無職備忘録

いろいろ落ち着いて、ここ三日は特にイベントがない日々が続いている。何故かというとギックリ腰になったからだ。

ニートにとって日常がいちばんの恐怖対象で、何もしないという空白に圧死しそうになる。だから極力体を動かすようにジムに通っていた。

おとといギックリ腰になった。終わった。
何もできない。外に出る気力が一気に削がれた。

だから心が荒んでいる。あまりにも心が荒みすぎて、いつものようにインスタのストーリーに心の中身そのまま出しちゃったみたいな投稿をしてしまった。いつもそういった投稿は2-3人みたらすぐに消している。

だがいつも、ほぼ毎回、前職の先輩に見られてしまう。アップしているの深夜なのに。早く寝てください。

まあそんな風に、消化しきれない心の叫びを、誰かに気づいて欲しいくせに、さも誰も気づかないように夜に放り投げているせいで、自分はまだまだクソ雑魚なんだなと思う。けれどこの状態から解放されてメンタルが一定になったところで、それはもっとクソ雑魚だとも思う。じゃあどうすれば良いんだろうね。

また会った時にいじられるんだろうな。逆にその人以外自分のモヤモヤ投稿に触れてくれる人なんて一人もいないから、案外大事なのかもしれない。


noteだとどうしても飾った文章や堅苦しい言葉になってしまうからダメだ。

あまりにも非生産的な毎日を送りすぎていたので、せめて駄文でも良いので日記として世界に足跡を投下しようと、何回もPCを開いたけれど何も手につかなかった。いま書けているのは、深夜に投稿したクソッタレストーリに先輩が反応してくれて、それに小っ恥ずかしくなっているから。

noteは書けていないのに、ちらほら過去の記事にイイネをつけてくれる人がいる。自分の文章が認められた気になる。そうするとどんどんとやる気を削がれていく。できる自分が大嫌いで、できない自分に必死に抗うことでしか、僕は行動を起こせないんだろうか。

そう考えると、とってもとっても生きにくいんだなと、客観的に思う。

じゃあその状態もクソ雑魚か?と自分に問うても、決してそんなことはない。生きにくかったからこそ醸成された感性や価値観を自分自身とても好いている。些細なことで幸せを感じれたり、人にこれでもかと恵まれたり、音楽が心の底まで響いたり。


ずっと迷っているんだと思う。現状に文句を常に垂れているわけじゃない。足るを知っているつもりではいるけど、心の上昇気流と下降気流は天気みたいに予測ができないんだ。



今住んでいる古い家に新しくネット回線が繋がるらしい。ずっと諦めてたCATVの設置ができることになった。しかも月1000円ちょっと。やっっっとMTVとSPACE SHOWER TVが見れる。

これで海外POPSや、日本の新進気鋭なバンドに触れられると思うと、とっても嬉しいので2024年は生きていけそう。


前に人と一瞬交わって、また離れた話を書いたけれど、今思えば自分にとってはとっても些細でどうでも良いことだった。貰うことが当たり前になっている人間と一緒にいたところで、自分の世界は豊かにならない。損得勘定とかではなくて、単純に自分が削られるので避けた方が良いと思った。勝手に美化して一瞬でも思い出に浸れたからよかったと思っておく。思いやりは大切。歪んでるのは一瞬でわかる。


音楽は相変わらず響かない。When We Were Young現地参戦したくせにね。もういいや。なんでも。

新しい仕事は1/4からになった。正直続かないと思う。なんかすごいどうでも良い。自分の時間を削って、健康を削って労働するのか。また半年で辞めたら次はいよいよどうなるんだろうね。

学費、車のローン、生活。多分死んだら一瞬で楽になるっぽい。それは1手段としてとっておきたい。

家庭に恵まれている大学の知り合いが、自身の置かれている状況に文句を言っていた。それロクな親がいない俺に言う?とずっとモヤモヤとしている。自分の置かれている状況に対して幸せを感じられないなら、それもう意味ないじゃんと。その言葉がそのまんま自分に返ってきた。

やっぱり人といないと腐っちゃう。けれど最近ショックな気づきがあって、地元の人とずっと一緒にいると会話が噛み合わないことを感じるようになった。不仲とかではなくて、使う言葉や、考え方の深度、物の捉え方や知識。そういうもの「差」ではなくあくまで「違い」に少し困っている。

「地元の友達とは話が合わなくて〜」「質の高い友達といるべき」「自分のレベルは関わる人による」とか言う人間を心の底から軽蔑しているので、そっち側の考えではないんだけれど、ちょっと自分の脳みそが固着しているなと感じる。

前だと大学や会社で、いわゆる「社会的にはすごい」人たちと一緒にいたから、振り子のスピード使って【社会的に正とされる人といるモード-全力地元モード】の行き来ができたけれど、いま無職で人とも関わっていないとベースが地元モードになってしまい、もうちょい脳みそを使いたくなっているのかもしれない。

常に揺れていたい。関わる人も、見る景色も、住む場所も、何もかも。

だからと言って仕事や大学の人たちと心の底から楽しめるかと言われたら、ただ酒飲んで近況報告するなんてクソつまらなくて、やっぱり好きを共有できる地元の人たちといる方が楽しくなっちゃうんだろうな。

大学でいちばん仲の良かった友人は、結婚して遠い土地にいる。難しいね。

これから見つかると良いな。友達。



今年は友達を2人失った。あ、死んでないよ。関係が切れた。

今までの人生でこんなことは一度もなかった。ちょっと喧嘩しても絶対に仲良くなってた。

今年を振り返るのが怖い。何もしていないし、必死に留めようと無作為に歩いていたら、ポロポロと物が落ちていくような1年だった。

それでも身体は健康で、心も一時期危うかったけれどなんとか保っている。


こうやって文章の締めは無意識に前向きになっているのは中学校2年生のブログから何も変わっていない。そしてそういうテンションで書いている時はいつも最近会った人や友達の顔が浮かぶ。


自分にとって1番のヒーリングは、心の中の膿をこうして言葉にして吐き出すことだと思った。心が軽くなる。


僕が尊敬している友人のご両親と話をした時に、自分をどうやって俯瞰しているかの話になった。僕はこうして文章を書いている時に初めて、第三者視点で自分の感情やそこから生まれる行動を見ることができる。悪魔の自分と社会的な自分がいるから、両視点から言葉を述べて、最終的には社会的な自分が勝って事を納めた気になっている。


とりあえず今日はなんとか生きれたので、あとは明日の自分に任せます。


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