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"無聲" を観た

先日”無聲 The Silent Forest”という映画を観ました。
観てから数日がたつけどずっと心に残って、ひっかかってて
簡単に言葉にすることで消化したくないけど、
その感覚を書き残しておきたい


予告編をみて、
衝動で、これはみなきゃいけないと思った

台湾のろう学校で実際に起きた性暴力を題材にした映画
簡単に被害者が救われて終わりでも、誰かを責めて終わりでもない
決して事件や被害者を消費するような映画じゃなくて、
まっすぐ、大切なことと向き合わされる映画
(けど、ほんとに苦しいので、たくさんのひとに観てほしいと思うけど、しんどい方はどうか無理なくと思う)


心が激しく揺さぶられる
苦しくて、悔しくて、胸がきゅーっとなって
それでも目をそらしたくなくて
痛くて、苦しくて
きっと大切な何かが確かにあって
でも簡単じゃなくて

他の国の、知らない誰かの
関係ないことにしてはいけない
すごくしんどい
考え続けなきゃいけない
観れる方には、苦しいけど観てほしい
そんな映画でした


「私が知りたかったのは、”何故、加害者がこのようなことをしたのか”よりも、”何故、被害者はこのような状況下でも、この学校に留まりたい、外の世界に出たくないと思ったのか”ということでした。」
(コ・チェンニン監督のインタビュー、「無聲」パンフレットより)

加害者の背景もとても胸に迫るように描かれながら、
被害者が被害を受け入れてしまう心の背景が丁寧に描かれていることが、
同じくらいとても心を揺さぶり、息が苦しくなる。
心の”いばしょ”が、誰にでも、ある世界を



予告編にもある”あなたもわたしをいじめていいよ”ということばが
ずっと重くひっかかる。

あきらめと、自分を責めること
それをさせることが、一番の暴力
仕方ないで済ませていいことなんかない
(そう思わされているのは本人のせいではない)
わたしに、いま、何ができる



罪を犯すことを正当化なんてできない
被害に遭った方の気持ちを想像することを忘れてはいけない
けど、誰かを責めることだけでは何の根本解決にもならない
罰すること、自分は傷つかないところから声高に正義を振りかざすこと
それで、自分とは違うのだと切り離して終わらせたら
それは何の解決にもならない
私たちの中にある危うさ、世界の中にあるたくさんの傷
目をそらすのは楽だけれど、
向き合うのは苦しいけれど
考えたいことがある



とても悲しくて悔しいけど
違う国の、知らない誰かの話じゃない

性暴力は毎日のように存在してしまう

いばしょがない苦しみ
存在を否定される苦しみが
様々な形で現れている

〇〇件の被害、その中のひとりひとりの痛みを、傷を
本気で想像するのはとても心が苦しく忙しい
それでも、ぜんぶは無理でも
もがいて、何ができるかを考え続けたい



性のことは尊厳のことだから、いますごく考えたい
身近にも、そのことで傷つけられたと打ち明けてくれた大切な人たちがいる
男性も女性も、どっちかだけの話ではないけれど
それでもどうしても、世の中の”男性”側として考えなきゃいけないことがどうしてもある気がする最近



社会のことを話したい
誰かを責めるのでもなく
賛成とか反対とか
批判とか擁護とか
二項対立でもなく
そんなものを越えて
大切なことの本質を、大切に、丁寧に探りながら話したい

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