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赤い鳥考

 記録によれば、赤い鳥はフォークジャンボリーにも出演歴があるらしい。70年の通称第2回のそれだ。
 ただ、何を演奏したかは定かでない。ジャンボリーの同録盤に彼らの曲が収録されていないのだ。未収録は版権の問題だとしても、舞台でのスナップ一枚として公開されていないのはどうだろう。ほんとうに出演していたのか疑いたくなる。
 ところが最近、ジャンボリーの現場で赤い鳥を観た、という書き込みを動画サイトのコメント欄にみつけた。

 書き込みは二つあった。どちらも女性メンバーの容姿や佇まいに見とれていたとある。そして一つには、彼女らの写真を撮った際のエピソードが綴られていた。
 書き込みの当人は、岡林信康のいわゆる「出待ち」をしていたらしい。おそらくバックステージあたりだろう。そこで赤い鳥と遭遇した。彼女らは彼女らで出番に向けてスタンバイをしていたようだ。
 そして書き込み者は、メンバーの平山泰代からせがまれてレンズを向けたという。

 「私たちも撮ってよ。いずれ売れるから」

 いずれ売れるから、とは、若者あるいは関西人特有のユーモアにせよ、自虐が過ぎる発言に聞こえる。
 たとえば同イベントは70年の8月8日と9日に渡って開かれている。この時点で赤い鳥はEP盤2枚、LP盤1枚をリリースしている。アルバムは全曲英語詩のカバーアルバムだ。セールスはあるいは芳しくなかったかもしれない。しかしヤマハのコンテストでグランプリを獲り、テレビ出演を果たしていたグループなら、知名度は他のURC系の演者を凌ぎこそすれ、後塵を拝すまではいかなかったはずだ。
 けれども「私たちも撮ってよ」というのなら、彼女らはそれまでイベント現場の聴衆からさほど撮影をせがまれなかったということか。先の書き込みの当人にしても岡林信康が目当てだった。
 岡林は当時、新左翼の星のレッテルから失踪復帰を経てなお、関西フォークのスターであり、一般的にも「山谷ブルース」のヒットをうけて認知されていたなら当然だ。のちの制作されるジャンボリーの映画でもほぼ主役の扱いを受けている。
 ジャンボリーは中津川労音の主催であったというし、岡林軸とした一般の商業音楽とは違ったメッセージ性のあるパフォーマンスが求められていたとすれば、赤い鳥が脇に置かれたのも仕方ない。
 彼女らの音楽性はある面、イベントの主旨と真逆に位置していただろうから。

「基本的には『赤い鳥』は民謡とフィフス・ディメンションみたいなコーラスものの両方をレパートリーにしてました」

 新居(のち山本)潤子がふり返ってそう云うように、赤い鳥のヤマハのコンテストの演奏曲目は「竹田の子守唄」と「カム・ゴー・ウィズ・ミー」。前者は伝承歌、後者はゴスペルを元にしたフォークソングだ。彼らはそれを完璧なコーラスワークと編曲で聴かせ、グランプリを獲得した。
 その後、演奏映像を観た村井邦彦がスカウトに来阪したというのは有名な逸話だ。
 村井邦彦は赤い鳥とは同世代とはいえ、20代ですでに作曲家として活動していた。それも第一線で。まぎれもない商業音楽のプロ作家から、赤い鳥は認められた。プロデュースしたいと持ち掛けられたのだ。このようなアーティストは、当時のいわゆるフォーク畑には一人もいない。
 大人社会に認められた赤い鳥であったが、デビュー来、世に問う音楽は村井邦彦の世界で、それらがいかに新機軸であろうとも、プロの商業音楽であることに変わりはない。あのジャンルはセールス実績を基準に評価される。赤い鳥は当初、その面では苦戦したようだ。
 では、ジャンボリーのようなインディーズのフォークイベントではどうかといえば、赤い鳥のファンにはともかく、反体制のパフォーマンスを好む聴衆からの反応も芳しくない。
 平山の「いずれ売れるから」という自嘲気味な発言は、彼女らのそういったジレンマから発せられたような気がしてならない。

「いわゆるカレッジポップスなんていわれていたような、お金持ちの息子なんていないんですよ。ほんとうに貧乏な人たちばかりだったから」

 これはURCレコードの創業者である秦政明の言だ。レーベルのアーティストは皆ハングリーな塊であったと。
 赤い鳥のメンバーはそうではない。たとえば、リーダーの後藤悦治郎は関西でも歴史のある閑静な住宅地で育っている。その家庭は留学生を寄宿させられる余裕をもっていた。後藤はその留学生を通じてPP&Mを知る。PP&Mが未来日の頃だ。輸入盤を聞くことができた高校生などそうはいなかったはずだ。
 後藤はPP&Mを知り、フォークとコーラス音楽に没頭する。大学進学後はグループを作り、赤い鳥結成以前すでに全国区のコンテストで入賞を果たす。そこでプロの誘いまで受けた。さらにはフォークブームが到来すると、語学力を生かして関西で開かれる海外ミュージシャンコンサートで通訳を担っていたという。
 赤い鳥が本場のフォーク音楽をレパートリーに出来たのは、後藤の指南あればこそだ。
 当時の後藤はまぎれもない音楽エリートだった。
 こういったキャリアは振る舞いに出る。赤い鳥のステージングを観て、聴衆はそれを感じ取る。赤い鳥はどうも他のグループと違うようだ。とくに反体制の思想はもっていない。秦自身、そう受け止めただろう。
 後藤は若くしてすでに音楽ビジネスの世界に足を踏み入れている。秦の活動に対してさほど畏敬の念をもたない。秦がプレイヤーであったなら別だが、プロモーターに対しては懐疑的に接したかもしれない。自ら売り込むこともなかったはずだ。
 となれば、秦も赤い鳥とは距離を置く。ハングリーさの匂いもなく、自作曲のない彼らをレーベルのラインナップには並べづらい。赤い鳥については、EP盤一枚のプロデュースで済ませている。
 その理由について、秦自身はこう答える。

「どうだったんだろうな。赤い鳥はまあ、京都にいたからね」

 京都にいた、とは曖昧な印象だ。先述のとおり、赤い鳥の本拠地は兵庫県にある。後藤が京都の大学出身であれば、あちらでも演奏の機会はあったろう。あるいはジャンボリー以前のフォークフェスティバル「京都フォークキャンプ」にも参加していたかもしれない。だが、こちらも同録盤に赤い鳥も後藤自身の名もクレジットはされていない。
 つまり秦にすれば、赤い鳥は関西で活動していた数あるグループの一つという認識だった。その評価に留めた。かといって歯牙にもかけない存在とまではいかない。その演奏も目にしていれば、彼女らの実力も人気ぶりも身に染みただろう。それゆえに声をかけた。だが高石友也や岡林信康ほど入れ込むまではいかなかったようだ。

 だがハングリーさでいえばどうだろう。赤い鳥は元々地元の自主イベントで実力を蓄えてきた。後藤に多少企画のノウハウはあってにせよ、2年間毎月開催したというなら、その過程での集客や設営の苦労は計りしれない。演奏自体もそうだ。あそこまで英語詩を流ちょうにコピーライトするなど、外大出身のアドバンテージあったにせよ、並大抵の才では足りない。どちらもそれこそプロの仕事だ。
 プロの仕事ができた赤い鳥だからこそ、プロに認められた。
 赤い鳥の処女LPは、ロンドンのスタジオで録音されている。
 曲目に自作のそれは一つもない。全曲英語詩のオーケストレーション。プロデュースした村井邦彦はおそらく、赤い鳥を英語圏でも通用するコーラスグループとして売り出す意図をもっていた。
 実際、村井は赤い鳥に本格的な海外デビューを持ちかけたという。
 第2作、3作とも同洋楽路線で制作されたことが、彼の意欲の強さを物語る。だがその展開は頓挫している。村井は焦りすぎたのだ。いかにコーラスワークの実力があっても、東洋人が歌う英語詩に本場のファンはわざわざ耳を傾けない。米国で売り出すなら徹底した現地のプロモーションが必要になってくる。若い村井にそれを得る営業力はなかった。
 時期を見よう。村井はおそらくそう思った。そして彼は、赤い鳥の売り出しに、日本語詩曲の制作へ本腰を入れはじめる。
 かといって、この程度の転換は村井にとって造作ない。彼はやはりプロだった。雌伏の期間はジャンボリー後しばらくのことで、満を持してヤマハの楽曲コンテストで赤い鳥に「翼をください」を歌わせ、評判を得る。
 同曲リリース後のブームはいうまでもない。村井作品で大衆の支持をうけ、赤い鳥はスターダムにのし上がる。
 高みに上れば、いまさらフォークも反体制もない。そこの住民とは適度に距離をとり、キャリアを積んでゆけばよい。
 ところが、リーダーの後藤悦治郎は違ったようだ。

 当時の発言やLPに挟まれていた赤い鳥新聞の記事で、後藤は盛んに自作曲の制作をメンバーや自身に問い質している。あきらかに在野のフォークを意識した姿勢だ。メジャーの住人になっても、彼はそこに拘った。筆者はこの点にこそ、赤い鳥=後藤悦治郎のハングリー性を見る。

 フォークファンはオリジナルがどうだ、反戦歌がなんだというが、自作自演ならまずその演奏技術が問われるべきだろう。赤い鳥はアマチュアの頃からそこに抜きんでていた。技量に長けた自分たちがオリジナル路線に舵を切れば、何を云われることはない。ヒット曲を手にしたいまなら、制作にある程度の自由は利く。踏み出すならいまだ。
 特典レコードの録音にある座談会で、後藤は自作自演のレコードを作りたいとメンバーに意思確認をする。皆、声をそろえてその必要性にうなずく。そしてふと後藤がつぶやくように云う。「よく赤い鳥は反戦歌を歌わないのかと訊かれる」と。
 それをうけてメンバーが断じる。「フォークグループだから反戦歌と歌うというのは一方的でナンセンスな見解だ」と断じる。
 後藤は一拍置いて答える。それも言葉を濁すように。
「それはそれで一方的な発言かもしれないけれど……」

 筆者が気になったのは、後藤が皆に意思確認をしている点だ。自作曲をやりたければ、まず自分でそれを作り、赤い鳥の演目にしてしまえばいい。当然、後藤はそれを試みただろう。だがいまあるディスコグラフィーにおいて、後藤の作詩あるいは作曲のクレジットは存外少ない。彼にその才能がなかったとは思わない。しかし赤い鳥はプロだった。完璧な歌唱とコーラスワークに沿ったプロの演目に合う曲までは、そう生み出せなかったのではないか。
 さらに赤い鳥の人間関係もある。後藤と平山は中学以来の付き合いだが、他のメンバーとは違う。音楽活動開始後に知り合った純粋なグループメンバーとしてのつながりだ。当然、遠慮はあったろうし、新居(山本)潤子と山本俊彦の二人に至っては後藤がスカウトしている。それだけ実力を認めていたわけだ。その彼らにおいそれと自作曲を提案できない。よほどの完成度が求められる。
 赤い鳥がURC系の、メッセージ重視の音楽性に特化したグループ、つまりアマチュア然とした活動スタイルであったなら、後藤は筆の向くまま、音の出るままに自作曲を舞台にかけていただろう。
 だが、赤い鳥ではそれができない。
 赤い鳥がまぎれもないプロのグループだからだ。
 ゆえに、後藤は自作自演の必要性をメンバーに説き、彼らにもそれを作り出すことを求めた。暗に、力を貸してくれと頭を下げたのだ。

 座談会の中で、メンバーも後藤の意志に同調している。この録音が行われたのは、時系列的に「竹田の子守唄/翼をください」のEP盤のヒットをうけたあと、71年の4月あるいは5月頃と思われる。
 この時点で3枚目のLP「WHAT A BEAUTIFUL WORLD」もリリースされているが、それもまたほぼ英語詩のラインナップで自作曲の採用は一つもない。後藤にかぎらず、自作自演についてのメンバーの鬱屈と焦りは高まっていたはずだ。
 そしてようやく、赤い鳥は71年の7月にオリジナル曲を含めたアルバム「竹田の子守唄」を発表する。

 アルバムは先行のシングル同様、上々のセールスを記録する。しかしLPのタイトルは「翼をください」でもよかったはずだ。制作側はそれを求めたに違いない。「竹田の子守唄」というクレジットにメンバーの主張がうかがえる。同曲は、赤い鳥に全国区のコンテストのグランプリを獲らしめた、彼らのイニシャルそのものの楽曲であるからだ。
 アルバムのヒットはすなわち、メンバーの主張をファンが受け入れたという証左にほかならない。
 揺るぎない支持を得て、赤い鳥は一年後、LP「パーティー」を発表する。
 これこそメンバー念願のフル・オリジナルアルバムだった。

「パーティー」に収録されたのは、あり合わせのオリジナル曲ではない。どれも名曲佳曲のレベルにある。曲の流れにもストーリーがあり、アルバムの完成度は高い。
 ところが、次作「美しい星」においては、村井作品がその多くを占めている。
 赤い鳥はなにゆえ、オリジナル志向から逆行しはじめたのか。
 これはおそらく村井の意向だろう。彼は赤い鳥を手放したくなかった。
 村井が創立したアルファ・レコード。そのレーベルのテーマとされるソフトロックというジャンルの確立に、赤い鳥は欠かせない存在だった。 
 メンバーも村井の熱意は察していた。彼との距離感に悩んだことだろう。村井はプロへの道を開いてくれた恩人だ。切り捨てることはできない。それには名目がいる。あるいは「パーティー」のセールスが圧倒的な数字を残せば、赤い鳥は村井の世界から脱却を決めたかもしれない。 
 だが「パーティー」は「竹田の子守唄」ほどのヒットは為しえなかった。

 ヒットとはつまり需要の幅を広げることだ。ファンではない一般の興味を得なくてはならない。シングル「竹田の子守唄/翼をください」で赤い鳥はそれを果たした。アルバム「竹田の子守歌」はそこに収録されたシングル目当てに購入した大衆がセールスを伸ばしてくれた。
「パーティー」からシングルカットされた「紙風船」などは、童謡の風味もあり耳なじみは良く、アレンジも秀逸だが「翼をください」の大衆性には及ばない。
 なにより「翼をください」のソロボーカルは新居潤子だ。赤い鳥といえばいったいに彼女の声が想起される。だが「パーティー」の楽曲は平等のソロが振り分けられ、新居の声はあくまでアルバムの一役を担っている。彼女のソロが少ないのなら、と購入をためらったファンもいただろう。
「パーティー」はおそらく、赤い鳥の売りであるコーラスワークよりもアルバムとしてのコンセプチュアルを目指して制作されたはずだ。そして、その目的は見事に達成されている。一方で、メディアへのプロモーションの際、どの曲を押し出すかに迷いが生じたかもしれない。しかしアルバムとは本来そういうものだ。コンセプチュアルな組み立てを分解すること自体ナンセンスなのだから。
 さらに悔やまれるのが「パーティー」のリリース時期だ。これは一年遅かった。リリースされた72年の時点では、吉田拓郎がアルバムのセールスを驚異的に伸ばしていた。かの小椋佳の台頭もあった。時代はフォークというカウンターカルチャーをメジャーの領域に組み入れ始める。
 となれば、赤い鳥の音楽も当然そこに並べられる。それこそ圧倒的なセールスを求められたかもしれない。
 そしてセールスの伸び悩みを切り口に、村井は再び赤い鳥のプロデュースに介入し始める。

 レーベルとアーティストの関係は、つまるところ雇用主と労働者だ。どちらの意向が優先されるかはいうまでもない。メンバーもそれは身に染みていた。同時に路線の修正を歓迎する気持ちもあったかもしれない。
「パーティー」は曲のラインナップからみて、後藤悦治郎の主義主張が多く反映されている。制作中、あるいは強権を発動する場面もあっただろう。リーダーなら当然のことだが、メンバー内のメンバーの才に頼っていけば、やがては行き詰まる。
 もとより後藤の作品は村井作品とまったく毛色が違う。完成度はともあれ、やはり他のメンバーには戸惑いがあったのではないか。
 新居は、のちにこのような発言をしている。

「私は民謡でも何でもメロディと詞さえよければいい。『竹田の子守唄』にしてもそんな感覚で歌ってたんですけど、後藤さんたちはもっとメッセージ性を感じていたんですよ」
 
 これは竹田の子守唄のルーツをたどった後藤なら当然の姿勢だが、新居には理解できない。彼女は完成された楽曲を完成された歌唱をもって伝えきることを信条としていたのだろう。
 村井との出会いで彼女はそのプロの完成された楽曲を知った。村井の生み出すメロディは、彼女がそれらフォーク界隈で耳にしてきた唄たちとその洗練度において雲泥の差がある。若い彼女が心酔して当然だ。そこにロックやジャズ畑出身の新メンバーの加入を経て、彼女は知らず土着のフォークの世界から脱却を求めてはじめていた。

「赤い鳥は村井さんが組んだグループです」

 近年、後藤は振り返ってそう漏らしている。彼はある時期から相当、メンバー間の志向の齟齬に悩んだだろう。一般の求める村井作品や新居メインの路線の必要性は理解できる。否定もしない。しかしそちらへ舵を戻せば、やはりグループを組んだ意義がない。
 グループであればこそ、イニシアチブの取り合いなどしたくない。何とか各人のプライドが保てる道はないか。そこで後藤の選んだ結論が、グループの解散だったと筆者は考える。
 平山泰代は後藤に追従した。彼女はのちに後藤の妻となる。後藤への理解も他のメンバーよりあったことは推察できる。
 平山の歌唱法は声楽のメソッドに基づいている。伸びやかなそれは、村井作品のポップス調のコーラスミュージックよりは、後藤の好むフォークあるいは伝承歌の譜割りに生かされる。後藤への信頼は厚かったに違いない。
 彼女は後藤の距離感から、他のメンバーに打ち明けられない彼の胸の内を覗いていたはずだ。
 平山は「いずれ売れるから」という発言に見られるように、現状に満足はしない性質だった。後藤のいうオリジナルの必要性も共感できた。彼女は大学で音楽の専門教育をうけている。自身の才に対するプライドも人一倍あったろう。
 たとえば、新居に対しても。

「彼女は自然にうまいんです」

 平山は新居を評してそう云う。彼女は赤い鳥が人気を博してゆくたび、心ならずも身に染みた。声楽を学んだ自分より、純粋なアマチュア上がりの新居の歌唱が大衆の耳目を惹きつける。村井がソロパートに置くもの無理はない。グループが存続すれば、新居を中心に動いてゆくことは必定だ。その流れには抗えない。
 だが自分にもボーカルとしての欲はある。
 もう一度、シンガーとしての実力を世に問いたいと思ったとしたら、それもまた自然の流れだったろう。
 
 いずれにせよ、解散に至った理由は音楽性の路線対立で間違いないのだろう。
 そうだとして、対立が生まれる芽は、たとえばあの70年のフォークジャンボリーでの平山の発言が育んだような気がしてならない。

 ジャンボリーのイベント当日、赤い鳥は何を演奏したのだろう。
 コンテストの演目は間違いなく含まれていたはずだ。あれほどの演奏をこなせたアーティストが参加者にいただろうか。
 こなす必要がなかった時代、といえばそれまでだが。
 そもそも筆者がこの稿を起こした動機は、赤い鳥はその演者として実力はさておき、ソフトロック云々、誰某参加のプログレがどうと、パッケージとしての評価しかされていないのことに疑問を覚えたからだ。
 いったいに日本の音楽評論は技術面を置き去りに、背景ばかりが語られる傾向にある。それは評論でなくガイドである。情報の羅列がレビューとしてまかり通るなら、アマチュアでもこなせる仕事だ。プロの批評ではない。
 くり返すが、赤い鳥はプロだった。
 そのプロとしての完璧な歌唱とコーラスワーク、さらにはアコースティック楽器の合奏力に言及した評論はいまだ目にしたことがない。
 あるいは、そのプロとしての仕事もまた、現代の聴き手には必要とされていないのだろうか。

参考文献 
日本フォーク紀 黒沢進 シンコーミュージック
アコースティック・ギター・ブック 日本のフォーク特集号3 同


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