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ロックダウンのNZで 最終局面に立たされる政府と自由民主主義のコスト

ニュージーランドのCOVID-19市中感染者が増加している。

最初のデルタ株の市中感染が確認され、ニュージーランド全体が2度目のレベル4ロックダウンとなったのが8月。その後、オークランド以外の地域は段階的にロックダウンレベルを下げていったものの、感染源となったオークランドはいまだにレベル3ロックダウンが続いている。

新システムへの移行とワクチンパスポート

一方で政府は、ロックダウン政策の出口戦略として「トラフィックライト(信号)システム」と呼ばれる新基準への移行を志向している。

簡単に言えばこれは、ロックダウンの枠組みを廃止、蔓延の度合いを提示する枠組みは残すものの、ワクチンを打った人には、基本的に移動の自由を返しますよ、という話だ。この記事を書いているときに思い立って、筆者もワクチンパスポートをオンライン申請してみた。

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ワクチンパスポートの発表当日は、混み合ってサーバーが落ちたりしていたようだが、保健省のサイトに個人用Eメールアドレスを登録し、運転免許証番号を入力すると、数分でこのPDFファイルが添付されたEmailが送られてきた。

政府は、ワクチン接種対象者の90パーセントが2回接種を終えることを条件に、この新制度への移行を志向している。現在、達成率は83%で、12月中旬にはこれが90%を超える見込みらしい。

オークランドのロックダウン解除は、これを踏まえて12月15日以降になる予定だ。一見、すべてがうまくいっているように見えるが、問題がないわけでもない。

ワクチンを打ちたくない人たち

その最たるものが、ワクチンを打ちたくない人々の存在だ。

ニュージーランドではすでに、ワクチンを接種しないと働くことができない職種が発生している。私のような雇われ飛行士もそのひとつ。航空事業者や、国境管理の仕事をする人たちは、すでに何ヶ月も前にワクチン接種が開始された。

現在、このような職種が拡大していて、直近では医師や介護士、教師などがその対象に含まれた。子供を含めた、医学的な理由でワクチンを打てない人たちを守るためという理由で、全職種の40%にものぼるという。

ワクチンが入ってきたころは、高齢者や基礎疾患のある人たちやエッセンシャルワーカーを対象にワクチンを「優先接種」すると言われていて、ワクチンの接種が肯定的に捉えられていた。

しかし、ワクチン接種の有無がロックダウン解除の条件として位置付けられたり、ワクチン接種を義務とする職種が増えてくるにつれて、ワクチンを打ちたくない人たちが目立ってきた。

望まない医療行為を拒否する自由

筆者の基本的な理解として、ニュージーランド政府はできることを全てやっていると考えてきた。これは今も変わらない。

また、ロックダウンによるエリミネーション戦略(ただし、いわゆる「ゼロコロナ」ではない)を選んだ以上、原理的に、出口戦略はワクチンしかないことは明白だった。ワクチンを打たない人の存在が、このウイルスの出現によって社会に課せられている様々な規制からの脱却を遅らせることになることは事実だと思う。

ワクチンの安全性についての疑問は、それを見る角度や個人の体験によってバイアスがかかっているので、本当のところはわからない。100%安全な薬はそもそも存在しないが、筆者個人は、公開されている情報を自分で吟味した結果、このワクチンは信頼に値すると結論づけて2回接種を完了している。

だから、個人的には、「みんなさっさとワクチンを打って、はやく城の外に出ようぜ!」という意見を持っているけれど、だからといって、ワクチンを打つのが怖いという人に「さっさとワクチンを打てよ!」とは絶対に言わないし、そういう人たちを非難することもしない。

これは、自由主義のコストだと思っているからだ。

自由主義のコスト

前述の通り、エリミネーション戦略を選んだ時点で、ワクチンしかないことは原理的に決定していたことで、マクロで考えれば相当程度、自由権を侵害されることは、わかっていたことなのだ。

一方で、我々は、視点をぐっとミクロに絞ることもできる。妊婦が胎児への影響があったらと考えて接種を控えたいと思う気持ちや、身内がひどい副反応を起こした人、様々な理由で打ちたくないと考えている人の気持ちを想像することもできる。いざ、自分の番が回ってきた時、体に得体の知れないものを入れたくない、と考えるのは自然なことだし、望まない医療行為を拒否する自由は、憲法(的な法律)で保障されている。

だから、政府は法律で職種に縛りをかけることで「間接的に」事実上の強制をするしかない。この事実上の強制が憲法違反となるかどうかは、司法の判断になるが、公共の福祉のためにあなたにこの注射を強制します、とすることは絶対にできない。それをやったら、自由主義ではなくなってしまう。

その筋を最後の最後まで通そうと思えば、反対する人には「ワクチン打たなくていいよ」という逃げ道を残さなければいけない。その結果、公衆衛生の維持や経済活動全体の復活が遅れたとしても、これは甘んじて受けなければならない。自由主義のコストといったのは、そのためだ。

行政府の責務は権力によって遂行される

ジャシンダ・アーダーンは、「科学的な情報と丁寧な説明」という、政治家にとって最も面倒でコストのかかる方法で、民主国家におけるロックダウンを成功させてきた。国民の移動の自由を「侵害」するために「説明」を尽くして、社会的なコンセンサスを作ることで、平和裡に、堂々と、国民の移動の自由を規制してきたのだ。

しかし、移動の自由を規制されることを我慢できても、望まない医療行為を強制されることには耐えられない人々がいた。体内に得体の知れないもの入れることの恐怖は、移動を一定期間規制される不便さと比べ物にならなかったのかもしれない。

行政府は、「公衆衛生の維持」という責務を負っている。だから、必要とあらば、現在の法律でできることは全てやるし、それが足かせになるなら法律を変えてでも実現しようとするだろう。あるいは、同じ責務を負いながら、事態の進行についていけずに傍観し、対応が後手になる政府もあるかもしれない。

どちらに転んだとしても、民主的な選挙で選ばれた政府には、次の選挙まで法律の範囲内でその意思を貫徹する権力が与えられる。一旦選挙で選んだ政権の行いに対し、国民は、デモなどで意思表示をすることはできても、基本的には無力だ。次の選挙まで、あるいは、司法の判断が出るまでは、政府の行いを止めることはできない。それぞれが思う「正しいこと」を行うときに「時差」が生じるのだ。

民主的な政府の限界と政治家の顔

これが、民主的な政府の限界だと感じる。我々は、自由を尊重し、民主的な社会を是としている。だからこそ、民主国家は政府の強権を「期限付き」とすることで、最悪の方向に突っ走ることを防ごうとしているが、責務に忠実であろうとすればするほど、時の政府が強権的ならざるを得ないのであれば、それをわかりながら権力を行使し、問題を納めた後、選挙で負けて退陣するところまでが、セットになっているように感じてならない。

民主国家における政権とは、やはり「貧乏くじ」であるべきで、政治家がホクホク顔でつくような「褒賞としてのポスト」であってはならない。中枢の政治家は、顔がげっそりしているくらいがちょうどいい。


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