つまんねーやつを知る

実際はつまんねーやつはこの世に一人も居ないと思っている。
私としてもいないと思いたい。

だが、大衆はつまんねーやつばかりなのだ。
某番組に合わせたら台詞が違うし怒られてしまいそうなのだがその話はやめておこう。

テレビなんかではつまんねーやつよりもおもしれーやつを優先して放映する。
芸人さん、売れてる俳優さん、カリスマシェフ、アイドル、ネットで話題になった人とか。
まあ最近のアイドルはつまんねーやつと思ったら面白い側面がなかなか人数が多いこともあって見られないことが多いが一人になると割と尖ってたりする。
アナウンサーとかも意外と地方局でははっちゃけてたりする。
んでもって私たちはそういったおもしれーやつのおもしれーところを優先して消費する。消費して楽しくなったりいい時間を得たり出来るから優先するのだ。

おもしれーから小説は本になって売られおもしれーから漫画は連載される。基本的につまんねーのは私たちが消費しようと思うものにはない。
ちょっと自分には合わないとか不快感があるとかはさておいて、たくさんの人や偉い人達が見てつまんねーって思ったらそこにあるはずがないのだ。

じゃあつまんねーやつって何者なんだ?
そう。さっき言った、大衆。
何かを成して有名にならなかった人達だ。
平々凡々な生活を歩み、適度に勉強をし、そこそこのところで社長ではないが働いてるとかそんな感じの人達なんだろう。
ただ、正社員として働いてるとか育児をしているような社会を構成している人達って本当につまんねーかと言われると違うと思う。
働いてるのにストレスが強く上手く発散できないとほとんどのことについて考える余裕がなくなる。
育児なんて自分のことよりも子供のことを考えてるからおもしれーことを考える余裕がなくなる。
余裕がないとおもしれーことなんか出来ないし考えていられないのだ。どんな人でも腰を据えてリラックスしてある程度長く話せば面白いのかもしれない、その可能性の方が高い。

私はおもしれーやつを見るのが好きだし知るのもある程度までなら好きだ。
だがつまんねーやつを見るのはどうだ?
Twitterなんかでつまんねーやつをいちいちフォローするか?しないのである。
おもしれーやつを消費する方が有意義であると感じる中にいるとつまんねーやつを見ること自体が面白いとは思わない。

おもしれーやつよりもつまんねーやつをよく見ようと考えるのはどちらかと言うとつまんねーやつを消費する、お金になると考える人達なのだ。つまり会社の社長、商品とかなんにせよ企画を考え物を売る側なのである。需要と供給の供給側の人達。エンターテイメントはさておき、私たち消費者が手にしてるあらゆる消費物をつくって売る側だ。

つまり経営の立場を知ればつまんねーやつを知ることが出来るのでは?ポリシーだとか大切にしてることがあるのだろう。ただこれを知るのはなかなか難しい。少なくともいくつかの企業のホームページを開き、会社概要みたいなところを開いてからやっと出ることろだ。映像媒体なんかになるともっと少なくなる。そういった物を売る側にフォーカスの向いた番組がないという訳ではないが割合にすると圧倒的に少ないのだ。経営者の自叙伝とかもない訳ではないが面白いのか?と思うとなんだか手に取りづらい、有名企業であろうとも好きな企業にならないと買って得するのか博打であると感じる位置にあるのだ。恐らくだが、一番簡潔に済むのは経営学として学ぶことだろう。

それに消費者の動向が一発で解ってたりしたらそれは価値のあることになる。何せ金が動くし動かし方がわかるのだ。だから企業側が隠してしまうのも普通なのである。
エジソンだって映画が売れるってわかったから金に目が眩んで権利を翳して他社を圧したりしたのだ。だから映画をつくりたい人達はハリウッドまで逃げたのだ。

私は有象無象の他人を見るよりも自分をよく見ていた時間の方が多い。だからなのかお客様目線とか言われるとなんだかピンとこない。相手の立場になって考えるとかよくあるが、相手の立場とは…?となり思考がそこで止まってなにも考えられなくなる。例えば、私も相手も眼鏡をかけてるとする。そこで眼鏡を交換したら物はハッキリ見えないだろう?私からするとそんな感じなのだ。私が普段から他人を見ようとしないからピントが合わないのだ。

このピントが合わない部分を私が合わせればいいのか、ピントが違うまま敵対はせずに生きるのがいいのかは今の私にはわからない。経営学を学んでスッキリ解決できるかはよくわからない。
ただピントが他人とズレていることは悪ではないと思っている。差はあれど人はそれぞれ違うのだ。同じように人生を歩んでた方がおかしいものだ。それはそれでいいのだと私は思う。

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