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お茶代八月課題【心震える一冊】

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でもこれが初めてじゃないわ
いろいろ終わらせてきたじゃないの 肛門期だとか 幼女期だとか
ああ でも……早く…

岡崎京子『ヘルタースケルター』祥伝社

 2010年代の前半だったと思う。とりあえず私は20代だった。読むことを勧めてきたのは友人と、その母上だった。二人とも編集の仕事をしている人で「あなたは絶対『ヘルタースケルター』を読んだ方がいい」と。当時名前だけは知っていたし、なんというか、90年代後半のごちゃごちゃとした物質的な乱立や巨大な焦燥感みたいなものに対して、郷愁とも憧憬とも憎しみともとれるような共感を抱き続けている私にとっては「いずれ読むだろう」という感覚があったので抵抗なく読むことができた。
 一読して、数週間から数か月開けてまた読み返す、そんなことを繰り返した。
『ヘルタースケルター』に対して、読んだ皆さんはどんな感想、考えを抱くだろうか。この物語の主軸は一体何だと考えるだろうか。
『ヘルタースケルター』の主人公「りりこ」はテレビや雑誌で大活躍中のモデルで、映画出演やCDリリースも決まっている売れっ子。類まれなる美しさを持ち、大金持ちの恋人や宝石に囲まれた生活を送っている。売り込みのためにはプロデューサーとセックスもするし睡眠時間はロクにない。日本で最も消費されているもののひとつが「りりこ」だ。そんなりりこの類まれな美しさの秘訣は、非合法な全身整形手術とその後遺症を抑えるための非合法な治療。物語は、りりこが自身の美しさを失ってしまうのではないか、という恐怖から始まる。
 物語の中では繰り返し、りりこの外の世界の声が入ってくる。そのほとんどは渋谷や新宿にあつまる若者のものだ。その声はものすごいスピードでりりこを消費する。物語が進むにつれ崩れていくりりこだが、それらの声はりりこのリアルタイム実況のようになっていく。
「りりこスタイルいいよね」「痩せたい」「モテたい」「りりこ使えばいいってもんじゃないよね」「お金持ちになっていい暮らししたい」「アレ欲しい」「アレ超可愛いよね」「そーいえばりりこってもうやばめだよねえ」「アレいいよね」
 20代の頃に『ヘルタースケルター』を読んだときは、崩壊していく自我と立ち続ける自我のせめぎあいだとか、何を得ても埋めることのできない孤独や寂寥だとか、そういうものを肌感覚で私は受け取っていたように思う。おそらくそれは、20代の私にとって目の前に迫っている危機や課題で、私はある程度そのことを理解していたからだ。
 外部から定義される自分の姿と、自分自身が描いている自分の姿の乖離、いや、そもそもりりこは自分自身に対して「自分自身の像」を結べていない。だからこそ外部から定義される自分の姿、外部から望まれる姿を作り上げようとしていく。雑誌のインタビューやテレビ出演の際には、りりこが想定する「みなさん」のりりこを提供する。けれどこれは演じているものとは少し違うと私は思う。どちらかと言えば、それしかないという袋小路。恐らくは、りりこ自身が自分の像をうまく結べないがために、外部からの情報を再構築して提供しているのではないか。

ひとりでいると/おしつぶされそうに/なっちゃうの
ひとりでいると/よくわかんなく/なっちゃうの
ひとりでいると/ワケわかんなく/なっちゃうの
頭の中に「それ」が/生まれて「それ」が
どんどんおおきく/なって
しまいにゃ/そいつに食べられ/ちゃうのよ

岡崎京子『ヘルタースケルター』祥伝社


 得体のしれない「それ」。もしかしたらとっくに「それ」の正体はわかっているのかもしれない、わかっている気がするのにあまりにも近いところにあるものだから、結局「それ」はわらない。ワケわかんなく、なっちゃうから。
 私が20代に抱えていた正体のわからない巨大な焦燥感は、今は6畳間くらいの広さになら収容できるものになった。おおよそ、『ヘルタースケルター』を初めて読んだときに抱えていた問題は、完全に解消されたわけではないにしろ、当時のように逼迫した状況ではなくなっていた。
 つい先日、改めて『ヘルタースケルター』を読み返した。なんの作為もなく「しばらく読み返していないな」くらいの気持ちで。
 その時に少し驚いた。20代のころあんなに繰り返し読んだのにもかかわらず、当時は読み込まなかったことを認識したのだ。
 これは、母親から逃れたい娘の物語だ。
 りりこは自分が所属するモデル事務所の社長のことを「ママ」と呼ぶ。ママは、故郷から家出して東京に出てきて右も左もわからないまま風俗に売られたりりこを見出し、肥満体だったりりこを痩せさせ、整形手術を受けさせ、モデルとしてデビューさせる。
 そうしてできあがった類まれなる美しい娘は、実はママの若いころにそっくりの顔だったのだ。
 ママは、仕事を勝ち取るために誰と寝ればいいかの指示をりりこに細かく行い、整形手術の後遺症のメンテナンスにも連れていく。りりこは、わがままでいるようで結局、ママの言うことを何でも聞いてしまう。妹に送っていたと思っていたお金が実は送られていなかったとわかった時、百貨店経営者の御曹司と結局結婚なんてできずに愛人のままだと知った時、りりこはママのくびきから逃れたい逃れたいと足掻くのだが、かなわない。
 りりこに襲い来る痛み、それは整形手術の後遺症と、それをカバーするための治療と、さらにその治療による副作用と、キリがない。その痛みにのたうち回りながら結局、りりこはママを呼ぶしかない。「ママ、いだい、いだいよう」と深夜にりりこは叫ぶ。
 そんなりりこを抱きしめながらママは独白する

おまえはとてもみじめで貧しくみにくかったがこんな痛みは知らなかっただろう…こんな類の涙は流さなかっただろう…

岡崎京子『ヘルタースケルター』祥伝社

 つまりりりこにとってはもう、「美しい」ということは最大の呪い、枷なのだ。この美しさから逃れない限りは「ママ」から逃れることはできない。
 以上に私が読み取ったものは決して突飛な感想ではないと思うし、別にうんと深く読み取ろうとせずとも、読み取ることのできるはずのものというか、作中であからさまに描いたことだと今の私は思っている。
 ではなぜ、初めて読んでから夢中になって繰り返し読んでいたあの20代の頃に私は、「『ヘルタースケルター』は母親から逃れたい娘の物語だ」と読まなかったのか。恐らく私は、心の芯というか、明確に意識しないでいる場所において「母親から逃れたい娘の物語」を読み取っていたのだと思う。と同時に「母親から逃れたい娘の物語」として認識することを拒む意識もどこかにあったのだと思う。
『ヘルタースケルター』を初めて読んだころの私は、母親から逃れたいと思いながら、逃れたいと思うことを自分に許していない、もしくは、逃れたいということに気づかぬふりをしていた時期だった。私が潜在的に抱えていたものを『ヘルタースケルター』は明示していたわけだ。だからこそ私は一読した後も何度も読んだのだと思う。自分の中にある「なにか」をずっと引っ搔いていた物語だ。同時に、気づくまでにかなりの年数を要したことに少し背中の寒い思いをしている。今の私からしてみればこんなにわかりやすく明示されたものであっても、時が違えば私はそれを読み取らなかった。見えているのに、見過ごしていたわけだ。
 同時に、私自身というものも知らないうちに変わっていっているということを知る。自分自身が変わっていくと、同じ物語を読んでも全く同じ物語のようには読み込まない。物語は完成品だというけれど、こうして時がたって受け取るものが変わっていくと、物語自身も生きているものだと、そんなことを考える。

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