全国の「星野」さん

今回は「星野」という苗字について調べてみました(#^^#)
「星野」という苗字は全国的に見て149番目に多い名字で、1位が東京都に最も多く、次いで群馬県、そして3番目に埼玉県に多い名字だそうーです。


「星野」という苗字の由来は色々あって、まず尾張の国(今の愛知県)の熱田神宮てとこの神官が発祥みたいです。星野っていうくらいだから、星見の役かなんかやってたんじゃないですかね・・。(てきとー)

んでそこの娘さんが応徳元年(1084年)~寛治3年(1089年)くらいに藤原氏と結婚して生まれた子が、そこの熱田神宮の後を継いだんでこっから藤原さんとちょっと繋がりができたっぽいです。

そしてこの子供が「この神宮、三河の星野荘にあるんで苗字“星野”にしていいですかあ?」って誰かに聞いて「あ、いいよ。」と了解を得たので、こっから“熱田神宮の星野荘にある神官”ではなく、れっきとした「星野」という苗字が平安時代当たりに誕生した感じです。
(かなり大雑把に書いてるので違うかも・・・・汗)


その頃、もう一つ別の国で「星野」と名乗る系統の人たちが出てくるんですが、
その前に藤原氏について書いておこうと思います。


藤原氏は「藤原鎌足(中臣鎌足)」を祖とする氏族で、この時代源氏、平氏、橘氏とついで政治を仕切る有力な氏族としてブイブイ言わせてたんですけども、
ちょうど「藤原四家」という藤原の四人兄弟が個々に興した家の総称があり、
一つ目から言うと「藤原南家」、次に「藤原北家」、3番目が「藤原式家」、最後に「藤原京家」がありました。


この四つは四人兄弟として力を合わせて政治を仕切っちゃうんだけど、
流行ってた天然痘で四人とも死んじゃうんだよね・・・・。
.

まあ、それはどーでもいいとして初めに前述した「星野」さんは「藤原南家」の仲間に入るそーです。

んでもう一つ、藤原北家などに連なる北関東を中心としての武智麻呂の弟藤原房前六代の藤原秀郷の曾孫左馬允兼光の子孫は、北関東の豪族として繁栄し、多くの苗字に分かれて いて、その中心は小山氏であるがその支流庶流の中に下野国出井郷(栃木県)の「星野」氏がいる。
また、藤七郎家郷(藤原秀郷の弟)の子孫は平安時代末期より「星野」氏を号せしと言う。

えーと・・・・つまり栃木県の井出郷というとこにも藤原さん北家と関係のある「星野」さんが住んでて、
平安時代に「“星野”って名乗っていい?」てなって、これもまた「あ、いいよ」となって
藤原南家よりちょっと後の時代(平安末期)に「星野」という苗字ができたらしい・・・。

愛知県発祥の星野さんも、栃木県の井出郷発祥の星野さんも、どちらも藤原さんと関係のある人達っぽいので、多分元は同じ筋の人たちだったんじゃないかなあ・・・。

ここから愛知県発祥の星野さんと栃木県発祥の星野さんの道のりは、まるで逆の道をたどります。

愛知県発祥の星野さんはその後源氏や朝廷筋の人その他いろいろな筋の方々と交配しまくり、どんどん自分の地位を確立していきます。
特にそのほとんどが、朝廷(京都)に関係しているということで麻呂関係の方に力を注いでたのかな。


一方の栃木県発祥の星野さんは、逆に手堅く井出郷にずっと住み続け代々その周りの郷を取りまとめて名主となり、何十代にわたるまで連綿と繋いでいたそうです。


そして、鎌倉時代初期(1226年)になると筑後の国(現在の福岡県南部)でも星野さん発祥の地がでてくるみたい。
 

こちらの星野さんの始祖は星野中務大輔胤実さんて人。(名前長い・・)
この胤実さんの出自は京都出身の方で樋口次郎太郎藤原実安さんが元服させて、その後堀川帝より星野を拝領して、現在の福岡県に居を構えて天正十四年(1586年)の時に没落するまでずっとそこで頑張ってきた人たちらしい。てことは350年以上代々その地を守ってきたんだねえ・・・。


この築後に住んだ星野さんも、京都から来たということだから多分朝廷と交配しまくった藤原南家の方の星野さんだと個人的には思います。。

かなりはしょったけども、筑後の星野さんは家紋まで与えられて、お上に対してすごく忠誠を誓い戦って守り続けてきたんだけど、とうとう戦いに敗れて星野さんたちはちりじりに散っていっちゃいます。

さてさて、そんな筑後の国で頑張っている星野さんをよそに、さらにまた違う国で頑張ってる星野さんが出てきます。

それは越後の国(今の新潟県)。。


その頃はちょうど戦国時代で越後の国を統率していたのは歴史上でも有名なあの上杉謙信。。
その上杉謙信に仕えていたのは星野兼房右京という方です。

この方は1558年~1570年中に存在した人で上杉謙信に仕えて五百石を領し、その子、星野図書介は真田幸介に仕え、上州の利根郡花咲村(群馬県)にて十五貫の知行を与えてもらったそうです。。(土地をもらった)
 

群馬県で星野姓が多いのは、土地を貰った星野さんがそこで繁栄を築いたからなんですね~~~(*’ω’*)


この上杉謙信に仕えたという星野兼房右京さんは一体どこから来た人なのかと調べてみたけど、詳しい話は全然載ってなくて、筑後の星野さんが戦いに敗れた後、

新潟県の小千谷市あたりに散っていったという話もあるから、藤原南家方の子孫なのかなあ~~~・・・とかんがえたけども、
星野兼房右京さんが生きた時代は1558年~1570年で、筑後(福岡県)の星野家が没落したのは1586年なので、どうも年代が合わない気がするんですよね。。(もし筑後の星野家だったら、星野兼房右京さんが現れるのは1586年以降じゃないとダメじゃね?)

ひょっとしたら、この星野兼房右京さんて人は、栃木県の出井郷発祥の星野さんだったんじゃないかなあ(藤原北家)・・・。
栃木と新潟って、群馬またいでそんな遠くない位置にあるし。。

少なくとも福岡県よりは近いよね。。

こうやってみると「星野」姓のルーツは結構詳しく残っていて、
NHKとかで「星野列伝!」とか特集組んでやってもいいくらい、中々波乱万丈な歴史だったみたい。。


てゆーか・・・・・・・


疲れたよ!(>_<)
ここまで調べるのにかなり時間かかった。。。
何より自分、星野姓とは何のかかわりも繋がりも全然ないからね!
佐藤とか高橋とかそんな平凡な苗字だし。。

それにこれ、もっと詳しい人が見れば「間違いだらけじゃん」と言われるかもしれないけど、知らん!(´・ω・`)

あとは全国の138,000人の星野さんがなんとかしてくれい。。。

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