注カフェに行ってきました②

 メディアにインタビューされたときいつも以上に吃ったけど、あの場所だったからそんなに恥ずかしくなかったし吃ってもいいんだよっていう空気がすごい心地よかったです。メディアの方も私が吃ってるとき優しく聞いてくれて。お店出てから今日めっちゃ吃っちゃったなーって思ったけどもあまり苦じゃなかったです。

 後ろの席の人達は家族で来てるっぽくていいなって思いました。親は私の吃音のこと理解してくれないけど、それは私がただ理解してもらえる努力をしてないだけなのかもなって感じました。その家族みたいに、親を注カフェに連れてこれば考え直してくれるかも。でもなんか、注カフェをそういう目的で使うのは自分的にはなんか違う気もする。けど、吃音のイベントを通して親に伝えるのもありかなって思いました。

 帰りには伊勢神宮で吃音が軽くなりますようにってお願いしてきました。今までだったら治りますようにってお願いしただろうけど完治はいいかなって今日思えてきたんです。「完治はいいかな」の中には諦めや妥協みたいなのも含まれてるし、吃音に苦しい思いさせられてきたしこれからも不安しかないけれど、吃音じゃない私ってたぶん私じゃないし吃音があるからこそ今日みたいに楽しいこともあって、吃音だから弱い人の気持ちを考えようと思うようになれた気がする。もちろん完治に越したことはないんだけど、それより大切なものがあるように思いました。