柿ジャックの「ビクターフランケンシュタインの実験日誌~!」のセリフがドラえもん風味である理由を考えてみた

0. フランケンにハマりすぎて 

ミュージカルフランケンシュタイン、2020年再演が初見だったのですが見事にハマってしまいました(初演時は、姑からの「話が暗くって、重くって。おすすめできない、私は二度と見ない。」という感想を真に受けて食わず嫌いで見ずじまいだったのを超絶後悔しております。)。

今般Twitterで、カッキーのジャックがドラえもんのモノマネだったというコメントを見かけ(私は、カッキーで複数回みましたが観劇時にはドラえもんを連想しなかったので、どこのことを指しているのかすぐわからなかったのですが、おそらくは標記のセリフだろうと推測し、それを前提に)、フランケンロスの中であーでもないこーでもないとつらつらと考えているうちに、「閃いた!」と思ってしまい、どうしても文章を残しておきたくなってしまいました。そのためだけについ今しがたNOTEデビュー。

以下、長文かつ駄文です。こういうものを投稿するのは生まれてはじめてなので、不備や粗相があることと思いますが、みなさま、罪のない妄想と思召して、何卒ご寛恕下さい(この界隈に生息している方々は多かれ少なかれロラン・バルト的思想の持ち主に違いないと信じております。)。

1. 繰り返される入れ子構造の物語

考察のポイントとなるのはフランケンシュタインにおける「入れ子(=作中作)構造」の多用である。
本作においては、以下のとおり、複数の物語が入れ子となった構造を読み取ることができる。

まず、最も目立つ大掛かりなものは、もちろん2幕コロッセウムのシーン。
このシーンは、仮に登場人物をほかの役者が演じていれば、メインの物語の中に、怪物の物語る「人間どものおぞましい"話"」「味わった地獄と、流し続けた血と涙の"話"」とがシンプルに入れ子になったものだと理解できる。
ところが本作では、これを同じ役者が二役として演じている。これによって、ビクターのいる世界とジャックのいる世界は、両立し得ないパラレルワールドの様相を呈し、単なる回想の物語であることを超えて、ビクター世界とジャック世界が、相互に入れ子構造を構成していると見ることが可能となっている(なお、この2つの世界の関係については様々な考察がなされているところであり、定見を持たないが、個人的に特に気になるのは、ステファノ市長の殺害に関し、わざわざ、状況説明に必須とは思えない「お腹を」刺されたという台詞が存在するところである。この一語によって、エヴァがフェルナンドを刺したこととエレンが処刑されることの間に何らかの因果があることが示されているように思う。)。

次に、エレンの「孤独な少年の"物語"」(と、「その日に私が」)も、回想の物語が入れ子となっている。
(なお、この回想の物語の語り手は、「孤独な少年の物語」においてはエレンであるが、「その日に私が」ではビクターであると思われる。リトルジュリアの「必ず帰って結婚してね」という呼びかけに対するビクターの返事が異なっていることに加え、留学に際して、前者ではエレンが「これ以上問題を起こさないで」というのに対し、後者では、「私がぎゅっとしてあげるから」となっていることも、両者の視座の違いを示唆していると見ることができる。)

そして、怪物が少年にしてあげる「"お話"」。ここでもビクターは「お話の中の人物」として登場する(韓国版の演出では、ここに幻想のリトルビクターが登場するとのことであり、そうなると更にもう一つの入れ子構造が顕れることになる。)。

以上に加え、本作における最大・最重要のガジェットとしては、「ビクターフランケンシュタインの実験日誌」が挙げられると思う。
「実験日誌」は表面的には「物語・お話」の名を付されてはいないが、ジャックの読み上げるセリフからして、「ビクターの手記」に近いトーンで書かれたものであり、作中作と位置づけて良いと考えられる。そして、1幕ラストの「恐怖は胸深く沈めて…♫」のところでビクターが日誌に書き込みを行っていることと、ジャックの読み上げからして、その「手記」は、その始期は不確かながらも、アンリの首を用いた人体接合に至るまでのビクターの実験の歴史が記録された、ほぼ1幕の内容をなぞるもの("少なくとも"1幕の内容は含んだもの)だと推測することができ、ここにも、もう一つの入れ子構造を見ることができる。

これを換言すれば、コロッセウムのシーンに関しては、ビクター世界にジャック世界の物語が内包されるというだけでなく、ジャック世界に「ビクターフランケンシュタインの実験日誌」というビクター世界の物語が内包されるということになり、両者は双方向の、なんというかクラインの壺的な関係に立つと言い得るのである。

(なお、本作においては別の切り口として「夢」ないし「夢の中で生きること」への言及があり(ルンゲ「坊っちゃんには夢がある」、アンリ「君の夢の中で」、怪物「夢の続きを生きてみたい」、ほか?)、直接、筋立てに夢の中の世界が登場する訳ではないものの、これも「主軸となる世界とは異なるもう一つの世界」を示していると読むことができるように思う。)

2. 額縁と薔薇

他方、舞台装置との関連においては、「額縁」のモチーフが用いられている点にも、本作における作中作構造の示唆があると考えられる(韓国版には額縁はないとのこと?)。下手側の上から吊られた「額縁」(の一部)は、観客と舞台とのレイヤーは緞帳一枚ではなく、舞台内部に更に複数の奥行きがあることを(もっと言えば、その「額縁」の四辺が閉じていないことは、額縁内と外の世界の境目が不完全であることをも)示しているのではないか。

更に、今回の舞台では、上手と下手の袖近く、ぎりぎり客席寄り(緞帳と袖幕との間くらい?)に、それぞれ薔薇が設えてあり、カテコの際くらいしか光があたらないように見える(「平和の時代」でも照明当たっていたかも…観劇当時は何も考えていなかったので記憶がないです。。)。これを、「額縁の外」の薔薇と捉えると、そこにも作中作の構造を見出すことができる。
(ちなみに、舞台上の薔薇が、亡くなった、ビクターにとって大切な人の象徴だとすると、あの上手と下手の薔薇は何なのか?…観劇当時は何も考えていなかったので何回も見たのに薔薇の数も数えていない・汗。誰か教えて下さい。)

3. もとにもどって

以上を踏まえると、「ビクターフランケンシュタインの実験日誌」は、単に怪物(アンリ)に過去経緯や文字・文章を伝えるためだけのガジェットではなく、作中における世界の階層を行き来する道具としての意味を併せ持つと言えるのではないか。
すなわち、コロッセウムを並行世界とすると、その場においてジャックがビクターの「実験日誌」を読む行為は、入れ子の内外を出入りしていることにほかならないということになる。

ここから、カッキーは(すみません、ここまで書いていてアレですが、アッキーのジャック見れておらず…)、「実験日誌」に、時空を超えた移動を可能にする「どこでもドア~!」のイメージを重ね、その結果、あのようなドラえもん風味の言いぶりになったのではないか!!(ばばーん!!!)

……………
なーんて。
ちょっと、、かなり、、、、飛躍がありますが。。(そもそもドラえもんという前提が違っている可能性も高い。)

ただ、上記入れ子構造に関しては、その反復によってある種の酩酊感が生まれ、我々がフランケン中毒に陥る原因の一つとなっているのではないか、ということは強く思います。

メアリー・シェリーの原作(すみません現状未読・汗)も作中作の形式であることを踏まえると、「ビクターフランケンシュタインの実験日誌」には、もっと大きな秘密が潜んでいる匂いがするので、更に考察してみたいです。

青空文庫に原作が上がっているのでリンクしておきます(未読ですが)。

フランケンシュタイン FRANKENSTEIN, OR THE MODERN PROMETHEUS
マリー・ウォルストンクラフト・シェリー Mary Wallstoncraft Shelley
宍戸儀一訳






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