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終点

先日、約三年の闘病生活の末、祖母が亡くなった。

12月1日 午前4時30分ごろの話。
熟睡していた私は突然当たりが明るくなったのに驚いたが、それと同時に父の声が響き渡った。

「起きて!ばあさんやばいってよ!!」

まだ目が覚めきっていない私は状況が把握できていないうちにパジャマの上からダウンを羽織り準備をした。段々と目と脳が覚めてきて、胸が嫌な音を立てる。後から眠そうな目をした弟が私と同じような格好をして部屋から出てきた。母もリビングから降りてきてみんなで車に乗り込んだ。外は土砂降り。嫌な予感がした。辺りはまだ暗く、信号や街灯の灯りがやけに明るい。家から祖父母の家までの距離はそんなに長くないのにやけに長く感じた。
早く早く、大丈夫大丈夫。きっと何かの勘違いだ。あの団地の階段を登ってドアを開けたらソファに寝転がりながら、いつものようによくきたねと笑って言ってくれるはずと。
祖父母の家の駐車場に車を停めるなり車から飛び出した。雨なんか気にもせず走った。きっと誰よりも早かったはず。祖父母の団地に近づくにつれて涙が止まらなくなった。まだ亡くなったかもわからないのに。階段にある水たまりでズボンの裾が汚れようと構わずに走った。朝早いのにも関わらず勢いよくドアを開けた。すぐに寝室を見た。

ベッドの横の椅子に座った祖父は祖母の手を握っていた。そしてこちらを見ると泣きそうな顔で「まだあったかいんだ。」そういった。その光景を見て私の頭の中は真っ白になった。
私の後からきた弟と母、父もそれを見て何も言えなかった。
祖父が祖母の手や足を撫でながら言った。
「いつもは30分おきに起きて、酸素の管が外れてないか見るんだけど、今日だけはなんだか俺も寝ちゃってさ。ごめんな、ばあさん。」
祖父は長年の仕事で男らしくなった浅黒い腕で涙を拭いながら言った。
まだ暖かかった。祖母の体温。肌が露出しているところは段々と冷たくなってきていたが、布団をかけているところは、まだ祖母の体温が残っていた。



初めての経験とわかったこと。


よくドラマとかで、亡くなった人に声をかける場面があると思う。
起きてよ。とか、ねえねえとか。それを見て私はそんなことしないだろうと思っていた。そう、人の死について、私はどこか冷めていたと思う。
亡くなった人のそばにずっといるとか、絶対そんなことないと思っていた。しかし、自分がいざその場面に遭遇すると、自然に声が出るのだ。これには正直驚いた。
自然に声が出て、自然に涙が出て、自然に手が伸びる。
そして自然と物言わぬ人を眺めていることができる。
初めての経験だった。しかしながら、祖母には友達がたくさんいた。
亡くなった次の日。葬儀は家族葬でと言うふうに決まっていたが、祖母が生前仲良くしていた友達には報告をしようというふうに決まり、祖母の携帯の履歴を見ていた。
この年まで仕事をしていたからか、携帯の電話帳にはたくさんの人たちの名前があった。それを見ながら、父と祖父が4人の人に絞った。祖母が亡くなったと聞くと、大急ぎで家まで来た人や、顔を見るなり、「寝てるみたいじゃない」と泣きながら無理に笑う人。さまざまだった。祖母の友達の方の話を聞いていると、本当にこの人は素敵な人だったんだなとしみじみ思うことができた。それは、祖母が生きていた時には決してわからなかったことだったと思う。
この人が私のおばあちゃんで本当によかったと心から思った。


終わりに

祖母の死からもう一ヶ月が経とうとしている。
目まぐるしく定期テストが終わり、つい先日はクリスマスが終わった。どれもこれも、本当は楽しいはずなのに、今年は何一つ、素直に楽しめなかった。
友達と話していても、バイトをしていても。思い出すのは祖母と過ごした日々や話したこと。いなくなってしまった人のことをいつまでも引きずっていては仕方がないし、そんなこと、あの祖母が望んでいるわけない。なのに、伝えたいこと、聞きたいこと、話したいことを言わないうちにあっという間に逝ってしまった祖母のことが頭から離れず、いつまでも引きずっている。

あの時この時はもう遅い。後悔しても仕方がない。そう思える日が来るのは、まだもう少し先のことだと思う。私たちにはまだ時間が必要だ。



大切な人を大切にすると言うことは、簡単なことに見えて、存外、難しいことなのかもしれない。

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