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「広い小乗」と「狭い大乗」:アンジュルムとファンダム・エコノミー(?)

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小説『阿修羅の偶像(アイドル)』の公開を8月13日(土)に控え、8月5日(金)21時からスペース「修羅ドリ」を開催することになった。

で、それに向けて少し資料らしきものを作ったりしているのだが、その過程で、とある方に「『阿修羅の偶像(アイドル)』のターゲットは誰か?」という質問をされたことを思い出した。それを聞いて自分がまず答えたのは「アンジュルムのヲタクの皆さん」ということである。しかし、それ以外のターゲットについては、特に想定していない。が、たとえば「真夜中にハロー!」のように、完全にヲタク向けというつもりで書いた作品でもない。厳密に言えば「ターゲットを想定していない」というより、「ターゲットを想定していないことを想定している」と言った方がよいのだが、いささかややこしい話になるので、その場ではそれ以上答えなかった。そして、これからその話について書きたいと思う

アンジュルムというグループには、2020年度の上半期と下半期の境目辺り、楽曲で言えば「限りあるMoment/ミラー・ミラー」と「SHAKA SHAKA TO LOVE」の間辺りに、大きな画期があったように自分には見えている。

2020年度上半期までのアンジュルムは、2019年の和田彩花の卒業から続くグループ再編の余波の中にあった。2019年度末の室田瑞希の卒業と太田遥香の活動休止で一段落はしていたものの、船木結の卒業はコロナ禍で延期になったままであったし、太田がグループを卒業するのか否かも不透明な状況下にあったのである。ところで「2019年の和田彩花の卒業」という言い方はしたが、実は和田はその一年以上前、2018年の4月には卒業を発表している。またその前年の2017年には相川茉穂の処遇がずっと未確定だったことを考えると、2015-16年の福田花音、田村芽実の卒業期から連続して、アンジュルムは改名以来5年以上にわたって絶え間ない地殻変動に置かれてきたグループということになる。

2019年度末というのは、そうしたアンジュルムの地殻変動がコロナに揺れる世相と共振してピークに達した時期であった。そして2020年の夏に出された「限りあるMoment」という曲は、そうした大激震に対するアンジュルムからのアンサーソングであり、長い目で見れば5年以上続いたアンジュルムの地殻変動の集大成曲だったのだと自分は考えている。実際、元々室田瑞希卒業の三ヶ月後に予定されていた船木結の卒業が六ヶ月延期された後は、笠原桃奈の卒業までは一年が空き、さらにその後は誰の卒業も発表されていないことを考えると、今回の間隔はさらに空くであろう。つまり、今のアンジュルムの「地殻変動」は明らかに収束期を迎えつつあり、そのことを予兆する曲となったのが、「SHAKA SHAKA TO LOVE」だったように感じている。

「SHAKA SHAKA TO LOVE」は、乱世に敢然と立ち向かう「限りあるMoment」とはうって変わり、等身大の自己肯定をもって日常的な「自分磨き」を続けていこうという、実のところ非常に地味なメッセージ性の楽曲である。「限りあるMoment」のように生きるのはアンジュルムでないと難しいが、「SHAKA SHAKA TO LOVE」のように生きるのなら何とかなりそう、とヲタクにも思えそうな曲なのだ。また、たとえば「君だけじゃないさ…friends」のような形で日常の儚さに触れる曲は今までにはあったが、日常を永続的で安定的なものとして捉える曲というのはそれまでのアンジュルム楽曲には存在しないものであった。

こうしたアンジュルムの「等身大」化と「安定」化は、その後のアンジュルムがファン層を拡大化していくことにも寄与しているように感じる。たとえば続く2021年の「愛されルート A or B?」での彼女たちは、2020年上半期までの英雄的群像がまるで嘘だったかのように今時の迷える女子を演じきり、見事ハロプロ楽曲大賞を獲得した。また「はっきりしようぜ」「ハデにやっちゃいな!」などの社会的なメッセージ性の強い曲にしても、「限りあるMoment」のような当事者としての切実さは既に消え失せていた。つまり「SHAKA SHAKA TO LOVE」以降のアンジュルムは、「英雄的群像から等身大へ」「私小説から娯楽小説へ」という二つの変化を経たことになり、今日のプロフェッショナルなエンタメとしてはまさに王道なのである。その意味では、「 SHAKA SHAKA TO LOVE」はテクニカルな面でも「プロフェッショナル」な出来になっていて、まずこの曲はタイアップソングであり、そして「キャラソン」でもあるのだ。橋迫鈴の「自分磨き止まんな〜〜い!!」や上國料萌衣の「自分を好きになっていいんだよ!」を初めて見た時、自分は腹を抱えて笑い転げると同時に、ここまで意識的に「キャラソン」を打ち出してくるアンジュルム楽曲は初めてだな、と、心底驚いたものだ。ここまで手抜かりなくプロフェッショナルな娯楽楽曲を仕掛けてくるアンジュルムを、自分は初めて見たのである。

2020年は上國料萌衣のメディア露出が増えた年であり、2021年には川村文乃と佐々木莉佳子もこれに続くことになる。ただし、彼女たちの躍進をくさすつもりはないという断りの上で言うなら、彼女たちのメデイア進出の効果は、やはり限定的ではあると思う。それは、たとえばアンジュルムにもハロプロにも興味がなかった2015年くらいの自分が、たまたまTVで川村文乃さんのマグロ話を聞いたとしたらどうだろう、と想像すればわかりやすい。おそらく「世の中にはすごい人がいるものだ」と感心するだろう。だが、だからと言ってアンジュルムのCDを買ったり、ライブに足を運んだりするところまでは絶対にいかないと思う。おそらくそれをするのは、最初から女性アイドルとかライブエンタメといったものに興味を持っている層であって、彼女たちのメディア進出がその矩を越える効果を持ちうるとはなかなか考えにくい。それは世の中の人々はそうそう自分の守備範囲の外には出ていかないものだ、ということであって、彼女たちの力不足ということではない。彼女たちは「女性アイドルに興味がある層」に対する広告塔の役割をきちんと果たして、さらに今のアンジュルムは彼女たちが引っ張ってきた層をきっちり捕まえるだけのプロフェッショナルなフックを手抜かりなく備えている。つまり、一定の限定された範囲でパッシヴな層までを掬いきろうというのが、「SHAKA SHAKA TO LOVE」以降のアンジュルムであり、自分はこの力を「狭い大乗」と呼びたい。

さて、では何故自分はアンジュルムのCDを買ったり、ライブに足を運んだりするようになったのか。自分をここに引き寄せたのは、「SHAKA SHAKA TO LOVE」以降のアンジュルムではなく、「限りあるMoment」以前のアンジュルムだ。不安定で私小説的だが、徹底して切実に英雄的であったアンジュルムなのだ。このアンジュルムは、今前景化しているアンジュルムとは真逆の力を備えている。それはどの層をターゲットにしているかよく分からず、パッシヴな層に対しては不親切ですらある一方で、幅広く様々なコミュニティのアクティヴな層を串刺しにするような魔力である。実際「限りあるMoment」以前には、各界の名士たちがある日を境に憑かれたように「アンジュルム」を連呼し始めるという現象がしばしば起きていたし、堂島孝平とはアンジュルムの時代の変わり目ギリギリのタイミングで、この魔力によって異世界から召喚された勇者に他ならない。そして自分はこの力を、「広い小乗」と呼びたい。

なお、誤解のないように強調しておきたいのは、「狭い大乗」と「広い小乗」は決して対立的なものではなく、相互補完的なものである、ということである。実際、今の「狭い大乗」期のアンジュルムの躍進を支えているのは、堂島孝平や蒼井優といった「広い小乗」によって引き寄せられた者たちがもたらした文化財であるし、かつての「広い小乗」期には考えられなかった現在のCDの売り上げを支えているのは、「狭い大乗」路線によって掬い上げらたファン層であろう。今日「ファンダム・エコノミー」という言葉が出てきているようだが、「エコノミー」とは必ずしも金銭だけに換算できる概念ではない。「狭い大乗」によって掬い上げられたパッシヴ層は貨幣経済担当、「広い小乗」によって召喚されたアクティヴ層は交換経済担当、ということなのだと思う。つまり後者にとっての「エコノミー」とは、アンジュルムのもたらしてくれた価値に対して、また別の価値で返すことなのだ。これは何も堂島や蒼井といった著名人だけの話ではない。アンジュルムのヲタクにはとにかくアンジュルムに触発されて文章を書き始めた人が多く、他にも絵を描き始めた人や、中には宮古島まで行って自分の写真集を撮影し始めた人などもいる。こうした全ての愛すべき頭のおかしい人々を、私は「広い小乗」という言葉で串刺しにしたいと思う。

また一方で、今のアンジュルムにおいて「狭い大乗」が前景化しているからと言って、決して「広い小乗」を失ったわけではない、ということも強調しておきたい。まず何度も言っている通り、アンジュルムの背景には「大アンジュルム」という宇宙が広がっており、この宇宙に旅立っていった和田彩花や福田花音は「広い小乗」をさらに先鋭化させているように思える。そして今のアンジュルム本隊も「休火山」ではあるかもしれないが、決して「死火山」ではないのだ。いつ次なる火山活動を始めるかはわからない、そんな緊張感を常に漂わせているのがアンジュルムという山である。だが、そうした土地の方が観光地としては面白いものである。温泉に浸かることもできれば、地獄谷を覗くこともできるのだ。

それに、そもそもデビュー当時のスマイレージというものが完成された「狭い大乗」だったことも忘れてはなるまい。確かに「狭い大乗」で掬い上げたパッシヴなファン層というものは、自分たちに向けられた消費者としてのターゲットを外された場合には容易に離れるものである。しかし中には矢があまりに深く突き刺さったおかげで、スマイレージがアンジュルムになり「広い小乗」の地獄谷巡りを始めるようになっても忠実に付き従い、次第にそれまでの己の矩を越えた価値変容を起こし始めるヲタクというのも確実に存在するのだ。これも「ファンダム・エコノミー」の一環として語りうるものなのか、それともまさに「大乗」という言葉に相応しい宗教的な事象なのかはさだかではない。しかし、アンジュルムのごとき徳を持たぬ自分は、そうした「大乗」はアンジュルムに任せ、少なくとも「小乗」の部分で資するものがあれば、というつもりで今回の小説を書いたつもりなのである。

※大アンジュルム宗教歌劇小説『阿修羅の偶像(アイドル)』はこちらから。公開は9月25日(日)までです。👇

追記(9月13日):「治療的ダブルバインド」としての「悔しいわ」

さて、ちょうどタイムリーにこの曲が出て、この記事のテーマに相応しい流れになってきているので、少し追記を。

「SHAKA SHAKA TO LOVE」以降のアンジュルムのリリース曲は、「はっきりしようぜ/泳げないMermaid/愛されルートA or B?」→「愛・魔性/ハデにやっちゃいな!/愛すべきべきHuman Life」→そして今回の「悔しいわ/Piece of Peace」の順番になっている。これらの曲をざっくり分類すると、

「はっきりしようぜ」「愛すべきべきHuman Life」
これらの曲ではアンジュルムが曲中のキャラを演じることなく、パブリックイメージとしての「アンジュルム」が「アンジュルムらしい」メッセージを歌う曲になっている。

⑵「泳げないMermaid」「愛・魔性」
この二曲はラブソングであり、その意味で歌詞に関してはそれほどアンジュルムが歌う必然性のない曲である。アンジュルムはあくまで「プロ」として作中の主人公を演じているだけであり、アンジュルムのパブリックイメージとはあまり関係がない。

⑶「愛されルートA or B?」「ハデにやっちゃいな!」
この二曲のメッセージ性は「はっきりしようぜ」に近い。ただ、歌の主人公はアンジュルムのパブリックイメージとは程遠い、自己肯定感の低い「普通の女子」である。「愛されルートA or B?」の方ではその自己肯定感の低さがもろに出ているし、一見「はっきりしようぜ」に近く見える「ハデにやっちゃいな!」の方も、己の自己肯定感の低さを何とか頑張って鼓舞しようとしている様が其処彼処に現れている。

さて、そう考えるとここ二年間のアンジュルム曲は、常に一曲は「アンジュルムらしく」、一曲は「アンジュルムらしくなく」、もう一曲は内容において「アンジュルムらしい」が、キャラクターにおいては「アンジュルムらしくない」。つまり「アンジュルムらしさ」と「アンジュルムらしくなさ」が「1.5対1.5」のちょうど半々という割合で推移してきたことになる。自分はこの場合の「アンジュルムらしさ」を「リーディング」「アンジュルムらしくなさ」を「ペーシング」というセラピー用語で定義したいと思う。

「リーディング」とは、セラピストがクライアントに対し望ましい方向へと引っ張る形の働きかけである。たとえば自己肯定感の低い女子に対し「アンジュルムらしい」メッセージをストレートにぶつけることは「リーディング」である。ところがそのやり方があまりにストレートだと、クライアントには抵抗が生まれることが多い。なのでまずはクライアントの自己肯定感の低さを受容し、彼ら彼女たちに寄り添ってあげることが「ペーシング」だ。アンジュルムの曲中に「アンジュルムらしくない」キャラクターが出てくるのは「ペーシング」なのである。

さて、そこに持ってきての今回のシングルである。この中でおそらく「Piece of Peace」は「べきべき」に通ずるような、「アンジュルムらしい」メッセージソングなのではないか、という気がしている。一方の「悔しいわ」は、確かに「アンジュルムらしく」はない。嫉妬に狂う主人公像はどう考えてもアンジュルムのパブリックイメージとはかけ離れているし、「嫉妬をバネに逆襲してやるぜ!」みたいな話にしても、そこで想定されているゲームがあまりに古色蒼然としていて、実はそのメッセージ性においても「アンジュルムらしく」ない。もっとも今回はトリプルA面シングルではなくダブルA面シングルなのだから、リーディングとペーシングの構成比は相変わらず変わりはない。しかし「悔しいわ」は果たして純然たる「ペーシング」なのだろうか? 自分はMVを一見して思ったことは少し違った。

「悔しいわ」は「アイロニー」である。

中島卓偉はアイロニーを多用する作家である。「大器晩成」がダブルミーニングになっているという話は別記事でも論じたし、°C-uteの「次の角を曲がれ」は疾走感溢れる曲調に乗せて現状離脱のススメを歌っている。またJuice=Juiceの「ポツリと」では、何も起こらない片思いの歌詞をよそに、曲は終盤に向け無駄に壮大に盛り上がっていく。メッセージとメタメッセージが乖離した作詞作曲を得意とするのだ。今回はメッセージもキャラクターも「アンジュルムらしく」ない。だが、そのパフォーマンスぶりはここ2年でも類を見ないほど「アンジュルムらしい」エネルギーに満ち溢れている。すなわち「悔しいわ」とは、現状追認的な小物女子の物語を、現状突破的なアンジュルムが力強く演じきるというアイロニーなのだ。

中島卓偉、あるいはブレインであるたいせいが、何故この曲をアンジュルムに当てがおうとしたのかを論じるのは、現時点では邪推にしかならないので差し控える。ただ、純粋にセラピー上このアイロニーがどういう機能を果たすかということは明白である。それは「治療的ダブルバインド」だ。

「治療的ダブルバインド」とは、セラピストがあえて「望ましくない方向」へとクライアントを力強くリーディングする方法論である。ただのリーディングではクライアントは激しく抵抗するし、逆にペーシングばかりしていてもクライアントは一向に「望ましい方向」へは向かわない。しかし「望ましくない方向」にクライアントをリーディングすると、彼ら彼女はそれを「望ましくない」ということは理解しているから激しく抵抗する。しかし抵抗するということは、逆に自ら「望ましい」方向へと向かわざるを得なくなるのだ。具体例としては過去に自分が関わったケースについて、下記の連続ツイートを参照されたい。

たとえば「悔しいわ」の歌詞に違和感や反発を覚えている人というのは、おそらく意識レベルでは「アンジュルムらしい」価値観に同調しながらも、無意識レベルでは「アンジュルムらしくない」価値観を克服しきれていない人なのではないかと思う(そもそもここまで激しく失望している時点でアンジュルムへの依存が著しいのだから、全く「自立した女性」などとは言い難いだろう)。「悔しいわ」とは、こういう人に向かってアンジュルムが力強く「望ましくない方」へとリーディングする曲である。それは失望し、反発を覚えるであろう。ひょっとしたらこれでアンジュルムから離れるかもしれない。だが、セラピー的にはそれで正解なのである。何故なら彼女たちは依存対象であるアンジュルムから自立し、正反対の「望ましい方向」へと”自分の意思で”向かうからだ。

そんなわけで「悔しいわ」は、アンジュルムが決して「死火山」ではなく、それどころか実は「休火山」ですらなく、相変わらず「活火山」であることをはっきり示してくれた。そしてこの曲が持つ強烈なアイロニーとエネルギーは、久々に「広い小乗」的射程を備えたものだと自分は感じる。

一つ言えるのは今回の「悔しいわ」で描かれている「望ましくない状況」には、①嫉妬心という個人的感情と、②家父長制的新自由主義という社会状況への追認、の部分があるということだ。今回も様々議論が出てきているが、その中では①を重視する人と②を重視する人、①と②を峻別しきれていない人などが錯綜しているように思える。

通常社会状況への追認を前提の上で成立するのがセラピーなので、「悔しいわ」が単に「治療的ダブルバインド」だとすれば、①だけが問題になるはずだ。しかしこの曲はかつて「就活センセーション」を手がけたパンクロッカー中島卓偉の手によるものである。「旦那」「寿退社」「一生安泰」「陰キャ」などの家父長制的新自由主義の語彙を偽悪的に用い、それがアンジュルムの生体エネルギーによって伝播されるとすれば、当然②への批評性が含まれてくると考えた方が良いだろう。ここまで来ると「悔しいわ」は、単なる「セラピー」の範疇を超える。やはり革命軍アンジュルムの新たなアンセムであると考えた方が良いのだ。仮にこの曲の「治療的ダブルバインド」によっていくばくかのヲタクが去っていったとしても、またこの世界の思いもよらぬ何処かから、新しく「アンジュルムサイコー!」と連呼しながら革命軍に馳せ参ずる頭のおかしい人々が現れることを、自分は楽しみにしている。

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