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「民主主義の危機」という言葉が何故おかしいのか

今日は特に余計なことを書かず、いきなり本題に入る。「民主主義の危機」という言葉が、何故おかしいのか。結論から言えば、この言葉は二重の意味でおかしい

まず、「democracy」という言葉は「主義(ism)」ではない。日本語に訳すならば「民主政体」と訳すのが正しい。そして「民主政体」とは、「その居住民全員に政治参加の機会が与えられているような政治体のあり方」と定義することができる。

次に、「代議士が射殺されること」が「民主政体の危機」なのかと言えば、そうではない。というのは、選挙民の投票行動は一切脅かされていないからだ。これがたとえば投票所にテロ行為が仕掛けられる、ということであれば話は別であるが、代議士が一人いなくなったところでその選挙区では補選が行われ、選挙民は引き続き政治参加の権利を行使できるわけである。

もちろん、たとえば特定の政治主張を持つ政治家ばかりに対して何らかのテロ行為が繰り返されるようなケースでは、それを恐れて新しい政治家が立候補を躊躇し、彼ら彼女らが代表するはずであった選挙民が政治参加から遠ざかってしまうこともありうる。これは明確に「民主政体の危機」であろう。しかし今回のケースでは、犯人が「安倍元首相の政治的主張には不満がない」ということをわざわざ述べている。彼の動機が何なのかは未だ完全に確定していないものの、少なくとも彼が「安倍氏と同じ政治的主張を持つ他の政治家」を攻撃するつもりがなかったことだけは明らかなのである。安倍氏と同じ主張を持つ政治家も、それを支持する選挙民も、今後の政治参加において恐れることは何もないのである。

にもかかわらず、何故「民主主義の危機」などという言葉が叫ばれてしまうのか。おそらく理由は二つあって、一つは「democracy」などという言葉に関してまともにものを考えたことのない人々が政治参加を果たしているからである。そしてもう一つは、そうした人々の無知・無能・傲岸・怠惰につけ込む形で、安倍氏に反対する政治的主張の人々を何としてでも「民主主義の敵」ポジションに追い込もうとしている人々がいる、ということだろう。

こうした方法を「ポピュリズム」というのだろうが、世の中にはその手のやり口を指して「民主主義の危機」呼ばわりする人々というのもいて、やはり首を傾げてしまう。例によって「democracy=民主政体」であることを分かっているのか、という話であり、おそらく分かっていないからこそそういうことを言ってしまうのだろう。民主政体とは単に「その居住民全員に政治参加の機会が与えられているような政治体のあり方」を指す言葉なのだから、民主政体においては、いかに無知・無能・傲岸・怠惰な人間であろうとも政治参加の権利を行使できるのである。だとすれば「ポピュリズム」とか「多数者の専制」といったことどもは、「民主主義の危機」というよりは「民主政体のもたらす危機」と言った方が正しい。居住民全員に政治参加の機会が機会が与えられているからと言って、居住民全員に十分な福祉が与えられるとは限らないのである。

さて、「居住民全員に十分な福祉が与えられることを目指すような政治体のあり方」を指す言葉は、「democracy」とは別に存在する。それが「republic」である。「republic」は「democracy」と同一視されたり、あるいは「王のいない政治体のあり方」を指す言葉として「共和政」と訳されることが多いのだが、実は元々その辺りには全く無頓着な言葉である。たとえば普通に考えてみて、世の中のどの政治的陣営にも、自分たちのことしか考えられない無知・無能・傲岸・怠惰な人間が必ず一定数存在するとすれば、いっそそういう人たちの参政権を剥奪する、つまり「民主政体」を放棄してしまった方がいいのかもしれない。そして、自分とは異なった立場の人間との落とし所を探ることのできる、無知・無能・傲岸・怠惰ではない人々だけに政治を任せてしまった方が「republic」を実現しうるのかもしれないのである。あるいは、ものすごく人格的も能力的にも優れた君主がいるとすれば、その人が持っている権威とか権力とかを活かしてトップダウンで物事を決めてもらうのがよい、という話にもなりうるのだ。

さて、特にこのnoteのメイン読者層であろうアンジュルムのファン層はこの辺りの話に興味のある人が多そうなので、「#アンジュルム図書館」二つほど書籍を紹介しておく。一つは最近出版されたヨーロッパ史の学術書で、王のいる共和政 ジャコバン再考』(中澤達哉編著 岩波書店)というものである。この本を読むと、「republic」という言葉が初めて欧米を席巻した18世紀後半、すなわちアメリカ革命からフランス革命の時期において、それは決して「民主政体」と同義ではなく、必ずしも「君主政体」を排除するものではないことがよくわかるだろう。

そしてもう一つは、既に「#アンジュルム図書館」でも紹介したBASARA』(田村由美 フラワーコミックス)という漫画である。これは暴君が支配する未来の日本を舞台にした革命戦記で、いかに「republic」と「democracy」が本来重なり得ないものであったとしても、何とか両者を一致させようと、すなわち無知・無能・傲岸・怠惰な人々を有徳の市民として覚醒させようと奮闘する人々の物語である。今回の記事のバナーもそうした奮闘の一シーンを使わせていただいたが、実はここで演説している男は、日本を統治している王であり、王その人が己が臣民にrepublicの市民たれと革命を呼びかけているのである。これを「王のいる共和政」と呼ぶのかどうかはさておくとして、この王、通り名を「赤の王」と言い、その名を「朱里」と言う。赤はアンジュルム初代リーダーの色であり、その名はアンジュルム2代目リーダーにとてもよく似ている。

世の中には「和田彩花は個人の自由を尊重すると言いながら、自分の意見をメンバーに押し付けていた」などと主張する人たちがいるが、おそらく彼ら彼女らには、こうした「革命を呼びかける王」という逆説が理解できないのだろう。もっとも彼ら彼女らがいかに無知・無能・傲岸・怠惰であろうとも今さら絶望することはない。自分は元よりrepublicとdemocracyを一致させようなどということを思っていないからである。ただし、両者を一致させようと奮闘している人々、すなわち全ての人々の可能性を信じ、彼ら彼女らをしてrepublicの有徳の市民たらしめようとしている人々に対しては、心よりリスペクトを払いたい。何故ならば、自分とは考えの違う人間を尊重することこそが、republicの有徳の市民たる資格だからである。

追記

「居住民全員に十分な福祉が与えられることを目指すような政治体のあり方」のことを便宜上英語で「republic」と書いたが、実際にこの意味でよく用いられるのはフランス語(republique)」の方で、英語では「commonwealth」の語が用いられることの方が多い。

「republic」の語源は元々ラテン語の「res publica」である。分節化すれば「公共的(public)なもの(res)ということになるが、日本では「公」という言葉が国家権力を意味するものになってしまい、「居住民全体の」というニュアンスがかなり弱化されてしまうため、「居住民全員に利益をもたらすもの」という意味では、「common(共有)のwealth(財産)」の方が腑に落ちやすいかもしれない。

その意味では、「republic/commonwealth」が明確に「善き価値」を体現するものであるのに対し、「democracy」はあくまで政体の形だけを指す価値中立的な言葉であり、それが善きものに転ぶか悪しきものに転ぶかは、言葉の中には含まれていない。同じように価値中立的な言葉には「aristocracy(貴族政体=世襲の貴族身分が存在する政体)」と「monarchy (君主政体=世襲の君主が存在する政体)」がある。本文では「democracyのもたらす危機」について触れたが、aristocracyやmonarchyがもたらす弊害も歴史上数限りなくあるわけで、どの政体も一長一短、「republic/commonwealth」を実現する手段の一つとして、本来は状況依存的に使いこなしていくべきものなのである。「republic/commonwealth」ではなく「democracy」を目的的な至上価値としてしまうと、「democracy」の一つの帰結であるポピュリストの掲げる「民意」に足元をすくわれてしまう。必ずしも反「democracy」である必要はないが、「republic/commonwealth」を実現するためにはいつでも「democracy」を放棄できるフリーハンドは持っておいた方がよいと思う。

ちなみに「republic/commonweath」の対義語としては「oligarchy(寡頭政体)=少数の有力者だけを利する政体」と「autocracy(専制政体)=単一の有力者(ないし政党)だけを利する政体」がある。この二つは明らかに「悪しき価値」を体現するものであり、近年の国際ニュースにも頻繁に登場する言葉でもある。たとえばロシアの有力新興財閥を指す「オリガルヒ」は「oligarchy」のロシア語形であるし、ジョー・バイデンが繰り返し強調する「民主主義対権威主義」という構図は、元はといえば「democracy vs. autocracy」なのであるから、これまた「二重に間違っている」話である。すなわち正確に訳すならば「民主政体 vs. 専制政体」が正しく(「権威主義」に対応する言葉としては「authoritarianism」という英語もある)、また価値中立的な「democracy」と「悪しき価値」を体現する「autocracy」が対義語になるというのも、本来おかしい話なのだ。

そんなわけで、republic/commonwealth とdemocracyを混同して価値紊乱を招いているのは何も日本人に限ったことではなく、20世紀以降の欧米人に幅広く見られる現象である。であるなら、あまり出羽守ばかりやっていても仕方がないというわけで、改めて東洋人の語彙を用いるならば、「oligarchy」や「autocracy」を指す言葉に「君側の奸」という言葉もある。そして「oligarchy」や「autocracy」が、時に「民意」によって支えられてしまうということを示す故事も存在する。中国史最大の「君測の奸」たる宦官趙高が「これは馬だ」と指さした鹿を見て、彼の威信を恐れた居並ぶ群臣は口々に「これは馬です」と言い立てたというあれだ。もっともそのような「民意」に対してはdemocracy批判を持ち出すまでもない。単に「馬鹿」と一喝すればよいだけの話なのである。

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