「さよなら、クウ」の物語
好きな監督の映画ポスターをデザインさせてもらえることになった。本人との打ち合わせの前に、彼の代表作品を見返していると、約束の時間が迫っていた。急いで家を出て電車に飛び乗り、ドア横の空席に腰を下ろす。
ふと向かいの席に目をやると、白い毛束のかたまりのようなものが座席に乗っていた。ちょうど眼鏡ケースのような形で、角は丸みを帯びている。誰かの忘れ物なのだろうけれど、あれは一体なんだろう? ここから見える範囲で想像する。女子高生が落としていった、毛足の長いファー生地の化粧ポーチか? それとも、白クマの着ぐるみの一部か?
膨らむ妄想は、一気にわたしを子供時代に引き戻した。
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小学生のゆりこは、塾が終わって電車で帰っている。母に、「電車に乗りました」とメールを送ったと同時に、座席のその物体を見つける。『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫の、太くてふさふさな尻尾に似ている。
ゆりこはどうしても猫が飼いたかったけれど、妹が猫アレルギーのためそれは叶わずにいた。猫を飼っている友だちが羨ましくて仕方なかった。一度でいいから猫と一緒に寝てみたかった。
それ(のようなもの)が、目の前にある。ゆりこは迷わない。電車が駅に着くと、誰も見ていないのを確認して、それをバッと持ち去る。掴むと、それはぐにゃりとゆりこの手の形になる。改札を出て駅前の公園まで、一目散に駆け抜ける。滑り台のてっぺんまで登り上がると、手に持ったそれをまじまじと見てみる。体(と仮定する)がかすかに上下している。呼吸をしている。長くやわらかい毛の下には口らしきものが隠れている。目は見当たらない。それでも、それは生きていると確信する。ゆりこは動じない。そっと撫でてみると、うれしそうにクウンと泣く。ゆりこは、完全に心を奪われる。それを、「クウ」と呼ぶことにする。クウをペットにしようと決める。それが、未知の生物でも。
ゆりこは母に叱られるのを怖れて、クウをポケットに隠して自分の部屋へと直行する。念願だったペットとの一夜を過ごす。
次の日から毎日、ゆりこはクウをポケットに入れて学校へ行く。お昼にはこっそり給食を分けてやる。どんどん、ゆりこはクウが大好きになる。
クウの体は、日ごと大きくなってゆく。ポケットに入らなくなり、ランドセルに忍ばせる。それもじきに難しくなり、ゆりこは友だちに相談する。そして、秘密基地と呼ばれる体育館裏の茂みで飼うことになる。ひとり、ふたりと秘密を知る仲間は増え、クウは静かに人気者となる。クウの存在が大人に知れたら、もう一緒にはいられなくなるとみなわかっている。
クラスのほとんどがクウの存在を知る頃には、クウは中型犬と同じくらいの大きさになる。
クウの背丈は、茂みの草を超える。これ以上は隠しておけないとゆりこたちが頭を悩ませる中、ひとりの生徒がクウにいじわるをする。いつもは穏やかなクウが毛を荒立たせて、風船を一気に膨らませるように体を大きくさせる。ゆりこがなだめてもクウの巨大化は止まらず、あっという間にクウは人間の背丈を超える。怖くなった生徒が、先生に助けを求める。クウは、ついに大人たちの知るところとなる。
先生がクウの姿を見て、悲鳴を上げる。様子を聞きつけて、たくさんの親たちが駆けつける。誰が呼んだのか、パトカーも到着する。親は子供に避難を促し、先生はバットを振り回す。警察は銃を構え、そして叫ぶ。その怪物を殺せ。ゆりこたちは泣いて訴える。クウは怪物じゃない、クウはわたしたちの友達です。大人たちは聞く耳を持たない。クウは大きな網で捕らえられる。すると、クウの体はふわっと浮きあがり、網を突き破る。そして、クウンと大きくひとつだけ泣くと、クウは空を舞う。高く高く舞い上がって、ついには見えなくなる。
ゆりこは涙が乾くまで、クウのいない空を見上げる。
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涙の別れをしたところで、電車は渋谷駅に着く。眼鏡ケースサイズのクウはまだ向かいの座席に置かれたまま。
馬鹿馬鹿しくも愉快な妄想が、またわたしを遠くに連れていった。打ち合わせに行かねば。もっともっと物語が待ってる。
長いのに読んでくれてありがとうございます。