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いばしょノート

私がおしごとと活動で3つの場(後述)にかかわっている  "いばしょ"という営み

"いばしょ"を考えていくと
人が生きるってどういうことか、幸せって何か、
誰かのしんどさとどう向き合うか、ひととどう一緒に生きるか
そういういのちの本質的なことにたどり着く

その深みを、もっともっと、感じていきたい
意味なんてなくてもいいけど
その営みが、私にとって、誰かにとって
とっても大切なにかであることを
誰かと一緒に味わえたら、わかちあえたら嬉しい

そう思って、何気ない普段の投稿に混ぜて
"いばしょノート"を綴ってみようと思っています

友人がやっている介護の想いを綴ったカイゴノート
介護の話しだけど、介護だけの話しじゃない
ひとが生きるってどういうことだろうって、考えさせてくれる
いばしょも、一緒だ
これがすごく好きで、これのいばしょ版を紡いでみたいと思った
名前もそのまんま、マネしました ありがとう

介護も、前職の保育も、"いばしょ"も、福祉も…
数値や目標到達では測れないからこそ
魅力も価値も、わかりにくく、伝わりにくい
でも、だからこそ、そこを見つめることを、伝えようとしてみることを
諦めないでいたいと、強く強く思う

"ひと"と"ひと"とがまじわるいとなみの
"答えのない問いをもちつづける"という
わかりにくい魅力と尊さを
きっとそれこそがある意味での"専門性"なのかもしれないということを

いろんな分野のひとがこういうノートを綴ることで
分野を超えて、ひとが生きるということを
一緒に考えていけたらという願いも込めて
いばしょノート、はじめます


***

ひと、空間、関係性、メディア、コミュニティ…
私にとって、あなたにとって、誰かにとって、いばしょって、なんだろう
あえてその手段は広く色々含めて
役に立つとか立たないとか、そこにいる意義とか意味とか、そういうものをとかして、だいじょうぶって、生きることをさせてくれる
そんな営みをひろい意味で私は今回"いばしょ"と呼んで
そこへの想いを綴っていきたいと思います

***

言葉と、つきあうとき
その距離感を考えていてる
言葉にすることで、届くかもしれないなにか
言葉にすることで、そぎ落とされるなにか
言葉にすることで、気づくことができるなにか

言葉に頼りすぎることも
言葉にすることを諦めることも
言葉にすることで思考を固めてしまうことも
できればしたくない

だから、いまの自分が
無理なくそっと紡げるくらいの
やわらかい言葉で
いばしょという営みの輪郭を
ぼんやりと綴ってみたい

***

わたしの3つの"いばしょ"

・多世代ごちゃまぜのいばしょ
→乳幼児親子、不登校の子、放課後の子、障害のある方、おとな、お年寄り
目的がなくても誰でも来て、過ごせるばしょとして、空き家を開放

・子どもの貧困といばしょ
→家庭にしんどさをもつ子(経済的/精神的…)、外国にルーツを持つ子などが来て勉強したり遊んだり、ご飯をつくって食べてもらったり。子ども食堂やフードパントリーなども。

・淡い想いを大事にするいばしょ
https://note.com/awairo_story 

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