森を抱いて生きていく~「海辺のカフカ」感想文

君は森が見える人なんだね?
僕はいつかある人にそう聞いたことがある。
その人がどう答えたかは覚えていないが、
僕はそのとき世の中にはきっと森が見える人と見えない人がいるのだと思った。
いや、見えない人と言うと語弊があるかもしれない。
見る必要がない人、と言ったほうがいいかもしれない。

書評を書いてみてくれ、
知り合いにそう言われて海辺のカフカを読んで
僕はそのことを思い出した。

正直言って読書感想文は得意ではない。
予備知識一切なしに読んだので、
世の中に出回っている考察とは大きく違っているかもしれないし、
もしかしたら見当違いのことを書いているかもしれない。
そしたらごめんなさい(笑)

さて、この作品が書かれたのは2002年、今からちょうど20年前だ。
家出少年だとか、LGBTだとか、現在創作物のテーマとして多く取り上げられているものが、ふんだんに盛り込まれていて、当時としてはずいぶん先進的な内容だと感じた。
あるいは今出回っている作品がこの作品の影響を受けたのかもしれない。

そして作者のちょうど円熟期といっていい時期に書かれた作品だ。
円熟期というのは年齢や技術面はもちろん、経済面の影響も大きい。
ここまでの大作家になればおそらくもう売れるためのものを書く必要はないだろう。
流行のものではなく、普遍的なテーマに挑んでいったという気概をこの作品から感じ取ることができた。

その普遍的なもののひとつが「森」である。

では森というのは何なのか。

一言で言えば観念だ。

世界の理と言っていいかもしれない。

そこでは喪失と再生が繰り返されている。

大地に雨が降り、土が木を育み、木が虫を育て、
それを鳥が啄み、そしてそれはやがて土へと還っていく。

太古の昔より続く生命の循環。

人間の営みというのはそのほんのほんの一部にすぎない。

それを目の当たりにしたとき、人は己の無力さを実感するだろう。

そしてその人の営みはこの作品の中で4人の登場人物によって描かれている。

何も持たない少年期の「少年カフカ」、
何かに気がついた青年期の「ホシノさん」、
そして何かを悟った壮年期の「佐伯さん」、
何もかもを失った老年期の「ナカタさん」。

主人公の少年カフカは齢十五にして森を見る。
僕の調べによると、森に出会う平均年齢より少し若い。
十五歳といえば一般的には部活に勤しんだり、ゲームのレベルを競ったりしている、そんな年齢だ。
カフカ少年に関しては到底十五歳とは思えない文学に関する素養や、複雑な家庭の環境がそうさせたのかもしれない。

部活に勤しんだり、ゲームで競ったりしているときには森は決して見えない。
人、あるいは世界と繋がりを持っているときには森は見えないのだ。
もし永遠に何かと繋がりを持ち続ける人がいたら、その人は森を見る必要のない人だろう。

思考の落とし穴のようなものにはまったときや、孤独に苛まれたとき、
森はふと目の前に現れる。

少年カフカは家出の旅の道すがらさまざまな人との出会いを経て、たどり着いた四国の山奥で森と対峙する。

そこで彼は「自分には生きていく資格はあるのか」と問う。
そのままその森に身を沈め、循環の一部となることもできたはずだ。
そこは物語の中に書かれている通り、生と死の間で、
その先にある人のいない街はおそらく黄泉の国だろう。

だが少年カフカはそこから元の世界に引き返すことを選択した。

なぜなら旅の中で彼に記憶という「図書館」が生まれたからだ。

森にたどり着くまでに出会った人との交流によって、記憶が作られ、
少年カフカは元の世界で生きていくことを許されたのだと、そう感じたのだ。

人は記憶を頼りに生きているのかもしれない。
もしあなたの記憶からこれまでに出会った人の記憶が消えて、出会った人の記憶からあなたが消えたら、
それは死んでいるのも同然だろう。

ただ例え記憶を得たとしても一度森を見た者の心から森が消えることはない。
森と、そして記憶という図書館を抱いて、人は生きていく。

あとこれは小説の内容とは関係ないが、誰もいない森で奇跡的に人に出会う現象のことを、恋と呼ぶのだと、僕は思う。

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