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43日後に『還』の私・1978年17歳

このシリーズは、4月26日に還暦を迎える私がこれまで生きてきた人生を、
1日1年として60日前の2月25日からカウントダウンしているものです。
人生をトラウマや問題や大きな出来事などの記憶としてではなく、
それらのハイライトのみではなく、
日々、日常をただ生きた、1日1日、365日をちゃんと生きた、
笑ったり泣いたり歌ったりしながら、生を楽しんだ。
だからこそ今の私がある。という観点から、
今までの私が生きたすべての日々をリスペクトするためのシリーズです。

1978年、17歳!とうとう、私の人生での最初の大きな転機。
高校2年生で、日本の高校は休学してアメリカの高校に留学した年。

多分、7月くらいにアメリカに行ったので、それまで日本で準備に追われ、
英語の勉強や1人でホストファミリーと過ごしたり異国の地で過ごし、現地の学校に通うためのオリエンテーションなどで東京に行くことも多かった気がする。

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(写真はその頃の原宿。タケノコ族?)

日本初公開の「スターウォーズ」を始め、「未知との遭遇」など、アメリカに行く前に英語の勉強も兼ねて洋画も色々見た。

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(「1978年(昭和53年)流行・出来事/年代流行」より)

今思っても、よく1人で行ったよなぁ。よく1人で、知らない国の知らないご家族と暮らし、知らない学校に通ったよなぁ。

そして、親もよく送り出してくれたな、って、今は心から思う。

私はといえば、とにかく日本から離れて暮らせることに、とてつもなくワクワクしていたと思う。行った先で、結構色々しんどいことが待っているとも知らずw

1978年は、日本ではキャンディーズ解散、ピンクレディが相変わらずの大人気。

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(「1分で分かる!激動の昭和史 昭和53年(1978年)そのときあなたは?」より)

成田空港が開港し、私は行きは羽田だったと思うけど、1年後に帰国した時は、成田空港だったと思う。 

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そして7月。アメリカへ旅立った。

まずはロサンゼルスだったかサンフランシスコだったか、まずは日本を始め、全世界から集まってきた留学生だけで合宿。みんな英語が片言の中で一緒に楽しく過ごし、その後、バラバラにアメリカの各地に散らばった。

私は、留学先のアメリカ:フロリダ州の州都・タラハシーへ。

その空港に着いて、ホスト・ファミリーに出迎えてもらった時の衝撃たるや、すごかった。ニコニコと写真で見た通りの家族が待っていてくれて、一緒に住んではいなかったけど、ジョージア州に一人暮らししていたおばあちゃまも一緒に迎えに来てくれていたのだけど、そのおばあちゃまが、ニコニコしながら私に近づいて言ってくれた、おそらくは「挨拶」と思われる英語が、まったく理解できなかったのだ!

あんなに英語を勉強してきたのに、盲点は「南部なまり」だった。

おばあちゃまが特にすごかったのだけど、ホストファミリーの会話がほとんどわからない。車で自宅に連れてってもらってる間中、色んな質問をされてもわからず、答えられず、半べそをかいていた。

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着いたばかりの頃だったと思う。

 
それでも救いだったのは「音楽」だった。

マッチングしてもらったホストファミリーは音楽一家。

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お父さんがフロリダ州立大学の音楽理論の教授。お母さんはその頃の最先端、音楽療法士になるために大学院に通っていたのでいつもピリピリしていた。

家には、防音室があり、そこでピアノの練習をしていた。ピアノの先生のところにも通ってレッスンを続けていた。

9月には高校4年生、最上級生として編入になるため、それまでホスト・ファミリーのところで生活に慣れるための数ヶ月。

2歳年下のホスト・シスターのサリーが、学校が始まる前に、色んな友達を紹介し、映画に連れてってくれたりした。

自信があったはずの英語が、なまりのためによくわからないとかいうストレスはあったものの、今思うと、この期間に連れてってもらった映画が両方ともミュージカル映画で、ものすごく楽しくて、英語のセリフはよくわからなくても楽しめたのだった。そして2本とも、すごく私にとって意味のある映画だったのだ。

1本目に見たのは、ジョン・トラボルタとオリビア・ニュートンジョンのGrease.

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以前、Stand FMでのラジオ配信した時にもnoteに書いたけど、後付けだけどこの映画を最初に見た意味は大きかった。Greaseは、その頃の不良っぽい男子がよくつけていた整髪料だけど、映画の内容の象徴でもあり「影響力」という意味がある単語なのだ。オリビア演じる「優等生」が殻を破って生き生きしていく様は、その時の私にも強い印象を残したし、今思うと、その後、今日に至るまで私の人生のテーマの一つと言える。

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そしてもう1本。私に衝撃を与え、なおかつ、その後の私に繋がるような映画。

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これはもう、永遠名作であり革命的なミュージカル映画であり、セクシュアリティの面でも、「オーディエンス参加型」という前代未聞の映画のスタイルに発展したことも、音楽性においても、コスプレという新しい文化の走りとなったという意味でも、大変な旋風を巻き起こしたロッキーホラーショー。

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これを最初にアメリカで見たことは、なんてラッキーだったのかと思う。

絶対面白いから!とホストシスターに言われて、いそいそと「小道具」の準備をしているのが、とてつもなく不思議だったのを覚えている。

小道具がいるから、と用意していたのは、お米、ライター、水鉄砲、新聞紙。

日本でこれを見たことがないから、同じようなことをするのかわからないけれど、映画を見ながら、これらを使って一緒に「ストーリーに参加」するのだ。

最初の結婚式の場面では、一斉に画面に向かってお米を投げる。

道に迷った主人公たちが、「あそこに灯りが見える」と不気味なお城の灯りを見つけて歌い出す時には、「There's a light」と一緒に歌いながらライターを右に左に振りながら(今思うと危ないよねw)劇場中が灯りの海に。

映画の中で雨が降ってくれば、水鉄砲でお互いに水をかけながら、主人公たちと同じように新聞紙を頭の上に乗せて濡れないようにする。

そのほかにも、歌は、映画の中で歌われているメロディの合間に声をはさむような「掛け合い」になっていて見事だった。

演者とそっくりの格好をした、たくさんのコスプレーヤーがいたのも、とんでもなく衝撃的だった。今のコスプレ、ビジュアル系ロックの原点がこの映画だと思う。

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帰国後に改めて家で見てから相当なファンになったわけだけど、この洗礼を学校が始まる前に受けておいたのは、本当によかった。「楽しい」と心から感じる体験だったから。

そして9月にいよいよ学校が始まって、またまた果てしなく「落ちて」いくことになる。予想はされていたけど、授業がまったくわからない!

新しくできたばかりの高校で、南部に根強く残っていた人種差別をなくすため、街で初めての、黒人の人達との共学。そして私は初めての日本人留学生だった。

言葉がわからない、差別に合う、などさまざまな困難もありながらも
やはり救ってくれたのは音楽。

学校の選択科目として、「合唱」と「ダンス」のクラスをとったことは本当に私の留学生活全般にとって救いだった。

合唱は楽しく歌っているうちに、ピアノ伴奏もやることになり、ダンスはタップダンスなどもやったりして、心から楽しい時間だった。

ディスコにも連れて行ってもらい、音楽に合わせて自由に踊る、ということを生まれて初めて経験した。

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(写真はイメージです)

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(写真はイメージです)

今でも、初めて連れていってもらったディスコのホールの感じ、空気感を思い出すことができる。自由に踊るって?!となっていたのが、私の中で、何かダムが決壊したかのように音を立てて崩れ去り、自由だーーー!と叫ぶ自分が現れた。

開放。解放。 閉じてしまうような出来事もある中でも、
心からそんな開放感を味わった留学生活となった。

最初の3ヶ月、クリスマスまでが山と言われていた留学生活は、その通り、クリスマス頃には友達もたくさんできて、日常会話には困らなくなり、楽しいことがたくさんの毎日だった。

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明日=1979年に続く。


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