立ち返り、参照すべき歴史的規範とは、ここにあるのではないかと考えるのである。

聖的規範としての「どっちも、いっちゃう!?」

さてここで改めて2020年代の日本の文脈に即した形で、

⑴集団的合意形成
⑵歴史的規範の参照

の二つのプロセスが具体的にどのようなものになるかを考えてみたい。

まず、欧米(特にアメリカ)の影響下で諸種アイデンティティの多様化が進む21世紀の日本では、集団的合意形成が欧米的「ポリコレ」に基づいた物になるのは理の当然と言える。そしてここで留意すべきは、集団的合意形成とは決して多数決ではなく、社会の中に不可避的に存在する権力勾配に配慮すべきものであること、弱者や少数派にある程度の「下駄を履かせる」ものでなければならないということである。当記事の主題に即して言うならば、「弱者に対するハラスメントに加担している表現者がいるとすれば、これを声高に糾弾せよ」が然るべき集団的合意形成となるであろう。

だが、ここは日本ではある。したがって参照されるべき歴史的規範としては、日本の芸能民のそれが想定されるはずだ。そして日本の芸能民の規範とは、世俗内のいかなる勢力からも超越し、いかなる勢力に対しても平等に陽光と豪雨をもたらすようなものでなければならない。そしてこのことを当記事の主題に即して言うならば、以下のようになるだろう。

弱者に対するハラスメントに加担している表現者がいるとすれば、これを声高に糾弾せよ
⑵ただし、その表現者の作品が「聖性」を体現するに足るクオリティを備えているのならば、これを「キャンセル」してはならない

⑴は前述の通り、21世紀の集団的合意形成としては妥当なものである。そしてまた強者の権力に忖度せずに物申す超俗性という意味で、本邦の歴史的規範にも適うものであるだろう。そして⑵は決して民意に阿ることなく、あらゆる者どもの上へと平等に立ち昇る太陽のような聖性を意味すると同時に、21世紀的規範に馴染みきれない20世紀的感性の持ち主たちをも包摂しうるほどに集団的合意形成の裾野の広げる役割も果たすはずだ。⑴と⑵は常に相互補完的に機能するものなのだ。

なので⑴と⑵はどちらか一つであってはならない。⑴だけならば民意に阿る付和雷同の輩、⑵だけならば強者に阿る阿諛追従の輩へと頽落し、古き善き聖性は永遠に喪われてしまうであろう。二つの規範は必ず同時に遂行される必要があるのだ。

少し具体的な話に落とし込んでいきたい。たとえば有力者の倫理的問題行為に加担している大手芸能事務所Aがあったとする。そしてこの事務所Aに作品を提供している音楽制作事務所Bがあり、事務所B内の構成員Cが事務所Aに対して批判的な言動を行なったとする。実はこの状況こそが、「二つの規範が同時に遂行されている」理想型だったのではないか、と自分には思えるのである。

ところが事務所Bは(おそらくは)事務所Aの圧力に負け、構成員Cを解雇してしまった。その瞬間にせっかく獲得されていたはずの聖性は喪われてしまう。事務所Bのかかる頽落は声高に批判されて然るべきものである。ただし何を批判するかを間違えてはならない。問題は事務所Bが事務所Aに作品を提供していることではなく、事務所Bが事務所Aへの批判を封じてしまったことにあるのだ。実際事務所Bは、そのことであっという間に聖人から阿諛追従の輩へと転げ落ちてしまった。だが逆に、事務所Bが世論に阿って事務所Aへの作品提供を一切やめてしまったとしても、それは聖人から付和雷同の輩へ転げ落ちることを意味するはずだ。「優れたバイオリンは優れたバイオリニストの手に渡るのが『善』である」とは欧米人のサンデル教授も言っていたが、本邦の規範に照らせばなおさらのこと、事務所Aの優れた所属タレントに事務所Bの優れた作品が提供されることは、事務所Bが事務所Aへの批判を封じない限りにおいて「善」なのである

そんなわけで翻って今度は我々自身の話である。いかに事務所Bの提供する作品が優れているとしても、我々は事務所Bを阿諛追従の輩として非難しなければならない。だが同時に、事務所Bが制作する作品が「聖性」を体現するに足るクオリティを備えている限り、これを「キャンセル」してはならないのだ。この二つを同時に守らない限り、我々もまた阿諛追従の罪か付和雷同の罪のどちらかをいとも簡単に犯してしまうことになる。そして我々が少しでも\神/に近い存在たらんと欲するのであれば、本邦の\神/はそのための聖的規範を既にお示しになっている。そう、「どっちも、いっちゃう!?」こそが、\神/が我々を二つの罪から救うためにあらわした啓示なのだ

おわりに:※この記事は原則論である

さて、繰り返しになるがこの記事はあくまで原則論、規範論であり、現実的な文脈をかなり意識的に捨象している。したがって「どっちも、いっちゃう!?」という聖的規範が果たして現実に機能しうるのか否かについては議論の余地があることは当然自覚している。たとえば現時点で予想されるものとして、「相手を口だけ糾弾しつつ作品を起用し続けるならば、相手に対する圧力にならないではないか?」という意見はもっともだと思うし、その逆側から来るであろう「強力な権力を持つ相手を批判しながら関係を維持し続けるようなことが本当に可能なのか?」という意見ももっともだと思う。

しかし、建設的な議論というものは共通のポジティヴな目的がなければ成立し得ない。逆に言えば「そもそも共通の目的は何か?」を問うようなラディカルすぎる議論は不毛な水掛け論に終始することが多いものである。そうした事態に陥らないためには議論プロセスの複雑性を予め縮減する必要があり、英米経験論圏では「歴史的規範の参照」が重視され、大陸合理論圏ではルソーのいう「最初の立法者」のごときものが想定されてきた。今回の記事は、英米経験論圏的な発想を用いながら、議論の叩き台になるような(だが原理としてはあくまで不動であるような)律法を提示する「最初の立法者」としての機能を果たすべく書かれたものである。そしてこの律法をどう現実に適合させていくかの議論は、広く江湖に委ねたいと考えている。

もちろんその上で、「この律法はやはり現実的に機能不全である」というような結論に至ることも、自分は十分に覚悟している。そしてそれは既にこの地が\神/に見放されたのだということを意味するのであり、ならばこの地は遠からず大洪水に見舞われて水底に沈むであろう。したがって自分が次にやるべきことは箱舟を作って心ある者を集めることになるはずだ。ちなみに大洪水の間中、船の中ではJuice=Juiceの新曲などを流し続ける予定なので、誰かを誘って聴きにおいでいただければ幸いである。




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