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またまた幸せになるための「重要度を下げる」について

先日書いたこの記事に関連する内容です。

今ここで幸せになるには
「幸せの基準を下げる」ことと
「重要度を下げる」ことが大切になってくると書いた。

「重要度を下げる」とはどういうことかな?

さて。

先日は、わたしたちの結婚記念日だった。

若いころのわたしといったら。。。
結婚記念日は、わたしの誕生日とクリスマスと並んで一大行事だった!(わたしの中で)

夫は何かお祝いしてくれるかな?
わたしの好きなものを事前にリサーチしておいて、当日、リボンのかかった素敵なプレゼントをくれるかな?
それとも、花束を抱えて帰宅するかな?
急に、「今日出て来れる?」と電話が来て、出かけていくと、素敵なディナーを予約してくれてたりして。

記念日の1ヶ月くら位前から、そんな妄想でワクワクしていた。
ああかな?こうかな?と妄想している時、わたしはすっかりその妄想の中にはまりこんでしあわせだった。

かといって、わたしから
「もうすぐ結婚記念日だね」などと夫にいうことはなかったし、
ましてや、
「お誕生日には新しいバッグが欲しいな」などということはぜったいなかった。

自分からプレゼントの要求をするなんて、なんだか浅ましい感じがしていたし、
何より、まず夫が記念日を覚えていてくれないと嫌だったのだ。

1ヶ月間妄想を続けながらしあわせに浸っていた。

だがしかし。

当日がやってくると、
わたしが想像していたようなことは何も起こらなかった。

わたしはものすごくがっかりして、
それから3ヶ月くらい不機嫌になった。(夫はどうしてわたしが不機嫌なのか想像さえできなかったと思う)

そんなことが10年くらい続いて、
ようやくわたしは悟ることになる。

わたしの夫は、
映画に出てくるようなクールガイじゃなかった。
昭和のオヤジだった。と。

それからは、

記念日の前には、わたしの欲しいものをちゃんと伝えるようにした。

そうすると、夫はわたしの欲しいものを買ってくれたり、
いっしょにディナーに行ってくれたりするようになった。

でもでも。

なんだか、わたしは満足できなかった。

わたしの思ってるのとなんか違う!
なんとなくやらされている感がかんじられたし、
ちょっとめんどくさ感も垣間見える気がした。

この頃になっても、わたしは、夫のわたしに対する愛情のバロメーターとして、
わたしが何も言わなくても、
夫は記念日を覚えてくれていて、
わたしにプレゼントを用意してくれる、
という思いを抱き締めていたからだ。

言われたことをそのままにしてもらっても、それはわたしの思う愛情の表し方とは違っていた。

そんなわたしも、少しずつ大人になる。
(年は充分大人だが)

いろいろな経験を通して、本当のしあわせというものが何か?ということが少しずつわかってきた。

それとともに、
「こうでなくちゃ」と握りしめていたことを少しずつ手放すことができてきた。

「こうでなくちゃ」を手放して、
しあわせに対する重要度を下げていく。


さて。
今年もわたしたちの結婚記念日がやってきた。

昨年の11月に夫は大きな手術を受けた。
その時、わたしにできることは何もなく、
病院の待合室で、
ただただ震えながら、どうか彼が生きていますように、と祈ることしかできなかった。
彼の命があればあとは何もいらないと思った。

あの時から、しあわせに対するわたしの重要度はグッと下がってきている。

結婚記念日当日、
夫は仕事だったし、わたしも忙しかったので、特に何もイベントのようなことはしなかった。

いつもどおりの晩ごはんをつくってふたりで食べた。

その日の献立は
タラのホイル焼き
ブロッコリー
高野豆腐
冷やっこ
みそ汁(豆腐、ワカメ)
以上である。
豆腐率が異常に高い。笑

いつもの献立だけど、
おいしいねと言いながら、おいしく食べた!

ようやくわかってきた。

今年もこうやって
何事もなく
ふたりで記念日を迎えられること、
ごはんがおいしく食べられること。
それこそがいちばんのしあわせなのだと。

しあわせの重要度を下げると、
いつもどおりの暮らしがしあわせいっぱいの光景に見えてくる。

あ!
そうそう!
この日は友だちに誘われて、バッグの展示即売会に行って、かわいいバッグを買ってきたんだった!

欲しいものは自分で買う!
わざわざ夫に買ってもらうことをしなくても、わたしが気に入ったバッグを買えばすぐにしあわせになれる。

さて。

その翌日、
バッグの展示即売会に誘ってくれた友だちが、
ふいにうちまでやってきて、
とても素敵なバラをたくさんくれた!
波動バラという特別なバラ。

その日、彼女は、
そのバラを買いに行って、
その時にわたしのことを思い出してくれて、
わたしの分まで買ってくれ、
その足でわざわざわたしに手渡すためにうちまで来てくれたのだ。

なんとありがたくしあわせなことだろう!!!

以前のわたしはそれを夫に求めていた。
でも彼はそんなタマじゃない。
それなのにそれを求めて、
叶えられず、わたしは勝手に不機嫌になっていた。

今年は花をもらおうなんてぜんぜん思ってなかったから、
そのバラは宇宙からのギフトのように思えた!

そして、
その翌日、
夫がランチのお店を予約してくれた。

結婚記念日に、
いつもの晩ごはんを楽しく食べながら、
「あ、そういえばたまにはごじゃれたお店にも行きたいね」と何気なく(本当に何気なく)わたしが言ったのを、彼は覚えていて、
その夜、わたしが寝てからもお店を検索していたらしい。

久しぶりのイタリアンは、
こじんまりとしたとても落ち着けるお店で、
そのおもてなしと料理に、わたしたちはとても満足した。

この日は、
彼が、わたしが喜ぶ料理を出してくれるお店を探してくれたんだなぁということがとても伝わってきて、
とても嬉しかったし、
わたしがとても喜んだので、彼もとても嬉しそうだった。

しあわせの重要度を下げていくと、こんなご褒美がやってくる。

しあわせの重要度を下げるというのは、今の状態でよしとすることではない。
今の状態のしあわせに気づくこと。
何も特別なことは起こらない普通の暮らしこそがしあわせなんだと気づくこと。

そうすると、
なぜか、ご褒美のようなことがやってくる!

これが人生のパラドックスなんだな。

追いかけて追いかけて、追い続けていたものを手放したとき、それは向こうからやってくる!

※ うまくまとまりませんでしたが、これも覚書としてアップしておきます。

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